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世界を制した日本人ー『映画の都「ハリウッド」を制したイケメン・ナンバーワンは-「セッシュウ・ハヤカワ」とは何者か①』

   

世界を制した日本人
 
 
映画の都「ハリウッド」を制したイケメン・ナンバー
ワンは-「セッシュウ・ハヤカワ」とは何者かー
チャップリンを超えた男①
 
                        前坂 俊之(ジャーナリスト)

◎ハリウッドNO1のイケメンはだれじゃ トムクルーズも真っ青だって、ホントのはなし

100余年の輝かしいハリウッドの歴史の中で、唯一、ハリウッドを制した日本人と言えば早川雪洲なのじゃよ。もちろん今の若い人は全く知らんじゃろうが。サイレントムービーのハリウッドができたばかりのこのじゃ。

いまなら、ハリウッドの有名日本人と言えば、アカデミー特別賞に輝いた黒沢明監督や、「ラストサムライ」で助演男優賞にノミネートされた渡辺謙らがいるではないか、といわれそうだが、そうじゃない。

ハリウッド創生期に百数十本以上のサイレントムービーに主演して、ハリウッドのトップスターとして活躍して、自分でも映画会社を作って主演、監督して映画を製作したのじゃ。チャップリンと同時期に活躍した日本人だが、彼と同じようにね。映画は大ヒットするし、ギャラーはチャップリンに並ぶ高額なので、日本人をもっとよく知ってもらおうとハリウッドに大豪邸をつくったのよ。

そして、連日連夜、スターや監督を招いて派手なパーティーを開いて、『聖林(ハリウッド)の王者』と呼ばれた伝説の日本人なのですよ。すごい男じゃ。

早川 雪洲(本名・早川金太郎)は1889(明治22)年6月に千葉県千倉で、網元の子として生まれた。少年期には海軍軍人を夢見ていたが挫折し、1909年、21歳でシカゴ大学法制経済学部に留学するために渡米する。
同大学を卒業前にロサンジェルスのリトル・トウキョウへ行き、日本人の劇団に入り徳富慮花の「不如帰」を演出、主演して大評判になり、次々にヒット芝居を上演したのです。
これに目をつけたのが、ハリウッド創世期の大物プロジューサーのトマス・H・インスで、彼の製作の「タイフーン」(1914)に初主演し、これが大ヒットした。続くセシル・B・デミル監督「ザ・チート」(1915)で、人妻に焼きごてを押す冷酷な日本人プレイボーイを演じて一躍、マチネー・アイドルとなった。


この映画で雪洲がアメリカ女性に与えた強烈な衝撃は世紀のイタリア美男俳優・ルドルフ・ヴァレンティノを上回り、その美しく、
荒々しいセックスアピールとエキゾチズムで女性の潜在的願望とマゾヒズムを刺激した。

パラマウント映画と最高級で専属契約を結び、彼が映画館に現れるとスクリーン上の彼に会うために化粧して、派手な毛皮のコートを着てきた若い女性が雨でも振っていると、足元がぬれないように毛皮を水溜りに一斉に投げて熱狂的なフアンに取り囲まれたというからその、人気のすごさがしのばれる。

世紀の美男俳優・ルドルフ・ヴァレンティノを上回る人気

「さいなら、さいなら」でご存じの映画おじさん・淀川長治は早川をよくしっているが、こう書いているよ。

お若い方はご存じないかもしれませんが、早川雪洲といったら、アメリカではハリウッド映画史上、ナンバーワン、第一号の美男子スターだった人。次がウォーレス・リード。三番目がルドルフ・ヴアレンチノ。

早川さんは長いこと映画に出て、ご自分で監督もして、シナリオも書いた。いっぱい作品があります。
そのなかでも、サイレント時代の相手役は、ベシー・ラブという女の子が多かった。『スワンプ』(1921)でも共演しています。この女優さんは、いかにも東洋風。どうして彼女が相手役をしたかと言うと体が小さいのね。小柄だから日本人の早川雪洲にはもってこいだったんです。

