前坂俊之オフィシャルウェブサイト

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「稀有の海軍大佐・水野広徳年譜●『国大といえども戦いを好む時は必ず滅び、天下安しといえども戦を忘るる時は必ず危うし』

   

●『国大といえども戦いを好む時は必ず滅び、天下安しとい
えども戦を忘るる時は必ず危うし』-
「稀有の海軍大佐、軍事評論家の水野広徳の年譜

 
 前坂俊之(ジャーナリスト)
 
(兵は凶器なり、天道之を悪(にく)むも、己むを得ずして之を用ふるは、足れ天道なり。明治三十七年二月、我が帝国は東洋永遠の平和を維持するため、に己を得ずして兵を起し、露国に向って戦を宣した〉

これは海軍少佐水野広徳(三六歳)が書いた『此の一戦』書き出しの冒頭の文章である。また本稿最終章の末尾の文章が、
(国大といえども戦いを好む時は必ず滅び、天下安しといえども戦を忘るる時は必ず危うし〉
で結ばれていることを意味深長だと思う。(成瀬 恭『水野広徳論』同著作集第1巻解説)
 
               
 
▽明治八年(一八七五)一歳
 五月二十四日、愛媛県伊予国温泉郡三津浜村(現在松山市)に生れる。父光之は旧伊予松山藩士で、母はナホ、兄は光義、姉はヨシ、トコ、チヨで、広徳は第五子。
 父光之は三十七歳で明治維新にあい、下級士族であったため、家禄奉還金として、五、六百円の金禄公債をもらう。この金で駄菓子屋を営んだが失敗。その後穀物屋兼荒物屋を開業。
 
▽明治九年(一八七六) 二歳
 秋に母ナホは三十九歳で死亡。火鉢に尻もちをついて大ヤケドを負う。キズは残らずその後全快するが、母の面影は全く知らず、不幸な少年時代が始まる。
 
▽明治十年(一八七七)三歳
 父光之は母が亡くなったため、商売をやめ家屋敷を売り、松山市北東子町に帰住する。光之は妻帯せず、五人の子供を相手にさびしく、貧しいやもめ生活を送る。
 
▽明治十二年(一八七九)五歳
 六月、光之は愛媛県庁地租改正係に採用される。
 
▽明治十三年(一八八〇)六歳
五月九日に父光之は四十九歳で死亡。家に資産は乏しく、遺された子供五人はそれぞれ親戚に寄食することになり、一家離散。兄光義は身体障害者だったため、広徳が家督相続者となっており、母方の伯父笹井方に引き取られた。
 
▽明治十四年(一八八一)七歳
 松山巽小学校入学。下等八級。成績は時には首席、大体三番以内と優秀だったが、イタズラ、ケンカの常習犯だった。当時、小学校は四年制、ついで松山高等小学校に入学、高等小学校も四年制であった。
 
▽明治十五年(一八八二)八歳
 松山の漢学塾「東条塾」に通う。「大学」「論語」「孟子」を素読す。
 
▽明治十九年(一八八六)十二歳
 秋、友人らと帰宅途中に巡査に捕まり、交番で暴行を受ける。地元の新聞に小学校生徒の乱暴というねつ造記事「あたかも長崎事件…」が掲載される。この事件で子供心に握力の乱用への反抗心が植えつけられる。
 
▽明治二十二年(一八八九)十五歳
 三月、松山高等小学校卒業、伊予尋常中学校二年に入学。
 
▽明治二十三年(一八九〇)十六歳
 二月、イタズラがひどくて、伯母の手におえず、笹井家をついに追い出される。不具の兄はアンマを業としていたが、その兄の家に奇寓する。中学校の学費はようやく出すことができたが、二人の生活を苦しく、惨々たるものとなる。
 
▽明治二十四年(一八九一)十七歳
 学費のかからぬ陸軍幼年学校入学を志望していたが、友人らのすすめで海軍兵学校の志望に切り換える。
 
▽明治二十五年(一八九二) 十八歳
 海軍兵学校入学試科目は代数、英語、漢文だったので、それ以外の課目は学校で出席せず、放縦な自炊生活を送ったため、学業成績は大幅に低下する。
 
▽明泊二十六年二八九三) 十九歳
 兄の発作が激しく、近所に座敷牢的な病室を設けて監護する。三月、中学校卒業試験に落第し、原級にとまるのがイヤになって自発的に退校する。
 八月、初めて海軍兵学校の入学試験を広島で受けたが、代数ではねられる。そこで、学友とともに、郷里の 『海南新聞』を配達する。月酬九十七銭。
 
