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日本リーダーパワー史(223)『日本の政治家で最も少ないグローバルな戦略をもった経済政治家の先駆者―山本条太郎』 

      2015/01/01

日本リーダーパワー史(223)
 
三井物産の中興の祖・山本条太郎
 
『日本の政治家で最も少ないグローバルな戦略を
もった経済政治家の先駆者―山本条太郎』
 

                                                                        
                     前坂俊之(ジャーナリスト)
 
 
東京に生まれ。明治14年、三井物産に丁稚奉公で入り、明治21年上海支店に勤務。明治34年同支店長に昇進。その後も昇進を続け明治42年常務。1912年辛亥革命では南方革命軍への300万円の借款に応じた。大正3年シーメンス事件に連座して退任。その後、事業家として再出発、多くの事業を手がけ、日本水力・日本火薬製造・日支紡織・大同肥料の社長、大同電力その他の取締役となる。大正9年衆議院議員に連続5回当選。昭和2年政友会幹事長、満鉄社長(のち総裁)に就任し、満州(中国東北部)開発をすすめた。
 
山本条太郎(1867年11月―1936年3月 68歳)
 
 
第十五代将軍徳川慶喜が大政を奉還する三日前、慶応三年(一八六八年)十月十一日、山本条太郎は越前国福井城下に生まれた。父条悦は福井藩主松平慶永の茶坊主である。
 
もともと侍ではない。そのおかげで廃藩置県後、士分の多くが失職したのに、かれは藩主一家の東京移住にも家従としてつれてこられ、一家は食いっぱぐれることはなかった。
小学校をおえると早々、条太郎は横浜の三井物産支店に小僧奉公にだされた。
 
 三井が後年大財閥として覇を唱えるにあたって物産の占めた役割は大きい。そもそも三井の発祥は徳川の初期に過り、江戸で越後屋呉服店を経営するほか、幕府の御用達為替方をつとめ家運益々栄えていった。
 
幕末維新の大旋風の時期には一時危機を招いたこともあったが、うまく時流にのり、新政府に忠勤をはげんで政費調達に協力したところから、明治政府の確立とともに三井は、その礎を固めることができた。
明治以後、三井が呉服屋と金融業のほかに、はじめた最初の事業が貿易業である。明治六年、政府保護下に居留外商の手から貿易業務をとりかえすため設立された国産方と、井上馨の先収社が合併、明治九年、三井物産は創立された。
 
 三井中興期の大番頭となる益田孝が社長、条太郎が明治十四年、横浜支店にはいったときの支店長はのち、日本ピール社長の馬越恭平であった。条太郎は侍の子ではなかった。商人としてたつ場合、士魂商才の、あの二つに引き裂かれた明治初期商人の苦悩を経る必要はなかった。茶坊主の目から鼻に抜ける才気をかれはその父からうけついでいた。
 
 入店早々から、愛想がよく、人馴れがして、人に可愛がられたという。当時横浜でのドル相場は盛んで、商売に関係するもので、手をださぬものはなかった。物産支店では商売上の必要で支店長がドル相場をやることは認めていたが、店員には厳禁していた。
しかし山気のあるものは内々試み、小僧の身分で一挙に数万円も儲けた男がいたという。山本もその1人であった。後年の勝負師としての勘は、店の法度である相場に秘かにかに手をだすことで養われた。
 
しかし、翌十五年、一年もたたぬうち、東京本店に転ぜられたのは、相場に手をだし、少額とはいえ、店の金に穴をあげたのが発覚したのだ。条太郎このとき十六才。早熟とはいえ少々末恐ろしさが感ぜられる。
 
 条太郎は、愛想がよく、度胸もあった。他の少年と一つだけ異なったところがあった。よく勉強したのである。三井物産では、他の商店とちがって当時といえども大商社であるから、小僧手代に、漢文を教え、英語を習わせた。もちろん仕事のおわったのちの夜にはいってからである。後年かれはよく人に自慢して語ったものだ。
 
