前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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『オンライン講座・吉田茂の国難突破力➅』★『 日本占領から日本独立へ ,マッカーサーと戦った日本人・吉田茂と白洲次郎(1)★『黒子に徹して吉田内閣を支えた男・白洲次郎』

   

前坂俊之(ジャーナリスト)                            

「Good Loser」(グッド・ルーザー)―という英国の通念がある。「よき敗者」「いさぎよい敗者は勝者と同じ」という意味で、英国騎士道『イギリスゼントルマン』ではもっとも賞賛される態度である。日本の『負けるが勝ち』という諺にも通じる。

1945年(昭和20)8月15日、敗戦、焼け跡のどん底で日本を背負う運命を担った吉田茂の胸に去来したのは在英日本大使時代に学んだこの言葉であり、「終戦宰相」鈴木貫太郎からの「負けっぷりを良くせよ」、「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」との励ましの言葉であった。吉田のこの決意が「何くそ」魂となって点火し、日本復興のエンジンとなった。

吉田政権は通算7年余におよび、大混乱期を乗り切り、廃墟の中から経済、社会を奇跡的に再建して高度経済成長の軌道にのせた。当時、「全面講和か」「単独講和か」で国論は真っ二つとなっていたが、吉田はごうごうたる非難にも耳をかさず、『早期単独講和』に踏み切って、6年後には国際社会に復帰し、日米安保条約を締結した。

この吉田の万難を排した決断力がなければ、独立はもっと遅れ、世界が奇跡と驚いた世界経済大国となってよみがえることはなかったであろう。今、「沈みいく日本」で一番求められるものは吉田のような強いリーダーシップと逆転劇である。

日本の政治家の中で、吉田茂ほど国内的には大きな批判を浴びながら、国際的に通用した宰相はいない。保守反動とそしられながら、強い信念と外交力、コミュニケーション能力を発揮して、欧米、アジアの指導者とも個人レベルで広く交際して、強い信頼関係を築き上げた。

GHQ(連合軍総司令部)司令官・マッカーサー元帥とは持ち前のユーモアとジョークで『昨日の敵は今日の友』とばかり厚い友情を培った。マッカーサーと昭和天皇との会談は13回しか行われていないが、吉田は合計75回も面会、会談しており、いかに2人が強い信頼関係で結ばれていたかがわかる。

イギリスのチャーチル首相ともそうだった。

もともと日露戦争は日英同盟〔1902年締結〕の支援があって何とか勝利した面が大きいが、勝った途端、日本は英国、米国のルーズベルト大統領の恩義を忘れて、その後の国際連盟創設、日米仏英の4カ国条約によって、21年には日英同盟は廃止されてしまう。

当時、ロイド・ジョージ内閣の軍需相で、親日的だったチャーチルは「アジアの大国日本との同盟関係はやめるべきでない」と、最後まで反対の意向だった、という。

その後、チャーチルは第2次大戦でのドイツ・ヒットラーの出現によって、敗北の危機に立ったイギリスで戦時宰相として65歳を過ぎて登場し、日英は今度は敵同士となった。一方、駐英大使として親英米派の吉田は太平洋戦争末期の昭和20年に、和平工作を行った容疑で、憲兵隊に逮捕され失脚していた。敗戦後には外務大臣となり、昭和21年5月に67歳で、チャーチルよろしく『国難脱出内閣』の首相となって登場した。

吉田は日本の独立、国際社会への復帰を果たした後、1954年(昭和29)10月に英国を訪問した際、チャーチル首相を訪ねた。「敵となった日本に腹をたてているだろう」と内心ヒヤヒヤしながら会ってみると、盛大な午餐会を開催して、野党の労働党首まで紹介してくれる歓迎ぶりに吉田は感激した。

2人ともユーモア、ジョークを心から愛し、愛国心と反骨精神を兼ね備えた救国の政治家とであり、すぐ意気投合した。

チャーチルは茶目っ気たっぷりで、吉田首相が演説中に無礼なカメラマンに対してコップの水をぶっかけたのを知っており、「僕はベニスの海岸で泳いでいるときに、カメラマンがうるさくてしょうがないので、波をぶっつけてやった。君はコップの水だが、ぼくは海の波だよ」と冗談をいって、2人とも大笑いとなった。〔朝日新聞昭和40年1月31日付朝刊『チャーチルの思い出』〕

外交とは言葉の戦争である。言葉の外交官である政治家は相手国の政治家、国民にアピールするユーモア、ジョーク、教養、哲学が欠かせない。それが国際的に通用する政治家の最低の条件なのである。

吉田内閣の黒幕・白洲は武士道と英国騎士道をブレンドした「サムライゼントルマン」

 

その面で吉田以上にシャープな外交的なセンスと、国際的な教養、知性の持ち主、しかも反骨精神旺盛なのが白洲次郎である。『日本人には哲学がない』と喝破したのは中江兆民だが、白洲はいわば日本の武士道とイギリスの騎士道をブレンドした「サムライゼントルマン」である。

イギリスの名門ケンブリッジ大学に入学した初の東洋の留学生として、都合9年間、英国生活を送り、普遍的な人間の生き方の「プリンシプル」(原理・原則)と「ディシプリン」(訓練、規律、学問)を身につけた稀有の人間である。

