世界が尊敬した日本人―今こそ百年前に大正デモクラシーを先導した民主主義者・吉野作造から学ぶ
世界が尊敬した日本人
―百年前に大正デモクラシーを先導した
民主主義者・吉野作造から学ぶ
前坂 俊之(ジャーナリスト)
大正元年(1912年)から昨年(2012)はちょうど百年目。
「坂の上の雲」を実現しアジア第一の大国に躍進した明治と比べると、大正は「峠の時代」で次いで昭和の動乱の時代に入るその端境期といえる。
その大正時代は大正デモクラシーが花開き自由と平等が高揚した明るい時代で、その先頭に立ったのが吉野作造である。
吉野は1878年(明治11)1月、宮城県志田郡古川町(現・大崎市)で綿問屋商・年蔵の長男に生まれた。
その幼少期には賊軍となった東北、郷里には明治新政府や薩長藩閥から差別されたことに激しい敵愾心があり、その反発として自由民権運動が吹き荒れており、作造の思想形成の原点となった。
抜群の秀才で中、高校をトップで卒業、20歳でキリスト教の洗礼を受けた。日露戦争が勃発した1904年(明治37)、26歳で東大法科政治学科(現・法学部)を首席で卒業した。
その後3年間、清国にわたり大物政治家・袁世凱の息子の家庭教師を務めるなどして有数の中国通となった。
明治43年、今度は近代先進国のドイツ、フランス、イギリス、アメリカに3年間にわたり留学、各国の政治、社会制度を研究した。
この留学体験で、吉野は西欧民主主義の根本に
①キリスト教における倫理的な社会活動
②個人の価値を自覚した民衆運動の発展が民主政治を作ったことを身を以って感じ、日本がいかに遅れているかを痛感した。
帰国した吉野は東大法科政治学教授に就任する。
1914(大正3)年、「第一次世界大戦が勃発した。
世界の大勢はデモクラシー、民衆運動、平和思想が高まると感じた吉野は「象牙の塔」に閉じこもることなく、政治運動の第一線にたった。
西欧の戦火を対岸の火事視した大隈は中国に「対支21ヵ条の要求」を突きつける強硬外交を展開、1917年(大正6)、3月、ロシアの二月革命による世界史上初の社会主義革命が成功し、世界中に民衆革命、デモクラシーの嵐が巻き起こった。
日本にも飛び火し物価高騰と不況が引き金となっては大正7年7月、富山で米騒動が勃発、労働争議も頻発する。
こうした情勢を踏まえて、吉野は1916(大正5)年1月号の『中央公論』に「憲政の本義を説いて・・」という論文を発表、大反響を巻き起こした。
デモクラシーを『民主主義』ではなく「民本主義」と訳し、『君主国日本では主権在民の民主主義はムリ』として、明治憲法制約下で実現可能な議会中心主義を主張、そのためにも「言論・思想の自由」は不可欠であると訴えた。
当時の日本の論壇の中心は「中公公論」である。同編集長・滝田樗陰は14(同3)年1月号から吉野に毎号、評論の執筆を依頼したが、その内容は2人で議論したうえで口述筆記したもので8年間にわたって連載し続けた。
吉野は『内には立憲主義、外には国際平等協調主義』を唱えた。
内には普通選挙制度の推進、藩閥官僚政治の打倒、軍備縮小を主張。対外的に帝国主義に反対し、民族自決、中国、朝鮮の民族独立運動の支持、寺内正毅朝鮮総督の「武断政治」や韓国併合に反対する論説を掲げ、大正デモクラシーのトップリーダーとなった。
一九一八(大正七)年夏、米騒動が各地で頻発し、労農運動、普選運動(普通選挙要求)などの民衆運動が高揚し、寺内内閣が倒れ、大正デモクラシーの最盛期を迎えた。
寺内内閣を痛烈に弾劾してきた朝日新聞社や吉野、進歩勢力に対して政府、右翼団体は反撃してきた。黒竜会系右翼団体「浪人会」は吉野に弁論決闘を申し込み、大正7年11月、神田で立会演説会が開かれた。数千人が会場を取り巻き世紀の対決を見守った。
吉野は「国体を破壊するのは浪人会一派ではないか」と論理明快、痛烈に論破した。学生たちは「デモクラシー万歳」を叫んで歓喜し、吉野を胴上げして会場から引き上げた。大正デモクラシーのピークの瞬間である。
翌月、吉野は反動思想に対抗するため、福田徳三、三宅雪嶺らの多数の新進知識人と協力して思想団体「黎明会」を結成、デモクラシー運動を先導した。
同時に東大の教え子たちを指導して「新人会」(日本の学生運動の創始)関東大震災(同12)を結成、社会主義、労働運動も幅広く支援した。
大正13年2月,東大教授をやめて朝日の論説顧問に転進した。吉野はずっと朝鮮、中国人留学生、日本の苦学生にポケット・マネーから学費を援助していたが、これが不足したので、高給の朝日に転職したのである。
朝日でさらに健筆をふるおうとした矢先,その演説や文章が舌禍事件として検察から取り調べを受け半年で退社に追い込まれた。「人世に逆境はない。如何なる境遇にあっても、天に事(つか)へ人に仕へる機会は潤沢に恵まれてある」との退社の辞を書き、再び学究生活と社会運動にもどった。