 「俺はなあ、小僧のときに三井へ住み込んだが、かう考えた。他の小僧と同じやうに、寝る時刻に寝て、起きる時刻に起き、同じ働きだけしていては、人に抜きんでることは出来ぬ。そこで夜は他の小僧が寝てから、俺は押入に入り込んで、あかりをつけて勉強した。つまり他の奴に迷惑をかけず、自分だけが少し睡いのを我慢すれば、勉強できるのだ、ところが他の奴が見つけて、怪しからぬ、殴ってやれといふことになったが、なあに構ふものかと、押切って勉強したものだ」
 
 なにを学んだかはわからぬが、勉強そのものは受験勉強同様、漢文にしろ英語にしろ、こういったやりかたで身につくものではないし、もちろんそれが役にたつものではない。しかし、こういった努力が少年の心を優越感でふくらでいったのである。
 
かれがたんに小才のきく男ならず、こういった生活を送るかれは、三井物産入店の一毎後、米の買い付けの成功で社長の益田に認められる好機をつかんだ。
そのころかれは物産の米方主任、宮本新右衛門の下で働いていたが、たまたま利根川べりの米の集散地に、大量の米を買い付けにでかけ、同時にその地方の米の市況を視察する役の手代が急用で、かわってかれが派遣されることになっ
た。かれが無事その大任をはたしたことはいうまでもないが、その後提出した業務報告書が、主任の目にとまり、わざわざ益田社長に伝えられたのである。
 
 
条太郎は子供のころから筆達者であったが、その報告書には、出兼中の業務
を通して、かれがつかんだ米の商況と将来の戦略に対する作戦計画がかきつらねてあった。小僧にしては出来すぎている。かれは帰店早々、益田に呼ばれ、一躍小僧から手代見習に昇進となった。
 
これがかれの地位のピラミッドを昇り始める第一歩となった。後年かれはこのときの喜びを、自分の一生中最も愉快な瞬間であったと語っている。自らからかちとった最初の昇進ほど人を喜ばせるものはない。この感激はかれの一生を決定し、以後かれは成功への道をつきすむこととはなるが、しかしもちろんその道筋は一筋縄のものではない。頭角をあらわす早すぎた昇進に少しゆるんだ条太郎はまた相場に手をだす。
 
今度は店の金に穴をあける失敗を演じはしなかったが、ふとしたことから馬越恭平にみつけられ、その懲罰の意味で、三井物産の所有船頼朝丸乗船勤務を命ぜられた。明治十九年十二月、かれが20才のときである。貿易商社として発展した物産の目ざすところは対中国貿易にあった。
 
頼朝丸の運航先が上海から長江を遡る航路、中国内陸への動脈にあったことはいうまでもない。中国との関係はこのときにはじまり、「物産に山本あり」と中国関係外国商社にやがて響きわたることになる。
 
頼朝丸に乗船させられたことは、並の男なら不運、不名誉このうえもないことである。しかし、条太郎はこれをプラスに転化した。生来人好きのするかれの愛想のよさは、イギリス人の船長夫妻の気に入り、二年間の乗船中に、かれらから家族の一員として可愛がられ、すっかり英語をものにしたうえ、英国人家庭のマナーを身につけ、後年上海で活躍するうえで不可知の社交術をものにする。
 
この海上生活は徒らに海波を眺めるだけですごされたものではない。物産の命をうけ、開平炭砿の視察をしたり、わが国の木材輸出の市場を北部中国に求めて走りまわったり、一人前の商人としての訓練もたっぷり積まされた。その間かれ生来の機敏さにますます磨きがかかった。こんなことがあった。
 
 頼朝丸が長江沿岸航行中のことである。浅瀬に乗りあげ動きがとれなくなったことがあった。八方手を尽してみたが、どうしても離洲しないので、サルベ―ジをたのまねばならないことになった。サルべージのイギリス人か頼朝丸にやって来て話をまとめ、その契約書にサインを求めたので、条太郎がこれに署名した瞬間、引き続きゴースターンをかけていた船が突然動きはじめた。
 
