日本風狂人伝⑤ 三上於菟吉・奇行は酒にあり、作家は酒家よ
日本風狂人伝⑤
2009,6,20
三上於菟吉・奇行は酒にあり、作家は酒家よ
前坂 俊之
(みかみ・おときち / 一八九一~一九四四)作家。大正五年に講談雑誌に『悪魔の恋』を発表。大衆通俗小説の旗手となり、時代物も『敵対日月双紙』などを週刊誌に書き、新風を吹き込む。『黒髪』『淀君』『雪之丞变化.』などが代表作。妻は女流文学者の長谷川時雨で、おしどり夫婦として有名。
大正から昭和初期の流行作家、三上於菟吉は『日輪』『雪之丞変化』などの大衆小説で人気があった。
大変な売れっ子で、原稿料は四〇〇字詰めで、一枚一〇円。文壇では大御所といわれた菊池寛と並び称されており、所得番付でも菊池とトップ争いをしていた。「原稿はニセ札で、人生は酒」というのが三上の人生観で、料亭を書斎代わりに使い、次々に料亭をかえ、所在をくらまし、編集者を泣かせた。目の前に芸者のアデ姿を四、五人並べて、ふざけたり、冗談を言いながら、ヒザ枕をさせ、せっせと〝ニセ札づくり〟に励んだ。
三上は待合では、たいがい編集者のとりまきと酒宴を開いており、豪快に酒をすすめる。相手が断ろうものならサア大変。口を割ってムリヤリ飲ませた。
アルコール中毒で、飲むと気分がいっぺんにかわり、笑っているかと思うと、急に怒り出したり、相手のメガネや帽子を便所に捨てたり、ワイシャツをビリーッと引き裂いたりした。
大変なさびしがり屋で、相手が席を立つと「帰るな!」といつも引き止めた。
中央公論に『原稿贋札説』を発表して、物議を醸したが、高額な原稿料はこうした酒宴で、湯水のごとくつかい果たした。
三上は原稿を書き終えても、編集者の受け答えが悪いと、機嫌を損ねた。
原稿を受け取った編集者が、挿画に回すために「先生ありがとうございました」と立ち上がると、
「できた。さあ、帰るか。ふん、そんな奴には原稿は渡せない。返せ」と三上は編集者から書き上げたばかりの原稿を引ったくり、いきなりビリビリに破ってしまった。
次の順番を待っている編集者仲間に、声をかけないで立ち上がったのが、けしからんというわけである。
「おかげでやっとできました。みなさん、すみませんが、急ぎますので……」と残る人に酒をついで、帰らなければ、怒ったのである。何とも気むずかしい男であった。
三上の酒をめぐるエピソードをもう一つ。
ある不遇の作家が、三上のところに金を借りにきた。
「ああいいとも。だが久しぶりだから酒を飲もう」と三上は、この作家と料亭に行き豪遊した。翌日「僕は帰りたい。五円貸してくれないか」とこの作家が催促すると、三上は「ああいいとも、だが、もう一軒行こうよ」と、また別の料亭に一緒に行き、豪遊して泊った。
翌朝も同じで、この作家が「ぜひ貸してほしい」と頼むと、三上は「まかせとけ」と言い、また別の料亭をはしごして、結局金は貸さなかった。「車代だけでも、俺にくれればな…」とこの作家は嘆いた、と谷崎精二は『三上於菟吉のこと』の中で書いている。
三上は上野、大森、牛込、神楽坂など東京都内の待合を転々としており、この間は市ヶ谷の左内坂の自宅へはまったく連絡しなかった。
このため、夫人で「女人芸術」を主宰していた長谷川時雨は、本人に電報を打つかわりに全国紙の人探しの欄に『三上於菟書居所を知らせ』との広告を何度も出して、文壇のゴシップになった。
あまりの豪遊でツケがたまって、料亭で足止めをくらうこともあった。すると〝勘定奉行″をしていた友人が各社を回って前借りし、たまには本物のニセ札(前に書いた原稿の引き写し)を持参して、本札(現金)にかえて支払い、やっと解放された。
三上を「天才のできそこない」と作家の宇野浩二は評した。谷崎精二は、「紙幣をたいて薪とし、女を絞って油とした燃料で人生を荒れ回った〝虚無の豆戦艦″」と評した。
三上の書くスピードはめっぽう早かった。万年筆を手にすると、三、四枚を一気に書いてしまい、それまで筆は決して休めなかった。新聞一回分なら、わずか一時間半、雑誌に連載中の長編でも、四〇枚くらいのものは五、六時間で仕上げ、質が落ちるということはなかった。新聞小説一回分を書き上げると、その日の仕事は終え、あとは酒と女で遊んだ。
その達筆ぶりも伝説と化していた。一晩で一〇〇枚書いたとか、酒を飲みながら猛烈なスピードで書き上げた、とかウワサされたが、一昼夜に、七五枚書いたのが最高。酒を飲みながらというのもウソ。いつも原稿を催促する編集者が飲んでいる横で、談笑しながら書いていた。
締め切りギリギリになると、ハチマキを締めて机の前で「サァー」と大声で気合をかけて、原稿用紙に向かって、サラサラと書き上げた。
「宮本武蔵」を書いた吉川英治とは、ともに大衆文学の旗手として、お互いに友情を結んでいた。昭和二年二・二六事件が起こり、暗く沈んだ世相を阿部定事件が吹き飛ばしたが、吉川は三上にひっかけた川柳を詠み、親しい編集者に封書で送った。