昭和前期の急速なファッショ化、満州事変以降の日本の軍国主義の勃興に憂慮を示しながら,昭和8年に55歳で亡くなった。
吉野のようにキリスト教徒から出発し、政治学者、ジャーナリスト、歴史学者となり、社会運動を行い、労働組合の指導、育成から文化事業まで幅広く活動した民主主義者は現在までの日本にはいない。
関連記事
-
-
「Z世代のためのウクライナ戦争講座」★「ウクライナ戦争は120年前の日露戦争と全く同じというニュース]➄」『開戦2週間前の『英ノース・チャイナ・ヘラルド』の報道『日本が決意しているのは,中国と朝鮮との 独立と保全の維持なのだ。この点で,日本は英米の支持を 受けている』★『外交面で,日本はロシアを完全に負かしてきた。合衆国の40年にわたるロシアへの友情は.全く消失した』
2019/10/08   …
-
-
日本メルトダウン( 974)『トランプショックの行方!?日本人は、「トランプ大統領」を甘くみている過去の「トンデモ発言」には信念がある』◎『トランプ当選で日米安保が直面する重い課題、異色の新大統領が進める外交政策に募る不安』●『 中国とロシアは、なぜ「トランプ支持」なのかー日本と米国の関係は非常にデリケートになる』●『日本人が知らない「トランプ支持者」の正体、米国人が「実業家大統領」に希望を託した理由』●『なぜドナルド・トランプは勝利し大統領になれたのかという「5つの理由」と「今後やるべき5つのこと」』●『中国・人民日報「歴史的な意義ある成果」 米・ニューヨーク・タイムズ 「反動への危機感強める習体制」』●『韓国で核保有論再燃 「自分たちで国守らねば」』●『自滅するフランス大統領:奈落の底へ (英エコノミスト誌)』
日本メルトダウン( 974) トランプショックの行方!? 日 …
-
-
日本リーダーパワー史(274)EUの生みの親・クーデンホーフ・カレルギーの日本記「美の国」―日本人は世界で最も勇敢な民族②
日本リーダーパワー史(274) 『ユーロ危機を考える日本の視点』② …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(45)記事再録/<まとめ再録>『アメリカを最もよく知った男・山本五十六連合艦隊司令長官が真珠湾攻撃を指揮した<悲劇の昭和史>
2015/11/13 /日本リーダーパワー史(600) …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(239)/★『三井物産初代社長、『千利休以来の大茶人』益田 孝(91歳)(下)『「鈍翁」となって、鋭く生きて早死により,鈍根で長生き』★『人間は歩くのが何よりよい。金のかからぬ一番の健康法』★『 一日に6キロは必ず歩く』★『長生きするには、ご馳走は敵』★『物事にあくでくせず、常に平静を保ち、何事にもニブイぐらいに心がけよ、つまりは鈍感に』
★ 2012/12/06 百歳学入門(59)記事 …
-
-
★10「日本人の知の限界値」「博覧強記」「奇想天外」「抱腹絶倒」 ―南方熊楠先生の書斎訪問記はめちゃ面白い③
★10「日本人の知の限界値」「博覧強記/奇想天外/抱腹絶倒」 ―南 …
-
-
★『日本経済外交150年史で、最も独創的,戦闘的な国際経営者は一体誰でしょうか講座①(❓) <答え>『出光興産創業者・出光佐三(95歳)』ではないかと思う。そのインテリジェンス(叡智)、独創力、決断力、勝負力、国難逆転突破力で、「日本株式会社の父・渋沢栄一翁」は別格として、他には見当たらない』
『戦略的経営者・出光佐三(95歳)の国難・長寿逆転突破力① …
-
-
『Z世代のための百歳学入門④』★明治の大学者/物集高量(106歳)の長寿逆転突破力の秘訣➂』★「(人間に必要なのは)健康とおかねと学問・修養の三つでしょうね。若い時は学問が一番、次がおかね。健康のことなんかあまり考えないの。中年になると一番はなんといってもおかね。二番が健康、学問なんかどうでもいいとなる。そして年取ると・・・」
2018/11/26/29知的巨人たちの百歳学(111) …
-
-
『オンライン日本資本主義講座/21世紀の公益資本主義の先駆者は大原孫三郎(クラレ創業者)」★『渋沢栄一を超えた男で、儲けた財産のすべてを社会に還元した日本一の資本家(大内兵衛いわく)』
日本リーダーパワー史(280) 『欲望資本主義を超克し、21世紀の公益資本主義を …
-
-
『Z世代のための<憲政の神様・尾崎咢堂の語る「対中国・韓国論⑥」の講義⑭』★『憲政の神様・尾崎行雄の名解説「本邦の朝鮮に対して施すべき 政策を諭ず」を読む』★『日本公使館を焼き打ちした壬午軍乱の賠償金40万円を朝鮮発展のために還付した日本政府の大英断』
2018/02/15/日本リーダーパワー史(874)記事再録 平昌オリンピックを …