世界が尊敬した日本人=冤罪との戦いに生涯をかけた正義の弁護士・正木ひろし
2015/01/02
2009,01
世界が尊敬した日本人(49)
冤罪との戦いに生涯をかけた正義の弁護士・正木ひろし
前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
日本の公害闘争の先駆者が明治の足尾銅山鉱毒事件の田中正造とすれば、冤罪という司法の犯罪と正面から戦った人権弁護士の先駆は正木ひろしである。
約120年の日本の刑事裁判史上初めて、本格的な裁判員制度(陪審制度)が今年5月からスタートするが、「権力悪との戦い」に生涯をかけた正木弁護士の業績が今、再び注目を集めている。
正木ひろしは明治29年(1896)9月に東京本所で生まれた。東大法学部を25歳で卒業、米国の思想家・エマーソンに強い影響をうけて、自然主義的、人道的な思想に傾倒し、画家を志望しながら、長野県立飯田中学などの
英語の教師となった。29歳で弁護士を開業、生来の鋭い才能とバイタリティーで一躍、民事弁護の超売れっ子となった。
英語の教師となった。29歳で弁護士を開業、生来の鋭い才能とバイタリティーで一躍、民事弁護の超売れっ子となった。しかし、「こんな多忙な生活を続けていたら、人生台無しになる」とスッパリやめて、いばらの道へと転換した。
昭和12年、42歳で月刊個人雑誌「近きより」を発刊、「大義なき戦争」と「亡国への道」にのめりこんでいく時局、社会を巧な比喩や隠喩で痛烈に批判した。昭和19年には茨城県内の炭鉱で警察官が現場主任を拷問死させた首なし事件で、被害者の遺体を墓場から掘り出し、その首を切断して、東大法医学教室に持ち込み、その拷問鑑定書を証拠に警察官を告発した。
さらに、時の最高権力者・東条英機首相に対して「責任を取れ」と退陣を迫るキャンペーンを行い、「かかる低級な人物が権力をほしいままにしていた」とまでズバリと書いた。特高警察が猛威をふるい、ちょっとした批判的言動でも殺されかねなかった時代に、超人的な勇気と行動を示した「戦前、唯一の日本人」と「暗黒日記」の著者のジャーナリスト・清沢洌は高く評価している。
そして、昭和20年(1945)8月、予言通りの日本は敗戦した。正木は戦後も「近きより」の刊行を休むことなく続け、さらに多くの無実に苦しむ人の救済に立ち上がった。18年に7度の裁判を繰り返し、3度の最高裁でやっと無罪が確定した八海事件。獄中から無実を訴えてきた死刑囚の手紙に対して正木は次のような返事を出した。
『どんなことがあっても君たちを見殺しにするなことは絶対にない。僕は君と生死を共にする。それがキリストの教えである』(昭和29年10月25日付)。正木60歳である。彼はこの言葉を寸分たがわず実行した。同事件の冤罪を告発した記録「裁判官」を出版して大ベストセラーとなった。これを映画化した今井正監督「真昼の暗黒」も大ヒット、裁判批判の社会現象を引き起こした。
正木はこのほか天皇プラカード事件、三鷹事件、チャタレイ事件、菅生、丸正、白鳥事件などの著名な数々の冤罪事件に自分の原稿料などを当て、貧乏生活に耐えながら手弁当で取組んだ。その論理的で鋭い推理力、科学的な弁護技術で多くの無罪を勝ち取り、「日本のぺリイ・メイスン」、「最高の人権、正義の弁護士」と呼ばれた。
しかし、丸正事件では弁護人として無実の被告に代って真犯人を告発したのに対し、検察によって名誉毀損罪で起訴され、被告の座″に、ついに有罪判決を受けた。晩年には志に反し「現日本の司法制度においては正義の実現は不可能であることを私は証明した』との悲しい結論に達し、昭和50年(1975)12月に 79歳で〝被告″のまま不帰の客となった。
私は生前の正木には何度か取材に行った。昭和49年に八海事件を調査のために会った際、「誤判の検討に向けた貴君の霊感を偉とする。日本の裁判制度と人を根底から洗いなおしてほしい」との丁寧な手紙を受け取った。