するとかれは、即時にその契約書をわしずかみにすると、引きちぎり河中に捨ててしまった。相手のイギリス人はただ、あっけにとられ、しばらくは口もきけなかった。やがて「すばしこい奴だ」と一言、舌打ちすると、船をおりていったという。
 
 突嗟の場合における頭の鋭さは、常人の及びもつかぬところであった。その機敏さと、すぐれた社交術、これが上海で条太郎を商人として成功させた最大の要因となった。
 
 明治二十一年から、四十年まで二十年間のかれの物産上海支店勤務は、そのなかに日清、日露の両大戦をはさみ、日本資本主義の発展そして日本の中国に対する地歩の強化の時代にあたる。その先陣にたったのが物産の上海支店であり、そこでのかれの活躍は日本の資本主義、そして帝国主義日本の命運を背負ってたつ、大きな戦果をあげた。
 
明治の成功者にみられる自己の命運を国家の発展に見出した男の肖像がある。
 条太郎が上海にやってきた明治二十年代のはじめから日清戦争にいたる時代は日本資本主義発展が緒につきだしたころである。三井物産も大勢に順応し発展の途をたどった。三池炭砿の払下げ後はその右炭の海外販路を拡張し、またわが国において綿糸紡績会社が発展するのを見ると、その輸入機械の販売を一手に行い、またインドからの原料綿花直輸入を開始して、明治26年には孟買に出張所を設けるなど、当時の幼稚な日本貿易をしては、驚異的な躍進振りを示した。こういう動きのなかで、物産上海支店も新商品の輸出入を試み、新販路の開拓を企てるなど、大いに活気づいていた。そのなかには若年の条太郎の発案に基いたものもすくなくない。
 
着任の当初かれは船舶部と石炭部の仕事をかねてやっていた。頼朝丸乗船中船舶と石炭に関しては十分すぎるほどある。二十五年に上田にかわって小室三吉支店長としてやってくると、条太郎の任務は、小室の補佐役といった格に昇格する。条太郎の数年間に仕入れた中国知識が小室三吉に認められたのである。
 
 その矢先、支那南の責入れで条太郎は大手柄をたてたことがあった。満州に日本人商社マンとしての一番乗りをやったのも条太郎である。
 のち満鉄総裁として、中国東北部に発展、強化された日本の権勢の中枢に坐り、かれはよくこのことを自慢したものであった。
 
 そのころ、清洲といえば大豆、大豆といえば満州を誰しも直ちに連想するほどに、大豆が満州の特産物であり、世界的商品であることは周知のことであった。昭和二年~四年、かれが満鉄総裁在任時代、満州における大豆の年産額は四、五百万トンに達し、対欧米輸出のみでも百五十から百八十万トンほどの巨額に上り、年々一億数千万円の外貨を獲得し、日本経済の対外収支をささえる大きな役割をはたしていた。
 
それより四十数年前、かれが最初の日本人としてはじめて営口にやってきたときには、もちろん、その産額は少なく、日本に外商の手を経て、輸入される額も少量でしかなかった。しかし当時南満州の遼河流域を主産地とし、したがって、この河によって搬出され、その河口にある大豆の集散地営口にやってきて、日本人の手ではじめて、大豆及び豆粕の日本輸入を企てた条太郎のはたした役割は小さくない。
 
大豆のヨーロッパ市場への売出しは、明治四十一年、日露戦勝後、三井物産の手でイギリス市場に紹介されたのを端緒とする。
日露戦争は満州を日本の有に帰した戦いである。以来、満州産大豆の対外輸出は日本人の手に独占されることになったが、これを独占したのは三井物産であった。
三井がこれをにぎるのは、もちろん日露戦勝に先だつずっと以前、日清戦争よりもまえ、明治二十四年、弱冠25歳の条太郎が、ここに単身やってきて、先鞭をつけた実績ににもとづくものである。
 
およそ商取引を開始するに最も重要なものは為替機関である。条太郎が営口に行った頃は銀行などは1つもなく、一取引法としては過ろ銀というものがおこなわれていた。これは全然通貨によらず、帳簿上の無形の貨幣による取引きで、互に取引額を帳簿に記入して置き正月と盆との二回に、その取引尻を正貨を以て受払するのである。
 
