最後の元老・西園寺公望の坐漁荘
1
最後の元老・西園寺公望の坐漁荘
西園寺公望は七十歳とり、政治的に第一線か
ら退いた大正八年(一九一九) に静岡県清
水市の隣の風光明媚な興津海岸の旧東海道
沿いに別邸「坐漁荘」を建てた。小さな岬の突
端に建てられ、海のかなたには三保の松原、
東側には伊豆半島、富士山を望む景勝の
地であった。
約一〇〇〇平方メートルの敷地に、二階建
てで六間のある建物と庭園、別棟に警備詰所
などがあった。ここで第二夫人の中西房子やそ
の子、養女、女中らと住んでいた。 < 坐漁荘の全景>
「坐漁荘」とは、のんびり坐って魚を釣るという隠棲の意味が込められていたが、昭
和十五年(一九四〇)に九十二歳で亡くなるまでが、激動の昭和政治史の裏舞台の
一つとなった。
「坐漁荘詣で」の政治家が絶えることなく、
戦争と亡国へ急速度に転落していく中で、
政治の舵取りをしていた西園寺にとっては
一瞬たりとも気の安まる時はなかった。
明治以来、「元老」の存在は憲法の規定に
ないにもかかわらず近代政治機構における
最高の地位にあった。
内閣更迭の場合は、元老が天皇の諮問に
よって次の総理大臣を推薦してきたため、
絶対主義的な支配者として、政党の党首や
実力者も元老には頭が上がらなかった。
<数奇屋づくりに坐漁荘の偏額
山県有朋に続いて大正十三年 (一九二四) を掲げた玄関>
2
に松方正義が九十歳で亡くなって以来、西園寺が最後の元老として政界に君臨し
た。
西園寺は若くしてフランスに十年間留学し
ており、中江兆民と交遊するなど根っからの
自由主義者。
その政治思想は近代リベラリズム、議会政
治、シビリアンコントロールを信条とし、国際
協調外交を推進し、軍国主義と国家主義を
排除し軍人を毛嫌いしていた。
昭和に入ると、軍国主義、国家主義が奔流
のように高まってくる。
公が大往生を遂げた居間の前か
ら築山の庭園を通して海上を望む
昭和三年に起きた田中義一内閣での満洲某重大事件では、西園寺は「犯人が日本
の軍人であれば、断固処罰してこそ国際的な信用を維持できる」と田中に指示、「この
事件だけは自分が生きている間はあやふやにさせぬ」と強い決意を見せた。
ロンドン軍縮会議、統帥権干犯、満洲事変、 (4の写真)
五・一五事件、二・二六事件と軍ファシズ
ムの暴発が続く中政治は西園寺の望まぬ方
向へとますます突き進んでいった。
西園寺が最後の望みをたくし、後継者とし
て期待したのが近衛文麿で、昭和十二年六
月の第一次近衛内閣の組閣では強力に支
援した。
しかし、近衛は優柔不断で軍部に引きずられ、
日中戦争の解決を見いだせず、期待はすぐ
に裏切られてしまう。
4の写真<三方ガラスに囲まれたベランダでさんさんと降り注ぐ日光を浴びて,新聞に目を通し読
書していた。また、双眼鏡を手に遠く三保の風景を眺めてすごしていたという。>
3
西園寺は政治に絶望し、このまま
では日本は亡国となるという予感が
ますます強くなってくる。
日課となっていた庭の約十分間ほ
どの散歩もしなくなり、体力、気力と
も八十七歳で急速に衰えを見せて
いた。
「わても老齢やさかい、始終、政治
に注意しとるのは苦痛じゃ。元老を
やめようと思うてますのや」と何度も
元老引退を木戸幸一や近衛に漏ら
すようになった。
公が最後まで生活されていた居間
昭和十五年(一九四〇)七月、後継総理の推薦の方式については内大臣、重臣会
議と相談の上で決める、ということに変更された。この年十一月二十四日、西園寺は
九十二歳で亡くなった。
公の最期は、よく聞き取れない言葉で
何かつぶやいたので秘書の原田熊雄が
その唇に耳を近づけて「何事ですか」とた
ずねると、「いったいどこへこの国をもっ
て行くのや、こちは……」と吐き出すよう
に言った。
それまでも公は推薦した近衛や木戸幸
一内大臣に対する不満の言葉をよく吐
いていたが、これが最期の言葉であった。
西園寺公が亡くなってほぼ一年後に太
平洋戦争に突入し、四年後に無条件
降伏した。かつて大正八年のベルサ
よく散策され庭園の柴折戸
4
イユ講和会議に出席した際、西園寺は日本がドイツの二の舞いになるのではとの危