当時、ほとんどの日本人が国内生活だけで日本以外をしらない。もちろん外国で暮らした経験もない。そんな天皇制国家日本が世界無比で最強と自己陶酔していた日本人で、英米との交渉役に白洲ほどうってつけの男はいなかったのである。

吉田は自らの片腕として、GHQとの外交交渉の最前線、歴史の表舞台に白洲を引っ張り出した。1945年(昭和20)12月、終戦連絡事務局参与(のち次長)につけた。白洲はこの時、43歳である。

終戦連絡事務局とは外務省の外局として設置されたGHQ(連合国総司令部)との連絡調整局で、日本国憲法の翻訳チェックやGHQとの折衝、それ以上に吉田の懐刀、参謀、智恵袋、黒幕となったのである。

身長180センチの日本人離れしたハンサムで、英国製の背広をパリッと着込み英国生活で鍛え上げたキングスイングリッシュで、GHQ(連合軍総司令部)と堂々と渡り合い、『試合で負けて勝負で勝つ』というインテリジェンス(叡智)、タフネゴシエイターをぶりを発揮、一歩も引かなかった。

その点では、1904年(明治37)、日露戦争開始と同時に伊藤博文が部下の「米ハーバード大学出身」で時のルーズベルト大統領と同窓生だった金子堅太郎(農商務大臣)をアメリカに派遣して、米国を味方につけるための広報外交に当たらせて、見事に成功したケースをほうふつさせる。

戦争はゲームである。勝ち負けは時の運、勝つこともあれば負けることもある。負けても死ぬことはない。さらに自分の有利になるようにあらゆる手練手管をつかって知恵をしぼる。肝心なのは戦略思想とコミュニケーション能力、交渉力である。

白洲次郎は1902年(明治35)2月に兵庫県芦屋市の超金持ちのボンボンに生まれた。父・文平はハーバード大卒の大貿易商である。次郎は1919年(大正8)、17歳の時に

英国ケンブリッジ大学のクレア・カレッジ・スクール(全寮制)にただ1人の東洋人として入学し、以後9年間にわたって英国貴族、英国紳士のタマゴたちと寝食をともに生活した。近代経済学の祖ケインズの講義を受けたこともある。

ここで徹底して勉強し、英国紳士道(カントリージェントルマン)を叩き込まれた。その間、仕送りが今の金にして何と月数千万円にのぼることもあり、英国貴族の子弟の何倍も贅沢な暮らしをした。自動車時代のはしりに、スポーツカー、高級車ベントレーなどを購入して、『カ―キチ』となってヨーロッパ大陸に豪華なドライブ旅行にでかけては『オイリーボーイ』の青春を謳歌した。

身長180センチとずば抜けた長身でハンサムな日本人だが、ちょっと古いが完璧なキングスイングリッシュを話し、中身はすっかり英国流に鍛え上げられたのである。

この英語力とグローバルに世界観、日本観、国際情報力を養って1928年(昭和3)に帰国する。以後、日本で英字新聞記者、貿易業などに従事しながら、世界中を飛び回り日本には年の半分もいない生活を送っていた。

吉田と白洲の付き合いは1920年(大正9)、駐英大使館一等書記官になった吉田がロンドンに赴任したころから始まり、昭和11年から3年間、駐英大使を務めたが、24歳の親子ほどの年齢差を超えていっそう親密になった。吉田の岳父・牧野伸顕は維新の元勲大久保利通の二男であり、三男の大久保利武が白洲夫妻の結婚の仲人という関係である。ぶっきらぼうの2人はウマが合い、ロンドンのパブで一緒に飲んだり、ビリアードをして遊んだという。

1931年(昭和6)、関東軍の謀略による満州事変がおこり、日本は坂道を転がるように軍国主義、ファシズムが吹き荒れ、対英米戦争のムードが高まってくるが、白洲はさぞかし窮屈な思いをしたに違いない。

この間の愛国排外ムードを「日本の全部が自己陶酔だね。始めはちっちゃな嘘なんだ。それがバレそうになると、だんだん嘘を大きくしてゆく。しまいにその嘘をホントだと自分で思っちゃうんだ」と白洲は付和雷同、自己催眠的な日本人の行動パターンを冷静に分析する。

世界のパワーパワーバランスを体験していた白洲は「日米戦争になれば日本は必ず敗れる、空襲によって東京は灰燼に帰して、食糧難になる」と予見。東京都内から田舎に引っ込む決意を固めて、1943年(昭和18))5月、41歳で町田市鶴川町に完全に引っ込んだ。ここで水田、畑を耕して米、野菜づくりに励んだ。自己の「プリンシプル」に忠実に英国流の「カントリー・ジェントルマン」(田舎紳士)となったのである。

ここで間違ってはいけないのが、「カントリー・ジェントルマン」についてである。この本来の意味は『普段はロンドンを離れて田舎に住んで、地方から政治を客観的に眺める。いざ鎌倉という場合は、中央へ出て行って、自らその姿勢を正す」という意味のイギリスゼントルマンの「プリンシプル」で、白洲はこれを実践した。

 – 現代史研究 マッカー

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