そしてもしこの季において受払いできないときは、更にこれを猶予する方法があって、それを過卯銀というのである。結局日本側としては、為替を利用しようとすれば、上海を経由する外、直接の方法がなかった。この間に処して条太郎は苦心惨憺、ある時は石炭を持っていって、その代償に大豆や豆粕を持帰るという、いわゆる物々交換の苦しい手を用いた。当時かかる方法までもちいて、貿易を開拓したものは、他に絶無であったろうといわれている。
 
こういったかたちで、かれが大豆、豆粕の日本輸入の端緒を開いてから、数年の間は、しかし、その輸入数量はたいしたものではなかった。大豆の方は千葉県の野田、愛知県の岡崎などで醤油味噌の材料に消費せられた位であったらしい。豆粕のガは従来わが国の農家は魚肥を使用する慣習があって、その使用を解するものが少なかったので、その宣伝と普及とには、
 
多大の努力を要したのであった。しかしやがて、窒素肥料としての効果のいちじるしさは知れわたることとなり、明治三十三年に348万枚、三十六年には更に飛躍して、700万枚(当時2枚の価約一円強)にあがるという発展ぶりを示し、爾来年毎に激増、遂に一億円も突破する盛況を日露戦争前後の頃には招いていたのであった。
 
 二十四年の営口滞在以来、二十五年にも、そして日清戦争中の二十八年にも、条太郎は満州にやってきている。日清戦争の戦後の舞台が南満一帯にあったことはよく知られている。当時、唯一人の満州経済事情通としてのかれの軍部にたいする貢献も大きかった。その功績によって、戦乱のどさくさで、大いに三井物産の利をはかったことも言うまでもない。
 
日露戦争では情報網を引き、バルチック艦隊の情報を通報
 
戦争、とりわけ中国大陸を舞台として諸戦争の過程で、わが国の商人が軍によく協力、軍事作戦の成功につくした話は数多くのこっている。条太郎も、その例にもれずおおいに協力した。かれの名を高からしめた戦争協力の一つに上海在任当時のバルチック艦隊行動偵察のはなしがある。
 
明治三十八年、日露戦争の最後の勝敗を決したものは、遠くヨーロッパから、救援にかけつけたバルチック艦隊を一挙に壊滅させたことであった。希望峰をまわり、一日々々と近づいてくるこの艦隊の動静は日本連合艦隊の最大の関心事であった。
特にフランス領のカムラン湾を出発して後、この艦隊がどの航路を選ぶであろうか。対島海峡か、津軽海峡か、宗谷海峡か、この針路を確認することは、日本海軍の死活の問題で、皇国の興廃はこの一戦にかかっていたといっても過言ではなかった。
 
このとき条太郎はシンガポールまで偵察網を広げ、物産と関係ある商店、船会社などと連絡をとり、外国船の船長―水先案内などを懐柔して、たえず情報を蒐集し、直ちにこれを速報した。彼が軍に向けて発した急電は数百通にも達したという。このため、山本が自分のポケットから支出した電報料が合計三万両にもおよんだといわれる。
 
とくにそのクライマックス、バルチック艦隊がいよいよ日本近海に近づいてきたときには条太郎はみずから、小蒸汽船プアルカン号に乗って北マレー島附近をパトロールし、寝食を忘れて艦隊の行動を偵察し、これを詳細にその筋に打電した。このときの打電が、上海支店を経由、三井本店に至り、海軍当局に重大なヒントをあたえ、バルチック艦隊の対馬海峡通過が確認されるにいたったという。
 
素早い情報をえて、対島沖に布陣した連合艦隊の手でバルチック艦隊が全滅したこと、これはよく知られている。当時かれ豊海、営口、天津をはじめ中国の各地に設置されている三井物産の支店、出雲を統べる出張所総監督の地位にあった。39才である。
 
