前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』 ➂『ヨーロッパ各国革命党の共闘、連合会』結成を画策

   

 qqq

『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』-戦時特別任務

 対ロシア戦での『ヨーロッパ各国革命党の共闘、連合会』結成を画策➂。

  ー機密費の使途-

明石大佐のもとに送られた資金の使途は、日露戦争の新聞記事などの通信、電文の費用などはむしろ微々たるもので、もっぱらロシア革命党、不平党、周辺国の革命党の活動の軍資金提供にあてられた。その内訳には、1904年(明治37)6月末の不平党連合運動の宣伝、活動ビラ、パンフレット製作費であり、翌38年四月末の皇帝(ロシア)暗殺の陰謀が暴露し、有力な同志の逮捕となったのに際し、その善後策のために使用されたものもあり、また銃器購買のためにしたものや、革命党の総務委員にして、戦闘軍長のデカンスキーの計画にかかわるオデッサの海軍転覆への資金提供などにあてられ、効果を発揮した。

当時、英国大使館付武官で、最も親密な間柄の宇都宮太郎大佐が、長岡留守参謀次長に宛てた三十八年六月十五日付の書面の中に、明石大佐の行動にかんし次のように書いている。

- 「…明石大佐の事業は、これまた興って著大の効目有之可申、同大佐も折角大骨折の様子に有之侯へ共、何を申すも多種多様の人物や党派相手のことと申し、一面には警察等の厳重なる、商品の輸入甚だ意のごとくならざるやにて進捗意に任せず、しかし折角尽力中に御座候へば、その結果のあらわれ候ことも一二カ月の内にはなんとか目鼻相付き申さんかと察せられ候由。もっとも大急ぎに急ぎ居られ候へ共、各種の困難有之候哉に御座候…」

 -革命党員との交遊-          、

明石大佐のフィンランド革命党、ロシア、その他の国の革命党員との交遊の端緒は、カストレン・シリヤクスらの大領袖を知ることによって開かれていった。

しかし、その道は容易なことではなかった。ロシア政界には外部からはうかがい知れない激烈な暗闘、派閥、権力闘争の嵐の中にあり、手がかりを求めて真相をたしかめようとしても、漠然としてアプローチできない。一見、革命党の者と見えても、政府の回し者であったりして、とくにボルシェビキ、革命党などのトップの名前、住居にいたっては、トップシークレットで、自由自在に変えるので、その正体を突き止めるのは容易でなかった。

かれらはその素姓をかくし、ヨーロッパ社交界のあいだに出没し、紳士、淑女と交際してその本体をカムフラージュしていた。フィンランドの反抗過激党の首領で、最硬派たるシリヤクスの夫人はアメリカ人であり、サロンのクィーンとして華やかにふるまっていた。明石大佐も、前駐日ドイツ公使であった伯爵ラーデンのパーティーで、彼女と偶然同席したことがあった。

日露戦争の黒溝台の大将グワッペンベルクの従兄の男爵・ダリッペンベルクは、フィンランド憲法党の一領袖で追放されたもの者であり、逓信大臣ヒルコフの弟、公爵ヒルコフは革命党の有力者、また鴨縁江の敗将ザスリッチの姉は、当時ロシアの警視総監を狙撃したヴェラ・ザスワッチで、現に社会民主党の、ナ領袖となっているなど、人間関係は複雑を極めていた。

明石大佐と親しくした伯爵マンネルハイムも、明石に対し「自分の弟は大佐であり、いまやミスチェンコ将軍に従って日本と戦っている。自分は追放された身だが、君とともにロシア軍の敗北を祈っている。ただし自分は、兄弟の情として、弟の無事なことを切に祈っている」と心情を打ち明けた。

このように、人間関係は複雑に絡み合っており、革命党の首領の正体を発見し、接近することは困難を極めていた。

しかし明石大佐は、いまやカストレン、シリヤクスらの領袖とたしかな絆を結び、かれらを操縦するまでになったので、前途は開けていった。

 ―シリヤクスの活動 -

明石大佐を知るに至ったシリヤクスは、これより新たなる活動に入り、明石大佐の名も、次第に革命党員に知れわたり、その交遊はますます密接になっていった。シリヤクスは、その後、直ちに南欧方面の同志と共闘すべくストックホルムを旅立って、成果を上げて帰ってきた。