▽明治二十七年(一八九四) 二十歳
 七月、兄光義は三十歳で病死。幼児に父母を失ない、さらに兄の死で孤独の身になるが、単独で自炊生活をしながら兵学校入学試験準備をした。自ら「郷党の餓鬼大将たり」 と書いている。
 八月、再び海軍兵学校の入学試験を、痔核のため断念する。兵学校の受験資格は二十歳未満となっており、十一月に戸籍の生年月日を明治十年十月二十四日に訂正し、二歳若返った。
 海軍兵学校の入学試験にこれまでの英語、漢文、数学のほかに、一般普通学科目が加えられたため、中学でこれらは不要としてサボっていたため大恐慌。
 このため、五月に愛媛県尋常中学校五年級へ再入学。自炊をやめて下宿す。
 
▽明治二十八年(一八九五) 二十一歳
 八月、三たび兵学校の入学試験を受けたが、漢文で不合格。日活戦争後の海軍拡張政策によって、十二月に兵学校追加募集試験があり、四たび受験し合格する。
 
▽明治二十九年二八九六) 二十二歳
 二月、海軍兵学校生徒を命ぜられ、広島県江田島にある同校に入学。同級生六十二人、中に後の大将野村吉三郎(外務大臣)、小林臍造、中将浦河純一、少将高橋節雄、南郷次郎、日高謹爾、山本信次郎らがいた。
 
▽明治三十一年(一八九八) 二十四歳
 十一月、兵学校を卒業。少尉候補生に任ぜられ、軍艦「比叡(初代)」乗組を命ぜられる。卒業生五十九人中、水野は二十四番、首席は木原静輔、二番は野村吉三郎、三番は小林臍造であった。
 
▽明治三十二年(一八九九) 二十五歳
 前年十一月、卒業と同時に実地練習のため軍艦「比叡」 で北米西岸に遠洋航海へ。三月に横須賀を出航、五月にカナダ・ビクトリア市、米国・シアトル、サンフランシスコへ。ハワイに寄って帰航。巡洋艦「千代田 (二代)」乗組を命ぜられた。
 
▽明治三十三年(一九〇〇) 二十六歳
 正月に海軍少尉に任官、そののち呉水雷艇隊付、上海警備陸戦小隊長、水雷術練習所付、戦艦初瀬乗組、砲艦鳥海航海長心得などを経て、三十四年十月に海軍中尉に。
 
▽明治三十六年(一九〇三) 二十九歳
九月に海軍大尉に進級し、十二月に第十艇隊水雷艇第四十二号艇長に。日露戦争の間はこの職で戦う。
 十一月三日の天長節に連合艦隊と佐世保鎮守府の合同祝賀会が催された席上、水野は泥酔して、第二艦隊司令長官上村彦之丞中将に対して「この馬鹿野郎⊥とドナって、幕僚と取っ組み合いのケンカとなったが、おとがめはなかった。
 
▽明治三十七年(一九〇四)三十歳
 二月、日露戦争開戦、第四十二号水雷艇長として、朝鮮海峡、旅順方面の作戦に従事する。この時の従軍記は『戦影』としてまとめられた。
 
▽明治三十八年(一九〇五)三十一歳
 五月に日本海海戦に参加、水野が所属した第十艇隊は活躍し、連合艦隊司令長官より感状を授与された。この戦記が後年の『此一戦』 として結実する。
 
▽明治三十九年(一九〇六)三十二歳
 三月、海軍軍令部戦史編纂部に出仕を命ぜられ「明治三十七、八年海戦史」の編纂に従事する。東京に初めて居住する。水野がなぜ、編纂にたずさわるようになったのか、というと、日露戦争中に従事した閉塞隊の記録の提出を命ぜられ、書き送ったがそれが締め切り後で、新聞社に送られた。
 全国の新聞に掲載され、水野は一躍、名文家として名を上げた。このため、その文章力を買われて編纂部に出仕となった。四十一年九月、少佐に進級。
 
