前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

記事再録/『2007年にちょうど100年目を迎えたブラジル日系移民の苦難の歴史』

      2019/06/09

新橋演舞場上演  2007,11月 「ナツひとり」パンフレットに掲載
 

『2007年にちょうど100年目を迎えたブラジル日系移民の苦難の歴史』

 
    前坂 俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
 
2007年は日本からブラジルへの移民が始まってちょうど100年を迎えます。
 
日露戦争から3年ほどたった明治41年(1908)4月28日、日本人781人を乗せた第一回移民船「笠戸丸」が神戸港を出航し、約2ヵ月の航海の末にブラジル・サントス港に到着しました。『コーヒーの木に金がなる、夢の大地』に移民たちは希望に胸を膨らませて第一歩を印しましたが、想像以上の苛酷な運命が待ち構えていました。
 
ちょうど、アメリカの奴隷解放の影響で、ブラジルでも20年前に奴隷を解放したため、コーヒー農園は著しい労働力不足となり、世界中から移民労働者をかき集めていました。大部分はヨーロッパ系移民(イタリア、スペイン、スラブ系)でしたが、その奴隷的な待遇が各国で問題となり、移民を制限され、困ったブラジルは日本人を新移民として受け入れを始めたのです。
 
この結果、笠戸丸以来、明治、大正、昭和戦前までに19万人、昭和戦後には6万人の計約25万人がはるばる海を渡って移住し、ブラジルは世界で日本人の最も多い移住先となりました。
 
奴隷の代わりの移民労働者として同化を求めたブラジル側に対し、日本人移民たち出稼ぎ労働者として、3,4年働いて、しっかり金をためて故郷に錦を飾ろうと甘く考えていた互いの認識ギャップが大きな悲劇を招くことになります。
 
サンパウロ州などに入耕した移民の生活はきびしく悲惨なものでした。広大な農園に数十万本のコーヒーが樹海のように植えられ、強烈な日差しの中で長時間の過酷な肉体労働。借金と低賃金に、労働者住宅(コロニア)はローソクの光で土間の中で枯れ草やヤシの木を敷いた上に寝るだけの粗末で貧しい生活でした。
 
アマゾンの入植者はもっとひどい状況で、1年もすると、入植地を逃げ出す移民が続出します。過酷な労働による栄養失調、マラリアなどでの病死、耕地放棄、夜逃げ、流浪、絶望の末の自殺など、棄民としての運命にあえいだのです。
 
明治以来の日本の「富国強兵」「殖産振興」「人口増大」のスローガンの下で、国策として移民は遂行され、大正期に入って一層盛んになります。ブラジル移民の最盛期は国からの渡航費の全額補助となった大正14年(1925)から、ブラジルが移民を制限した昭和9年(1934)までの10年間で「満州に行くか、ブラジルにいくか」と国内では海外移民大ブームとなり、この間に計13万人以上が海を渡りました。
 
特に、昭和8,9年は年間で各2万2、3千人とピークを迎え、高倉一家がわたった昭和12年(1937)には4600人が食べられない、貧しさからの脱却を夢見て移住しています。
 
この背景には当時の日本の農村の窮乏があります。
 
世界恐慌の直撃(昭和5年)によって農業恐慌が一層深刻になった上に、昭和6、9年には東北大凶作が襲い、農家は飢餓に苦しみ、欠食児童が増加し、借金の方に娘を身売りする農家が続出します。
 
北海道の農家も似たような状況で、この窮状を知った陸軍の青年将校たちが、2・26事件などの反乱・クーデターを起こし、その後の戦争への道を開く要因となったのです。
 
移民が増えるとサンパウロなどに日本人街が生まれ、同化しない日本人に対してブラジルから「排日問題」を突きつけられ、日本語学校の日本語教育の禁止、太平洋戦争になると、米国と友好関係のブラジルは日本に対日宣戦を布告しました。
 
太平洋戦争の勃発、1945年8月の敗戦という日本の運命の変転とともに、日本人移民の立場はブラジルでも二転三転して、一層、苦難の歴史を歩むことになります。
 
日系人やその2世たちは『2つの祖国の谷間』に置かれ、きびしくアイデンティティー(共同体への帰属意識)を問われました。終戦直後には、「勝ち組、負け組」騒動で大混乱に陥りました。
 