まずチャイコフスキーの書翰が舞込んだ。チャイコフスキーは革命党中の元老で、その上の虚無党中の最も激烈な一派の長であり、冬宮爆破の主謀者セリヤボフも、モスクワ皇帝革転覆の主謀者バルトマンもアレクサンドル二世の暗殺者たるヴユラ・ヘレクスカヤも、すべてかれの門下であり、当時は革命元老として、総務委員の一人であった。

シリヤクスが、かれからえた手紙の内容では、シリヤクスの提示したロシア革命党を中心として、不平党の一大連合運動を組織することに百パーセントの賛意を呈していた。

もともと、 虚無党はロシア皇帝およびその宮廷や政府がロシアの人民を虐げ、ロシアの国土を掠奪する悪魔であると考えており、一日も早くかれらを滅亡させて人民の勝利を勝ち取ろうと運動していた。日露開戦は、かれらにとって絶好のチャンスでもあった。

すべてのタイミングがピタリとあい、明石工作のターゲットがより明確になってきた。もはやストックホルムの近辺にこもっていることを許されない。

直ちにヨーロッパ中を「明石秘密工作」実現のために行動すべきと悟った。この大事についてはどうしても欧州外交界の元老・林董駐英公使に相談する必要があった。親友宇都宮大佐を介して林公使に会見し、「明石工作」への賛成と後援を勝ち取った。時に明治37年(1904年)の春であった。

七月末になると、シリヤクスの運動の効果は明白となって表れた。明石大佐はここに、それらの諸党派との密接化する関係や、またコーカサス派諸党領袖の意向をたしかめるため、シリヤクスと相前後して、かれらが住むパリに向かった。

パリには、アルメニア社会党の重鎮メリコフ冬爵(アレクサンドル二世の宰相ローレス・メリコフの甥)と、ゲオルギー社会党の緩務委員で元ロシア宮内省書記官であったカノージーとがいた。大佐は彼らの意見をききただした上、シリヤクスはさらにチャイコフスキーに会い、また林公使に会うために、ロンドンに赴いた。シリヤクスが林公使と合うためには、明石大佐が紹介し、まず宇都宮大佐に面会させることとなった。

このフィンランド反抗過激党の首額たるコンニー・シリヤクスは、ストックホルムで明石大佐が最初に会った革命家であるが、その関係は最も深結ばれ、明石大佐の活動の奥はまた彼の手引きによるものであり、形影相離れずで、「革命工作」すべて協議の上になされた。

シリヤクスはのちにパリの連合会議で推されてその議長となり、一そう花々しい存在として活躍、その陰には明石が手綱を引いていた。

  ー スイスに向う明石大佐 -

すでに各党領袖の間に、多くの知人をえた明石大佐は、いよいよロシア反政府党首領たちの集まるたるスイスに向かった。明治三十七年七月末のことで、このときもシリヤクスと相前後してジュネーヴに着いた。

ここには、アルメニア党(トロシヤク党)の首領マルミロフ、ロシア社会民主党のプレバーノフ、革命党の首領で老女のプレジュコヴスカヤ、シシュコフなど、さらにブンド党(ユダヤ社会覚)の首領もおり、風光明媚なスイスで、アルプスの雪に対し、レマン湖の水辺に滞在し、しずかに時機の到来を待った。

ジュネーヴの片田舎なる〝バラの里〟は、これら革命家のかくれ家の最も多いところである。シリヤクスは、まもなく明石大佐に別れて別行動し、大佐はスイス国内のラぺルピー村に隠棲するポーランド国民派の首領バリスキーに会し、その意見を求めた。バリスキーは、アルメニア党のメリコフと同じ意見で、革命党派の連合が果して予期せる好結果をおさめうるか否かは、きわめて疑問をもっていた。しかしかれは党員とはかり、なるべく出席させましょうと約束した。

次に明石大佐は、ドイツに入ってベルリンに足をとどめ、当時オランダのアムステルダムで開かれた、列国社会党大会の情勢を注視し、大会の終るやハンブルグにおもむき、八月末ここでシリヤクスと再会した。