正木は日本では珍しいルネッサンス的な巨人で、思想家、弁護士、ジャーナリスト、画家などマルチ才能を発揮し、単なる文筆、口舌の徒ではなく、戦闘的ヒューマニスト、キリスト教者としてその思想を実践、行動した。日本では数少ない正義の人であった。
「日本は1度もルネッサンス(人間解放)を経験していない。僕はこの暗黒の社会を灯す残置灯を自負している。将来の日本の1つのモデルになればと思っている」と語ったのが強く印象に残っている。
関連記事
-
-
日本リーダーパワー史(806)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦争に勝利』した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェンス㉑『第一回日露交渉(小村、ローゼン交渉)は両国の満州への「パーセプション(認識)ギャップ」が大きく物別れに終わる、日露開戦4ゕ月前)
日本リーダーパワー史(806)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦 …
-
-
「日中韓150年戦争史」(72)「朝鮮王朝が行政改革を行えば日本は東学党反乱を鎮圧にあたる』『ニューヨーク・タイムズ』
『「申報」や外紙からみた「日中韓150年戦争史」 日 …
-
-
日本リーダーパワー史(78) 辛亥革命百年(15)平山周、犬養毅の証言する孫文との出会い
日本リーダーパワー史(78) 辛亥革命百年(15)平山周、犬養毅の証言する孫文と …
-
-
『世界漫遊記/ヨーロッパ・パリ美術館ぶらり散歩』★『ピカソ美術館編⑧」★『⑩ピカソが愛した女たちーその多種多様、創造的インスピレーションには本当に圧倒されますね。』
2015/06/15 『F国際 …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(101)』「パリぶらぶら散歩(2015 /4/30-5/3)★『パリ・オペラ地区の大衆レストラン、シャルティエは 百年以上パリ市民から愛されてきた名店,銀座にこんな居心地のいい親しみやすい店はない』
逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/10/11/am700) &n …
-
-
「Z世代のための日本宰相論」★「桂太郎首相の日露戦争、外交論の研究①」★『孫文の秘書通訳・戴李陶の『日本論』(1928年)を読む』★『桂太郎と孫文は秘密会談で、日清外交、日英同盟、日露協商ついて本音で協議した①』
2011/08/29 日本リーダーパワー史(187)記事再編集 以下に紹介するの …
-
-
昭和戦前期に『言論の自由」「出版の自由」はあったのか→谷崎潤一郎の傑作「細雪」まで出版を差し止められた『出版暗黒時代』です①
昭和戦前期に『言論の自由」「出版の自由」はあったのか→ 答えは「NO!」ーー19 …
-
-
『日中台・Z世代のための日中近代史100年講座②』★『宮崎滔天兄弟が中国の近代化を推進した(下)』★『1905年(明治38)8月20日、東京赤坂の政治家・坂本金弥宅(当時・山陽新聞社長)で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同で「中国同盟会」の創立総会が開催され、これが『辛亥革命の母体となった』
同年9月1日、滔天は横浜で初めて孫文に会った。大陸風の豪傑を想像し …
-
-
★『鎌倉釣りバカ人生30年/回想動画記/』③★『3・11福島原発事故から1ゕ月後の鎌倉海の様子』★『May in KAMAKURA SEA』=『海は大波、小波で魚は御留守!じゃ』<『沈黙の春』が依然続くね>』
2011/05/21 /鎌倉釣りバカ日記」記事 …
-
-
『現代版・葛飾北斎のf富嶽三十六景動画』★『白雪姫/富士山」を愛する鎌倉散歩ー材木座海岸、和賀江島上、逗子マリーナからの富士山はワンダフル!』
2015/01/11 動画版再編集』 湘南海山ぶらぶら日記ー「白雪姫のような富士 …
