日本作家超人列伝(40)マスコミの帝王・大宅壮一、国際事件記者大森実、トップ屋梶山季之、大仏次郎、伊藤整ら
日本作家超人列伝(40)
マスコミの帝王・大宅壮一、国際事件記者大森実、トップ屋梶山季之、大仏次郎、伊藤整、井伏鱒二、大岡昇平
前坂 俊之(ジャーナリスト)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
ボードレール流にいえば、人生は一行のエピソードに過ぎない。その人物の思想、生き方、行動も結局はユニークなエピソードやけっさくな笑い話に集約され、語りつがれていく。そのエピソードがどこまでマトを射ているものか、なかには嘘っぱちなものもあるだろうし、誇張して伝えられたものもあるだろう。
しかし、おもしろい奇行や断片的なエピソードの方がより生命力を持ち、伝説となり、歴史の重要な部分を形づくっていくことも、また事実なのである。人びとは一冊の伝記よりも、1行のエピソードの方を好むものなのだ。
ここでは、明治以来の各界の巨人たちのおもしろいエピソード、珍談、奇談を集めてみた。
スカウト結婚〃したマスコミの帝王
昭和三、四〇年代に『マスコミの帝王』といわれた評論家の大宅壮一(一九〇〇~一九七○)は講演会で地方に出かけた時、会場でステキな美人を見初めた。
5日後知人を使者に立て、その女性に結婚申し込みに行かせた。
女性は「ノー」と拒絶した。3日間無言の抵抗をした。大宅は乗り込んでいき、「将を得んとせば、先ず馬を射よ」とばかり母親と兄を必死で口説いた。
そして、やっと結婚にこぎつけた。現夫人の大宅昌で、昭和6年5月のことである。大宅はこれを〝スカウト結婚〃と名づけ、「講演会で釣り上げてきた」とのちまで自慢していた。
漫画家のサトウ・サンペイが大宅に会って、「マンガは大変です。いい案がでないと油汗が流れてきます」と話すと、大宅はこう言った。
「スランプ脱出法はね、三つのことをすればいいんだ。
人に会うこと。本を読むこと。旅をすること」
終戦後、あまり月日のたってない頃、大宅壮一が岡山に講演に出かけた。その夜は駅前のホテルに泊まった。
そろそろ寝ようとした時、ボーイがやってきて、「ホテルが満員で泊まるところがなくて困っている人がある。同室願えませんか」と言った。
大宅が「一体なんていう人か」と開くと、ボーイは「たしか、トシエ様とかおっしゃいました」
と言う。大宅は「トシエ」と聞いてすっかり女性と信じ込み、「いいですよ」と答えた。
大宅が胸をわくわくさせて待っていると、女性ではなく男のそれもジジイが入ってきた。しかも、お互い親友同士の毒舌の経済評論家で「小汀利得」(おばま りとく)だった。
小汀利得といっても、今の若い人は知らないかも知れない。TBSの時事放談で細川隆元の相手もいろいろ変わったが、小汀利得と対談していた時が一番、迫力があった。
その小汀が、フロントで自分の名前にわざわざ「利得=トシエ」とフリガナをつけたのを、ボーイが変わった名前なので覚えていたのである。
大宅がある時、子供に言った。
「お前たち、このなぞなぞ知っているかい」
「なーに。お父さん」
「冷蔵庫に入っている、シューベルトの交響曲なーんだ」
「エー!?・・・・・」
「教えようか、ミカン水交響曲だよ」
昭和38年元旦からサンケイ新開にライフワークの『炎が流れる』に取り組んだ大宅は座って運動もせず書き続けていたたためだんだん肥ってきた。ダイエットするため、コンニャク療法をはじめた。
朝、昼、晩、夜食もすべてコンニャクを食べた。コンニャクは八百屋から樽で買ってくるほど。83キロ譲った巨体がアッという間に70キロにやせたが、逆に栄養失調になり、ライフワークは中断してしまった。
この大宅の弟子の1人がフリーラーター・梶山季之(かじやまよしゆき)(一九三〇~一九七五)である。『週刊文春』などが登場した段階でトップ屋、週刊誌ライターのはしりとなり、作家に独立してからはー晩300枚を書いたとのウワサもでた文壇きっての多作家となった。
その梶山がベストセラー作家として売り出しの頃、月産1200枚を書いた。新聞1本、週刊誌3本、月刊誌6本といった具合である。
文士仲間ではその多作ぶりに尾ヒレがついて、「梶山は一晩に300枚書いた」「電話で注文して、タクシーでかけつけたら30枚の短編ができ上がっていた」等々……。
梶山は「いくら私が書くのが早いといっても一晩で300枚も書けるわけがない。正確にいうと、三日二晩 - つまり二晩徹夜して270枚書いたというのが本当だ」と。 それにしても、やっぱり怪物である。