それには「近時断根零僕案」と銘うって、
ふくろ町おれのは有ると抑へ見
うなされてそッと手をやるふくろ町
ふくろ町は牛込の袋町のことで、三上の愛人が住んでいたところ。阿部定の男根切断をこれに引っかけた狂句であった。
三上も五〇歳近くになって、親しい編集者に老後の〝金の玉″作りを相談した。
「ぼくはこれから少し金を作るよ。それを金のザボン位の大きさの玉にして、小さい小屋を作り、日当りのいい廊下で日なたぼっこしながら、金の玉をゴロン、ゴロンと転ばして遊ぶ。お金がなくなったら、それを少しずつ削って売る」
相談を受けた「講談倶楽部」の編集者は、三上の愛人に毎月の原稿料約五〇〇円を渡し、かなりの期間そうしていた。昭和二年夏、三上は大森で交通事故にあい、その後、脳塞栓で倒れ、作家生活は終わった。
金の玉はできなかったが、毎月たまっていたその金は、三上の治療費に回された。
関連記事
-
-
日本敗戦史(46)ガラパゴス日本『死に至る病』―国家統治/無責任欠陥体制『大本営』『大本営・政府連絡会議』『最高戦争指導会議』 『御前会議』の内幕
日本敗戦史(46) 「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の内幕 <ガラ …
-
-
『『Z世代のための日本最強の宰相・原敬のリーダーシップー研究④』★『派閥の子分たちには<富と名誉は諸君の取るに任せる。困難と面倒は自分に一任せよ、と命じていた。」④
2012/08/03 日本リーダーパワー史(291)記 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(123)/記事再録★『ニューヨークタイムズが報道した日韓150年戦争史』☆1895(明治28)年1月20日付『ニューヨーク・タイムズ』 ー 『朝鮮の暴動激化―東学党,各地の村で放火,住民殺害,税務官ら焼き殺される。朝鮮王朝が行政改革を行えば日本は反乱鎮圧にあたる見込』(ソウル(朝鮮)12/12)
2019/07/04   …
-
-
百歳生涯現役入門(177)ー『晩年の達人の渋沢栄一(91歳)②』は70歳で、自ら創立した59の会社と17の団体役員から身を退き、76歳で完全に実業界から引退』★『86歳以後、彼の公共的な肩書、社会的貢献事業は50近くあった』●『会社の用はわがものと思え。会社の金は人のものと思え』★『楽隠居的な考えをせず、死ぬまで活動をやめない覚悟をもつ』
2017年8月6日/百歳生涯現役入門(177) 渋沢栄一1840年(天保11)3 …
-
-
『棺を蓋うて』ー冤罪救済に晩年を捧げた正木ひろし弁護士を訪ねて』★『世界が尊敬した日本人―「司法殺人(権力悪)との戦いに生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝12回連載一挙公開」』
『棺を蓋うて』ー冤罪救済に晩年を捧げた正木ひろし弁護士を訪ねて 前 …
-
-
『わが書斎の窓から』ーわが夏のエンターテーナー/ミンミンゼミ君が桜の古木で発啼きじゃ( 2012/07/30))★『2023年夏はアブラゼミも、ミンミンゼミも、ツクツクボウシも全く来ない、地球環境異変じゃ!』
わが書斎の窓からー わが夏のエンターテーナー/ミンミンゼミが桜の古 …
-
-
『Z世代のための百歳学入門(187)』★『「長崎の平和祈念像」を創った彫刻家・北村西望(102歳)の創造の秘訣』★『日々継続、毎日毎日積み重ね,創造し続けていくと、カタツムリの目に見えないゆっくりした動きでも、1年、2年、10年、50年で膨大なものができていくのだ。』
2019/10/29 『リーダーシップの日本 …
-
-
『オンライン/藤田嗣治講座』★『1920年代、エコール・ド・パリを代表する画家として、パリ画壇の寵児となった藤田は帰国し、第二次世界大戦中には数多くの戦争画を描いたが、戦後、これが戦争協力として批判されたため日本を去り、フランスに帰化、レオナール・フジタとして死んだ』
ホーム > 人物研究 >   …
-
-
ジョーク/ミステリ―?日本史(7)明治のトップリーダーは超人、奇人、変人ぞろい<アルコール中毒で妻を切り殺した疑惑が浮上した2代目首相・黒田清隆>
ジョーク/ミステリ―?日本史(7) 明治のトップリーダーは超人、奇人、変人ぞろい …
-
-
『百歳学入門(202)』<100歳社会の手本―葛飾北斎に学ぶ -「創造力こそ長寿力」★『70歳以前に画いたものは取るに足らない。八十歳にしてますます精進し、九十才にして奥義を極め、百才にして神技となり、百才を超えて一点一画を生きているように描きたい』(画狂老人述)
100歳社会の手本―葛飾北斎に学ぶ ―「創造力こそ長寿力」 私は富士山マニアであ …