情報の途絶と愛国心から、敗戦を信じない移民が多く、日系社会は『勝ち組』「負け組」に2分され、勝ち組が敗戦を認める負け組みの幹部らを襲うという暗殺、テロが続発して、約30人が死亡し、200人近くが負傷する悲劇的な事件が起こり、深刻な対立、分裂状態が続きました。
 
日本が独立後の昭和28(1953)から移民は再開され、アマゾンの中流に入り、開拓、開墾に従事するなど戦後移民は合計約6万人にのぼりました。
 
こうした数々の試練と、混乱、苦難の中で、斃れていったたくさんの移民たちと同時に、不屈の闘志で困難を乗り越えて、ブラジル社会の中に溶け込んで、政界、経済界、医者、弁護士、教員、文化人として確固たる地位を築いた人たち数多くいます。1985年ごろにはブラジルでは日系人口は約75万人にまで増えました。
 
一方、両国の関係は、1960,70、80年代にかけて逆転し、ブラジルが政治的な不安定と経済的混乱で、経済、社会が低迷したのに対して、日本は廃墟から奇跡の高度経済成長の波に乗り、80年代には米国に次ぐ世界第2の経済大国に発展します。
 
移民の流れも、それまでの日本からブラジルへの一方的な流れから、ブラジルから日本に出稼ぎにやってくる回帰、逆流現象がおこります。
 
1990年代から2000年に入っても、日系ブラジル人は増加して、現在、群馬、静岡県内などに約30万人が労働者として生活しています。移民によって結ばれた両国の友好は100年を迎えてますます緊密になっています。
 

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究 , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本メルトダウン脱出法(575)安倍首相の”長征”がはらむリスクー』◎『日本のメディア:朝日新聞の醜聞』(英エコノミスト誌)

  日本メルトダウン脱出法(575) ●『安倍首相の"長征& …

no image
速報(141)『日本のメルトダウン』●(必見動画)『文明国のやることとは思えない」福島で今なにが起こっているのか ドイツの報道』

速報(141)『日本のメルトダウン』     ●『文明国のや …

no image
産業経理協会月例講演会>2018年「日本の死」を避ける道は あるのか-日本興亡150年史を振り返る①

 <産業経理協会月例講演会> 2013年6月12日   20 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(11)記事再録/『ニューヨーク・タイムズ』<1896(明治29)年7月20日付)がみた明治のトップリーダー・伊藤博文の英語力、対外発信力とは

       2010/02/ …

no image
百歳終末学入門(175)『2025年問題とは団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳以上、5人に1人が75歳以上という、人類史上初の『超・超高齢社会』、つまり2025年は日本終末物語<日本の死>は8年後に迫っている。それなのに『この恐ろしい現実』を 見て見ぬふりの先延ばし』

  2017年7月27日の厚労省の発表では二〇一六年の日本人の平均寿命 …

no image
日中韓外交の教科書―1894(明治27)年11月26日 英国「タイムズ」掲載 日清戦争4ヵ月後―『日本と朝鮮―日清戦争の真実』(上)

日中韓外交の教科書―英国タイムズ報道の「日清戦争4ヵ月後―『日本と朝鮮―日清戦争 …

「老いぼれ記者魂ー青山学院春木教授事件四十五年目の結末」(早瀬圭一、幻戯書房)ー「人生の哀歓が胸迫る事件記者の傑作ノンフィクション!』

  「老いぼれ記者魂: 青山学院春木教授事件四十五年目の結末」 (早瀬 …

no image
日本メルトダウン脱出法(778)「この異常気象がヤバい!あなたに迫る地球温暖化の脅威」●「シリア・アサド政権打倒で第3次世界大戦の危険性も」●「鼻を折られたプーチン大統領との接し方に要注意」

日本メルトダウン脱出法(778) この異常気象がヤバい!あなたに迫る地球温暖化の …

no image
日本リーダーパワー史(706)安倍首相は『日露領土交渉』で再び失敗を繰り返してはならない。<安倍多動性外交症候群ー『日中外交』「北朝鮮外交』 「日韓外交」に次いで、3度目の外交敗戦はないか。

日本リーダーパワー史(706) 安倍首相は『日露領土交渉』で再び失敗を繰り返し …

no image
日本敗戦史(44)「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の内幕<ガラパゴス日本『死に至る病』東條首相誕生の裏側➂

日本敗戦史(44) 「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の内幕 <ガラパ …