ライバル社に乗り込んで特ダネを度胸取材
昭和戦後のジャーナリストで、国際事件記者として最も華々しく活躍したのは大森実(おおもりみのる)81922年1月 – )である。その大森は大宅と友人で、一緒に世界を取材してまわった。今の取材力もまるでない新聞記者たちと違って、度胸も食いついたら離さない根性も並はずれていた。
国際ジャーナリスト・大森実がまだ駆け出しで、毎日新聞大阪社会部で事件記者をしていた頃、ある坊やが間違って劇薬を薬局でもらい、飲んだら大変なことになるというので大騒ぎになった。
朝日はこの坊やをいちはやく本社に連れていって取材していたが、これを察知した大森は朝日の取材車に知らん顔で同乗、本社へ乗り込んだ。玄関で守衛が阻止したが、「どこの新聞社であろうと国会であろうと、取材は自由だ。何をいうか」と押しのけて入って行った。
そして朝日の社会部長に「坊やに会わせてほしい」と堂々と申し入れたが、その気塊に押されたのか、3分間だけ取材を許された。
大森はサッと話を聞き、社会部長の電話で原稿を送ったが、この間、社会部の記者たちはアッケにとられて見守っていた。特ダネをライバルの社に乗り込んで取って、社会部長の電話で送ったのは大森が最初で最後であろう。
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大森のエネルギッシュな取材力と猛烈なスピードの執筆については、いまだに語り草になっている。
大森がワシントン特派員時代、超繁忙の合い掛をぬって、わずか3日間で原稿用紙500枚におよぶ 『特派員五年』という単行本を書き上げた。
ベトナム戦争が激化した昭和40年、大森は外信部長として現地に乗り込み、新聞一頁、場合によってはそれ以上という長文のスクープを次々に打電、電話代だけでも1000万円以上にのぼり、会社を驚かせたといわれる。
この時の連載『炎と泥のインドネシア』(1965年度) は大評判となり、新聞協会賞を受賞した。
旅行には縄バシゴ持参、タクシーは命を運転手に託すから大嫌いだった伊藤整(いとうひとし)
作家の伊藤整(一九〇五~一九六九)は自分で責任を持つという考えが徹底していた。
タクシーに乗るのが大嫌い。自分の生命をタクシー運転手に託するのがイヤだったのである。やむを得ずタクシーに乗ると、降りるまで、不意に備えて両足を強くつっぱっていて、運転手から嫌味をよく言われた。
旅行する時は、カバンの中に絶えず命綱を入れていた。普通のロープではなく、ビニールのヒモで、両端に針金のカギがついていた。万一、火事でもあり、旅館やホテルの高いところから逃げる場合に備えていたのだ。
飲み屋のツケのおかげで直木賞受賞したのは・・
井伏鱒二(1898年– 1993年)はは左翼全盛時代にユニークな作風だったため、長い間無名時代が続いた。昭和13年、やっと書きおろしの長編『ジョン万次郎漂流記』で第6回直木賞をとった。佐藤春夫が選考委員の一人だったが、
「井伏は方々の飲み屋で借りてるそうだから、あいつにやろう」ということで決まった。
受賞を聞いた井伏は、
「むろん、金はくれるでしょうね」
作家賞総ナメの大家も獲れなかった大賞″とは・・・
大岡昇平(1909年– 1988年は昭和53年、『事件』で日本推理作家協会賞を受賞した大岡昇平。芥川賞をはじめ主要な賞をほとんど稔ナメしている大岡も、この賞はよほどうれしかったのか、授賞式のパーティの席で丸谷才一をつかまぇて自慢した。丸谷も芥川賞、谷崎賞はもらっている。
「どうだ。とれるものなら、とってみろ」
しかし、丸谷もさる者。
「大岡さんだって絶対とれない賞もありますよ」
「何だ。一体それはけ‥」
「女流文学賞ですよ」
〝オサラギ″を“ダイブツ″と読んでも間違いとはいいきれない訳は
大仏次郎(おさらぎじろう)(1897年 – 1973 年)は神奈川県鎌倉市の長谷の『大仏』の裏に住んでいた。本名は野尻清彦だったが、そのため、ペンネームを「大彿次郎」と名乗り、『鞍馬天狗』から『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』まで大量の作品を続けた。
大彿次郎は大変な猫好きだった。野良猫や捨て猫がどんどん集まるのをわが子のように可愛がった。もともと、大備には子供がなかった。
大俳の家には屋根といわず、庭といわず、家の中はもちろん、・計17匹のネコが我がもの顔で住んでおり、さながら〝猫屋敷″だった。
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