中国貿易の先駆者
 
明治21年、22歳で三井、上海支店勤務となり中国にやってきて以来、かれの目ざましいはたらきは、もちろん軍協力だけにかぎられたものではない。それはたんに、片鱗のあらわれにしかすぎない、明治二十七年、日清戦争時代には28才の若年で臨時上海支店長代理をつとめている。赴任以来のかれの働きぶりがみとめられた結果である。戦後、そのまま上海支店副支配人に横すべりして、活躍することになった。条太郎がこの時代、発案、実行したもので中国の対外貿易史上逸することできないものに、買弁制の廃止がある。
 
買弁資本というつかいかたで、民族資本に対する用語の起減ある。中国における買弁=コンブラドルの発生ははなはだ古い。十六、七世紀の頃、ヨーロッパの商人がアモイ、広東などに来て貿易を始めたとき、中国の言語慣習に熟せず、中国人の商取引き、さらに中国側商人の信用程度についてもわからぬため、コンブラドル、買弁人が生ずるにいたった。買弁は外国商人と中国商人との間にたって商取引を弁じ、責任を負担する特殊な商人で、仲立商で問屋、代理商、請負商等の性質を兼ねるもので、取引きにあたって中間にたち、相当の口銭をえてその利としていた。
 
普通その口銭は取引金額の百分の一上下する程度であった。三井では、長い間の慣例とはいえ、これを断然廃止し、中国側と直接取引きする方針をたてた。その実施にあたったのが、この案を発案、物産の総帥・益田孝に上申したのが条太郎である。
 日本人の場合には中国人と同種同文、風俗習慣を同じくする点がおおい。特殊の訓練を店員に課し、中国人側商人と直接対応しうるベテランを養成するのもあながち不可能ではない。
 
こういう見込みをたてて、支那商業見習生制度及び支那修業生制度を設け、中国人の心理を理解、言語に通暁する社員の養成につとめた。そのなかから、後年政界に雄飛し、政友会の惑星となった森格、中日実業公司の副総裁高木陸郎をはじめとする中国通のベテランが輩出する。
 
 これはさておき、買弁の廃止は日本人の商人はもとより、中国にいる外国商を驚かせた。一時はその暴挙をわらったものであった。ところが、条太郎みずからクーリー姿になって弁髪をたらしやってみると、あながち、不可能なことでもなかった。買弁に支払う口銭のぶんのみならず、商機を敏速につかまえる便が生じ、物産の中国貿易における勢力を強化するに大きな役割を、これははたすことになった。
 
 明治三十年十月かれは、上海でのはたらきが認められ、物産の参事に昇格して大阪支店綿花糸首部長に就任。以年間中国は離れる。再び中国にやってくるのは三十四年十月で、以来四十一年に本店にもどるまで上海支店長をふりだしに縦横の働らきをする。
 
 かれのこの時代の仕事の焦点は、在華紡績の基礎を確立することにあった。かれはさきに、日清戦争後早々、上海紡織会社の支配人に就任、この仕事に失敗したことがあった。これは帝国主義の中国にたいする、もっともはやい資本輸出の試みである。
 
しかしあまりにもはやすぎたためうまくいかなかったのだ。かれの経験不足ということも、その一因としてなかったとはいえない。しかしその後かれは大阪支店に勤務、綿花糸首部長をつとめ、紡績紡織業について豊かな経験をつんだ。このキャリアを生かし、上海支店長に就任した翌年、経営不振の興泰紗廠を買収、上海紡織有限公司を設立、取締役に就任した。かれの手におちたこの会社は、以前とうってかわる良好な成績をおさめる。これによって条太郎の名が、上海の内外資産家のあいだに知れわたったことはいうまでもなかろう。
 
 その名声をきいて、当時中国随一の実業家として名のあった盛宣懐が、かれの所有する大純紗厳の経営を依頼してきた。条太郎がその任にあたると、まもなく良好な成果があらわれ、中国側出資者は、条太郎を加えて、これを買収、あらためて三泰紡線株式会社として再発足させることにしたという。
かれは商人としのみならず、産業資本家、工場経営者としてもすぐれた手腕のもち主であった。
 