惧の念をもらしたが、その通りになってしまったのである。
『西園寺公は、ついに興津坐漁荘で薨去した。清見寺の鐘の音に耳を傾け、清見潟
をへだてて美保の風光を友とし、公が悠遊自適の生活を送った二十余年間をみとっ
た坐漁荘は、主に別れた悲しみに深く深く閉ざされている。
たゞ心なしか坐漁荘の下、渚さに打寄す波の音のみが無常に響いてくる。
坐漁荘は平生から華をきらふ公の意を入れ、極めて質兼に建てられた邸で、坐漁
荘をはじめて見る人は皆一様に『これが西園寺さんのお邸ですか』と驚くほど漁師町
と軒を並べた手狭な日本建て一軒屋である。
西園寺公は四季と春は東京駿河台の本邸、夏は御殿場船塚別荘、秋は京都の清
風荘、冬は興津の坐漁荘で送っていたが、近年は真の暑さを嶽麓御殿場にさける外
はずっとこの坐漁荘で閑雲野鶴に親しみ政界から遠ざかつていた。
いまや公の薨去とともに『歴史の家』となった坐漁荘な、二十余年堅くく守っていた余
人の門不出入の禁を破って邸内を開放、ありし日の西園寺公の生活としのばめたの
である。』(『写真週報』 昭和15年12月11 日発行)
と書いている。
静岡県立大学国際関係学部教授・前坂俊之
以上は「事典にのらない日本史有名人の晩年」(別冊歴史読本2001 年8月号掲載)
関連記事
-
-
日本リーダーパワー史(61) 辛亥革命百年④ 仁義から孫文を支援した怪傑・秋山定輔①
日本リーダーパワー史(61) 辛亥革命百年―仁義から孫文を支援した …
-
-
日本リーダーパワー史(100)金子堅太郎・日露戦争で全米を味方にした驚異の外交力<世界史上最も成功した外交術>
日本リーダーパワー史(100) 金子堅太郎・日露戦争で全米を味方にした驚異の …
-
-
日本リーダーパワー史(194)<国難を突破した吉田茂の宰相力、リーダーシップとは・・>「首相なんて大体バカな奴がやるもんですよ。
日本リーダーパワー史(194) <国難を突破した吉田茂の宰相力、リ …
-
-
[ 知的巨人たちの百歳学(143)』★『世界の総理大臣、首相経験者の最長寿者としてギネスブックに登録された昭和天皇の叔父の東久邇稔彦(102歳)』★『終戦直後の東久邇宮稔彦首相による「1億総ざんげ」発言後に54日間で、首相を辞任」★『敗戦の責任をとって直宮家以外の皇族は全員皇籍を離脱すべきだ、と主張』★『1947年10月の皇室改革で皇籍離脱し、やっと念願の庶民になった。』
2015/12/12 知的巨人たちの百歳学(143)記事再編集 前 …
-
-
『オンライン/新型コロナパンデミックの研究』-『新型コロナと世界の沈没―コロナ共存社会は数十年続く可能がある②』(8月15日)★『ワクチン開発の国際的な大競争と囲い込み』★『 米中対決のエスカレートは加速一方!』
『新型コロナと世界の沈没―コロナ共存社会は数十年続く可能がある②』( …
-
-
日本の〝怪物″杉山茂丸(すぎやま・しげまる)(一八六四~一九三五)
1 日本の〝怪物″杉山茂丸(すぎやま・しげまる)(一八六四~一九三五 …
-
-
ジョーク日本史(3) 宮武外骨こそ日本最高のジョークの天才、パロディトだよ、 『 宮武外骨・予は時代の罪人なり(中)』は超オモロイで
ジョーク日本史(3) 宮武外骨こそ日本最高のジョークの天才、パロディトだよ、 …
-
-
<日本風狂伝②昭和文壇の奇人ベストワンは永井荷風だよ>
2009,6,10 日本風狂人伝②昭和文壇 …
-
-
kamakura Surfinチャンネル(2023年6月3日午後2時)ー台風2号通過後の稲村ケ崎サーフィンは今年1番のビッグウだったよ。
kamakura Surfinチャンネル(2023年6月3日午後2時)ー台風2号 …
-
-
近現代史の重要復習問題/知的巨人の百歳学(158)-『渋沢栄一(91歳)の国民平和外交を潰した関東軍の満州事変の独断暴走が、日本を破滅(戦争)の道へ陥れた。この4ヵ月後に渋沢は亡くなった』
近現代史の重要復習問題/知的巨人の百歳学(158) 明治、大正、昭和で最高のトッ …
- PREV
- 正木ひろしの思想と行動('03.03)
- NEXT
- 「センテナリアン」の研究