▽明治四十二年(一九〇九)三十五歳
三月、大内モリ工と結婚
 
▽明治四十三年(一九一〇)三十六歳
 三月二十一日、長男光徳出生。東京在勤は四年六カ月に及んだ。海軍では同一勤務地にに連続五年もいることは稀有のことで、海上勤務を本位とする海軍将校としては不具者となる。
 この間、書物を読む時間を得る。役所から東京・青山の自宅に帰宅後は毎晩十二時過ぎまで自宅で『此の一戦』の原稿を書きつづけた。執筆の動機、記述に関しては「日本海海戦の実情を広く紹介するため」「小説のように平易でもなく、かといって専門に走り過ぎることなく、読者を中学校三、四年生程度に置き、漢文くづしの口語体によることに決めた」と書いている。
 また、特に意を用いたのは敵軍に関する記事で「勇敢なる敵に対して、敬意を表するのは武士道の精神である」と公平、客観的に記述した。九月、編纂の仕事を終え、第二十艇隊司令に補せられ、舞鶴に赴任する。
 
▽明治四十四年(一九一一)三十七歳
 三月、博文館から『此一戦』を発行。当初は著者への印税なしならば出版するという別の出版社があったが、巌谷小波の紹介で博文館より出版。一大ベストセラーとなる。
 七月、佐世保海軍工廠副官兼検査官に転任。部下の処罰問題で上官と対立した結果であった。
▽明治四十五年・大正元年(一九一二)三十八歳
 二月、海軍省文庫主管に転じ、再び東京に舞い戻る。文庫主管は閑職で、文庫の本を手当り次第に乱読、ますます読書に親しむ。
▽大正二年(一九一三) 三十九歳
 日露戦争後、米国の親日ムードは消え、排日問題が起き、日米戦争についてやかましくなってくる。こうした時局に合わせて、日米戦争仮想記『次の一戦』を書くが、都合により発表を見合わせた。十二月、中佐に進級。
 
▽大正三年(一九一四) 四十歳
 友人の窮迫を救うため、『次の一戦』の発表を決意、六月、金尾文淵堂より「一海軍中佐」 の匿名で出版する。この印税を友人に貸与した。
 ところが、『次の一戦』の中に、軍事と外交との機微(機密にあらず)にわたる点があったため、問題化し、匿名出版が発覚し、海軍諸例則による所属長の許可をとらずに出版したという点で謹慎(五日) を命ぜられた。
 この事件によって、本書は注目を浴び大いに売れたが、八月に第一次世界大戦が勃発、日本も参戦することになり、当局の対米外交上の意思を尊重して刊行後三カ月で絶版となった。 十二月、『次の一戦』絶版の埋め合わせとして、金尾文淵堂より『戦影』 (旅順海戦私記)を今度は海軍当局の許可を得て「一海軍中佐」 の匿名で出版する。
 本書は著者の「最も会心の件なり」というものだったが、出版社が破綻して、間もなく書店の店頭から消え去る。『戦影』は『此一戦』に優る作品で、全編にヒューマニズム、反資本主義的傾向が漂っている。 日独戦史編纂委員を命ぜられる
 
▽大正四年(一九一五) 四十一歳
 日独戦史の編纂事業がいやになり、海上勤務を強願した結果、巡洋艦「出雲」副長、ついで、戦艦「肥前」副長に。ところが、十年にわたって水野が艇隊、並びに陸上勤務をしている間に艦務の状態は一変しており、驚くとともにマゴついた。水野は海上の人として立つことのもはや不可能なることを自覚し、方向転換も決意した。
 
▽大正五年(一九一六) 四十二歳
 第一次大戦はすでに三年目に入っており、戦時下のヨーロッパ見学を決意。『此一戦』の印税が約三千円ほど残っており、これに知人の補助など加えて、軍事研究と視察のため欧米各国へ二年間の私費留学を願い出た。七月末にヨーロッパに向けて横浜港から出発、インド洋、喜望峰を経て、九月にロンドンに到着。
 ドイツ軍による英国への空中攻撃、爆撃の近代戦を実地に体験。日本のように木造家屋ならば、空襲によって東京全市が灰じんに帰すことを痛感、それまでの軍国主義、帝国主義思想が動揺する。愛国的見地から戦争否認の思想が芽ばえる。
 
▽大正六年(一九一七) 四十三歳
 二月、ロンドンを発ってパリ、ローマ、再びロンドンに帰り、六月末アメリカへ。ニューヨーク、ワシントン、シカゴ、サンフランシスコなど視察し、八月帰国。この間、六月、渡欧記『波のまにまに』 (実業之日本社) を刊行。
 海軍軍令部出仕、軍事調査会に勤務、十二 二月に『東京朝日新聞』 に「無名氏」 の匿名で滞欧記「バタの臭」を連載する。
 