 その間、もちろん、商人としての活動もまた目をみはらせるものがあった。中国における国際貿易の新分野を開拓したのもかれのはたらきである。日中間貿易における物産の地位はすでに明治の二十年代に確立する。かれが支店長となって鋭意開拓したのは中国の商品を外国に売り、外国商品を中国に売りこむことであった。中国をめぐる国際貿易の覇権は、古くからここに根をおろした英国をはじめとする、米国、仏国系商人の手に独占されていた。
 
かれはこれら、上海、漢口、その他にある外国商館を向うにまわして競争し、これらの間に、物産の地位を確立するのに成功した。揚子江流域に強固に根をはるイギリス資本の間に、よくわりこめたのは、まったく条太郎の活躍によるものといわれている。
この中国にはじまる物産の国際貿易への乗りだしは、ここから発展、やがて、七つの海に三井物産の名をとどろかせるにいたる。その端緒を、ひらいた一人に条太郎は数えられるわけだ。
 
第二の人生―政友会幹事長に 
 
中国における活躍で物産の発展につくした条太郎はその功により明治四十一年一月、三井物産東京本社の理事としてむかえられることになった。いってみれば、第一線に立って一兵卒より昇進やがて軍の采配を揮うまでになった将軍が参謀本部に還ったというところである。四十二年には三井物産常務取締役にまで昇進した。
前途は栄光に満ちているかのようにみえた。ところが、それから五年後の大正三年シーメンス事件に連坐して、物産を追われる。まことに禍福はあざなえる縄の如し、人の運命には明日をもわからぬところがある。このとき条太郎四十八才。停年退職になり、以来、かれの文字通りの第二の人生がはじまる。
 
 三井を辞職後、大正.四年、ふれは東京ステージヨンホテル三十三号室に事務所をおき、おりからの大戦景気で寮生する諸事業のおおくの設立に関与することになった。そのいくつかをあげれば、大正四年、大洋汽船株式会社設立。東京広尾に重クローム酸工場設置。大正五年、日本火薬製造株式会社設立。野州鉱山株式会社創立。大正六年、越路鉱山株式会社創立。大月本炭鉱株式会社設立。北陸電化株式会社設立。朝鮮紡織株式会社設立。大正七年、内外鉱業株式会社設立。大正八年、朝鮮生線株式会社設立。日本水力株式会社設立、日支紡織株式会社設立。
 
これらの事業の設立に関与、社長あるいは取締役となり、かれの物産時代の片麟をみせた事業家としての才能は開花する。大戦中の好景気もあり、大損した事業もあったが、儲けもした。しかし、大三井物産の重役から、中小企業の社長では、かれは不満である。
 
機みるに敏な才能このときも発揮され、大戦後の不景気に、ためこんだ金が消えやらぬうち、政界に転進した。大正九年、政友会にはいり、福井市より衆議院議員に当選、以来政治家としての生活がはじまった。大正十二年政友会臨時政務調査会副会長、十三年行政整理特別委員長、そして昭和二年政友会の幹事長と党内での地位を昇進させたのは、政治家としてのかれの才能によるというより、自腹を切るだけの金をもち、金をばらまくことが、政党政治家として必須の条件であるということに、原因するのではないかと考えられる。
 
幹事長まではなれたが最後まで、大臣になれなかった。シーメンス事件に連坐したことが最後までたたったためともいわれる。しかし、この年の七月、南満洲鉄道株式会社の総裁に任ぜられる。かれは根っからの商人、そしで事業家であった。政界ではぱっとしなかったが、満鉄では見事な手腕を発揮した。今日、満鉄の歴代総裁については、初代の後藤新平、あとの松岡洋右とならんで山本条太郎は三番目の大物総裁と評価されている。それだけの仕事をかれはのこしたのだった。
 
四年末総裁を辞す。やがて、満洲事変。それにつづいて日華事変がおこる。かれの前半生がすごされた中国との全面戦争の火ぶたがこうして切られる前年の昭和十一年三月、切迫する事態をまえに条太郎は病み、一人の明治の日本を背負った男が死んだ。享年七十才があった。
     
                              
(参考 『山本条太郎』(山本条太郎翁伝記編纂会編)1942年刊)
                                 

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