この間、シリヤクスは駆けずり回って、ロンドンにいたポーランド社会党の首領ヨードコーに会い、くわしく各党首領の意向や態度を語って十月に開くべき連合会義への出席を求め、大体その同意をうることに成功した。

つづく

[amazonjs asin=”4404039646″ locale=”JP” title=”明石元二郎大佐”]

 - 戦争報道

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』⑫『英ノース・チャイナ・ヘラルド』/『日露開戦半年前ーロシアは戦う用意ができていること,そして,満州ですでに得ている地位から1インチたりとも退かないことだ。』★『「戦争になるのか,ならないのか,すべては日本にかかっている。日本は朝鮮において守らなければならない大きな利益を持っている』●『ロシアは,木材伐採権を口実に,満州と朝鮮との国境をなす鴨緑江の両岸を要求し,河口の朝鮮側にある竜岩浦の湾を要塞化しているが,朝鮮に対する侵略であり,日本に対する脅威だ。』

 『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』⑫   1903(明治36) …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(1)記事再録/日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(元寇の役、ペリー黒船来航で徳川幕府崩壊へ)ー日清、日露戦争勝利の方程式を解いた空前絶後の名将「川上操六」の誕生へ①

    2015/11/18 /2015/11/2 …

no image
再録『世田谷市民大学2015』(7/24)-『太平洋戦争と新聞報道』<日本はなぜ無謀な戦争を選んだのか、500年の世界戦争史の中で考える>➀

『世田谷市民大学2015』(7/24)- 戦後70年夏の今を考える 『太平洋戦争 …

『Z世代のための昭和史<女性・子供残酷物語>の研究』★『阿部定事件当時の社会農村の飢餓の惨状』★『アメリカ発の世界恐慌(1929年)→昭和恐慌→農業恐慌→東北凶作ー欠食児童、女性の身売り激増』→国家改造/超国家主義/昭和維新→5・15事件(1932)→2・26事件(1936)、日中戦争、太平洋戦争への道へと転落した』

 2020/10/28記事再録再編集 昭和七年(1932) 悲惨、娘身 …

no image
『5年前の記事を再録して、時代のスピード変化と分析ミスをチェックする』-『2018年「日本の死」を避ける道はあるのかー 日本興亡150年史』(2)

★◎『2018年「日本の死」を避ける道はあるのかー 『リーダー不在の―日本興亡1 …

no image
『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』⑳『開戦3ゕ月前の「英ノース・チャイナ・ヘラルド」の報道』★『パーセプションギャップ(思い違い)、エスノセントイズム(自民族優先主義)による憎悪・敵意がメディア(プロパガンダ)で増幅されて戦争を起こす記事の1つ』●『日本と朝鮮、日本の恐怖、ロシアの方針、日本について付け加えるべきこと、日本人の外国人憎悪の程度、日本の孤立』

 『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』⑳ 『開戦3ゕ月前の「英ノー …

no image
終戦70年・日本敗戦史(139)「日本最大のクーデター」2・26事件でトドメを刺された新聞』作家・広津和郎の新聞批判「八百長的な笑い」

終戦70年・日本敗戦史(139) <世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月 …

no image
記事再録/『幕末明治の歴史復習重要問題』明治維新150年の近代日本興亡史は『外交連続失敗の歴史』でもある。

2016年10月28日/ 日本リーダーパワー必読史(742) 明治維新 …

no image
『オンライン講座/東京五輪開催での日本人の性格研究』★『 緊急事態宣言下の五輪―開催も地獄、中止も地獄』★『あと40日余の東京五輪はますます視界不良に包まれている』★『 日本人には何が欠けているのか?論理の技術、科学的思考法だ。西欧の近代合理主義と中国文化圏(古代中華思想)を分ける方法論の違いは、中国・日本の教育制度は.ただ記憶力だけを重視している』

前坂 俊之(ジャーナリスト) 6月9日、東京五輪開催、経済対策、新型コロナ問題な …

「オンライン外交力講座」日本リーダーパワー史(396)『中国が恫喝・侵略と言い張る台湾出兵外交を絶賛した「ニューヨーク・タイムズ」 (1874(明治7年)12月6日付)」★「日中韓150年対立・戦争史をしっかり踏まえて外交力を再構築せよ⑤  

  2013/07/20    …