▽大正七年(一九一八)四十四歳
 海軍大佐に進級。十一月、第一時世界大戦集結。
 
▽大正八年(一九一九)四十五歳
 『大阪毎日新聞』に掲載された姉崎正治博士の軍国主義攻撃に対しての反論を『中央公論』一月号に「我が軍国主義論」として発表。大いに軍国主義の提灯を持つ、と本人は書いている。これより先、数年来、新聞、雑誌に所見や評論を発表し、文名がしだいに高まってくる。
 友人の援助などにより、再び私費留学を出願し、許可を得て三月、戦後のヨーロッパ視察におもむく。六月、大戦の寂大の激戦地であるフランス・ベルダンなどの戦跡を訪ね、近代戦の悲惨を知り、敗戦国ドイツのベルリンでの人々の惨状を目撃、戦争の罪悪が身にしみ、思想的な大転換をとげる。 盲目的な軍国主義者、帝国主義の讃美者から人道的平和主義者に一八〇度転向した。
 
▽大正九年(一九二〇) 四十六歳
 五月、帰国。九月、海軍軍令部出仕という閑職についたが、軍人としての前途に希望を失う。
▽大正十年(一九二〇)四十七歳
 
一月、『東京日日新聞』の依頼により、新記事として「軍人心理」
(五回連載)を書く。軍隊の社会化、現役軍人への参政権の付与までに及び、現役軍人の筆としては、いささか大胆露骨にすぎ、物議を生じた。「上官の許可を得ず文書をもって、政治に関する意見を公表したる」科によって謹慎処分を受けた。
 謹慎後、当局より再出動のすすめがあったが、軍隊はもはや永住のところではないと思い、現役引退を決意する。八月に予備役に編入され、軍服に永久の訣別を告げた。
 以後、軍事、社会評論家として立ち、当時の論壇の中心であった『中央公論』に毎月のように登場して健筆をふるう。
 十一月、ワシントン軍縮会議開催。尾崎行雄、島田三郎、石橋湛山らの加わった軍備縮小同志会に入り、軍縮論を精力的に発表。
 
▽大正十一年(一九二二)四十八歳
一月、渡欧航海記『波のうねり』を金尾文淵堂より刊行する。二月、ワシントン軍縮条約締結。『中央公論』一月号に「軍侃縮小と国民思想」三月号「陸軍縮小の可否と其の難関」、八月号「軍部大臣開放論」と次々に軍縮論を展開、その軍事知識と批判精神は注
目を集めた。この年春、終生の友人・松下芳男が水野を初めて訪問、知遇を得る。
 
▽大正十二年(一九二三)四十九歳
 二月、軍部は米国を仮想敵国とした「新国防方針」を決定する。これに対して、『中央公論』六月号に「新国防方針の解剖」を発表、日米戦争を徹底して分析、日本の敗北以外にないと、日米非戦論を展開、日本国内のみならず、ニューヨーク・タイムズに転載さ
れるなど米国でも注目された。
 この間、前年九月の関東大震災では東京青山南町にあった自宅は被害は少なかったが、病床にふしていたモリエ夫人は大きな精神的打撃を受け、病勢が進み翌十三年六月二十九日に没した。
 
▽大正十三年(一九二四)五十歳
 前年から、『中央公論』にほぼ毎月、軍縮論、日米非戦論、戦争論などで論陣を張り、「左傾的思想」として、当局から危険人物視される。
 五月、衆議院総選挙に際し、実業同志会から推されて、松山から立候補を決意したが、同党への入党をしなかったことや、政界の実情に悲観して、立候補を取り止めた。
 九月、片山哲ら八人の同志と、平和問題研究のための集会「二火会」を起こす。
 
▽大正十四年(一九二五)五十一歳
一月、米海軍が太平洋上で特別大演習を実施する。日米両国民の感情的対立を憂えて、『中央公論』二月号に「米国海軍の太平洋大演習を中心として(日米両国民に告ぐ)」を発表、日米非戦論を主張する。
 
▽昭和三年(一九二八)五十四歳
 二月、総選挙で労働農民党の候補者小岩井浄を応援する。十一月五日、寺尾ツヤ子と結婚する。世田谷区三軒茶屋に新居を建築し、移転した。
 
▽昭和四年(一九二九)五十五歳
『民衆政治講座』の一冊として、『無産階級と国防問題』を出版
 
▽昭和五年(一九三〇)五十六歳
 旅順海戦私記『戦影』を改造杜から刊行。 四月、戦争小説『海と空』を横須賀海洋社から刊行。
▽昭和六年(一九三一)五十七歳
 九月、満州事変勃発
 
▽昭和七年(一九三二)五十八歳
 十月、日米戦争仮想物語『打開か破滅か・興亡の此一戦』を東海書院から発行したが、発売禁止となる。満州事変以来の非常時は、水野の戦争論を発表、執筆が事実上、不可能となる。このため友人の松下芳男らへの手紙や、和歌、俳句、川柳などで時局を批判し、自らを慰める。
 
▽昭和八年(一九三三)五十九歳
 二月、『秋山真之』を監修して刊行。
 八月二十五日に東京・日比谷公会堂東洋軒での「極東平和の友の会」の創立総会に出席。演説中、暴漢が乱入し、会は警官によって解散を命ぜられる。
 この会に出席したことから「左傾的」との世評を受け、九月『僕の平和運動に就いて』と題する小冊子を頒布して、真意を明らかにする。
 『改造』十月号「非常時背後の人」が発表禁止の対象となる。
 
▽昭和十年(一九三五) 六十一歳
 五月、『高須峰造先生』を同伝記刊行会から非売品として出版す 
 
▽昭和十一年(一九三六)六十二歳
 二月、二、二六事件起こる。十一月、松下芳男との共同編纂による『秋山好古』を秋山好古大将伝記刊行会から出版する。
 
▽昭和十二年(一九三七)六十三歳
 二月、『日本名将論』を中央公論社より出版する。以後、当局の監視がきびしくなる。
『戦争の知識』(共著)を青年書房から出版するが、発禁となる。
海軍大臣永野修身に対し「海軍の自主的態度を臨む」と題する公開状を発表する。
 七月、日中戦争勃発。九月、軍事評論家・石丸藤太が軍機保護法違反で検挙され、松↑芳男が資料を石丸に送ったとして拘留され、松下と書簡のやりとりのあった水野も憲兵隊から反軍反戦的思想の持ち主として尋問を受ける。
 
▽昭和十三年(一九三八)六十四歳
 五月、『文と写真 此の一戦』を春秋社から刊行。
 
▽昭和十四年(一九三九)六十五歳
 潮文閣出版の『戦争文学全集』(第九巻)の「水野広徳傑作集」(戦影、此一戦、空爆下の帝都)が発売禁止となる。
 
▽昭和十五年(一九四〇)六十六歳
 六月、雑誌『海運』に寄稿した「戦争と政治」と題する論文は発売禁止となる。
 
▽昭和十六年(一九四一)六十七歳
二月、情報局は『中央公論』編集部に執筆者禁止リストを示したが、この中に清沢洌、馬場恒吾、横田喜三郎らとともに水野の名前も入っていた。水野は前年五月号最後に『中央公論』には登場していない。
 十二月八日、太平洋戦争勃発
 
▽昭和十八年(一九四三)六十九歳
七月胃を患って鵜沢外科医院に入院し手術、十月には聖路加病院に入院、十一月下旬、愛媛県越智郡津倉村本庄(現在の吉海町本庄)へ療養に赴き、十九年二月初旬に帰京。
 太平洋戦争ますます熾烈となる。
 
▽昭和十九年(一九四四)七十歳
 三月、『THIS IS ONE BATTLE』を大東亜出版から刊行。八月『少年版此 一戦』を葛城書店から出版する
 
▽昭和二十年(一九四五)七十一歳
 四月三日、再び津倉村に疎開した。五月二十五日、東京の三軒茶屋の家屋は東京空襲によって焼失した。疎開先で農耕生活をする。米軍機より「水野広徳曰く」として、大正十四年四月号の『中央公論』に掲載された「米国海軍と日本」の1部を記載した伝単ビラが全国にバラまかれた。
 八月十五日敗戦。
十月十八日、疎開先で腸閉塞を起こし、今治市の別府病院で死去。松山市豊坂町蓮福寺に埋葬される。敗戦の前日の八月十二日、一人息子の光徳が召集地のフィリピンで戦死していたが、水野はこれを知らなかった。

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