わたしがハリウッドに行きはじめたころのこと。そのべシー・ラブと会いましたら、いきなり、「セッシューさんはお元気ですか」とあいさつされました。びっくりしました。

実は彼女だけではなく映画関係者からも、「セッシューさんはお元気ですか」とよく聞かれました。それからずっと後になると、「クロサワさんはお元気ですか」になった。つまり、「クロサワさん」の前は、ハリウッドではみな「セッシューさん」だった。


(以上、淀川長治著『追想の扉』 TBSブリタリカ1996年刊)

 
早川の自叙伝から、彼の半生を語ってもらおう

私の六十余年の半生は波乱万丈の一語につきます。1889年(明治22)6月10日、外房総の千葉県七浦村(旧安房郡千倉町、現南房総市)に生れました。

この村は昔から「千田の與一」と「和田の鉄砲」という二つの勢力が相争っていて、魚場の争いから斬込みなどもしばしば行われ・大変気の荒いところでした。

私の家は、村でも名の知れた網元で、いつも十五、六人の若い者が、宿節と称してゴロゴロしており、それに剣道、柔道のほか漢文、習字などまで先生をつけて教えていました。私の本名は金太郎という勇ましい名前で、六歳のころから若い者の仲間に入り、武道を習っていた。私が立って竹刀を構えると、先生が坐ってちょうど同じ位の背の高さで、私が十一歳の時のことです。


◎ならず者を11歳で日本刀で斬りつける。腹切りを愛犬の知らせで助かる


ある日ならず者が金をゆすりにやって来ました。父は奥座敷にいたが、そのならず者は玄関に坐り込んでわめいていた。私は、その男が余りに父に対して失敬なことをいうので、子供心に腹が立ってきて、日本刀を持って玄関にとび出してゆき、「えい!」と斬りつけました。

ちっぽけな子供が長い日本刀を顔にかざして現われたので、ならず者はびっくり仰天、どこかに傷を受けて逃げてしまった。私は無我夢中でやったことです。
「板子一枚、下は地獄」という気の荒い漁師仲聞の中で育った私は子供時分から父のいいつけに従って、お茶、活花、俳句のほかに日本画も習って、殺伐な気持ちを柔らげるように努めてきました。

そのとろの私の望みは海軍の軍人になることでした。小学校を卒業して、東京の当時海軍予備校といった海城中学に入って海軍兵学校の試験準備をはじめました。
朝に夕に海軍士官の姿を夢みつつ、私は夢中で勉強した。夜は正則中学にも通って、なんとしても試験にバスしたいと思っていた。いよいよ海軍兵学校の試験。当時、試験は7月で3,000人ものの応募者があって、第一回の学科試験も終えて、あとは第2回目の体格試験を受ける段階になりました。
 

ところが、夏なので水泳中に、高いところから飛込みをして、鼓膜を破ってしまいました。
実際は破ったというほどのことではなかったのだが、炎症を起こし食事も出来ないほどはれ上ってしまった。

体格検査にホータイを巻いて行ったが、耳が悪くては海軍士官にはなれないといわれ、はねられてしまった。眼の前が真っ暗になって生きを望みを失なって、私は家の土蔵にこもって短刀で割腹しました。血を四リットルも流して、気を失っていたところ、家の可愛がっていた愛犬が異常なほどに蔵に向かって吠えて、家族が蔵に入って血まみれの私を救ってくれたのです。もう少しのところで死ぬところでしたった。

全快して、私はお寺のお堂に入って六ヵ月間、だれにも会わすお経を読んで過ごしました。何か精神的な、宗教的なよりどころに縋りたかったのです。私の宗教心は、この18歳の時の自殺未遂が動機であったと思っている。そして、私が日本を離れて、アメリカへ渡る動機にもなったのです。


22歳で、アメリカに渡る シスコに到着、その晩に馬車で強盗に襲わる

アメリカへ行く時の私の気持ちは、もし成功しなければ再び故郷の士を踏むまい。向うでも誰の世話も受けず、どこまでも独立独歩で行こうと思っていました。両親とは水盃(みずさかずき)までして、1911年(明治44年)6月、太平洋を渡った。

二十二歳の時である。サンフランシスコには中学時代の友人がいて、彼を頼ることにした。船はシアトル止りだったので、別の船に乗りかえてサンフランシスコに着いた。船中で1人の背の低い日本人と友だちになったが、彼は盛んに武道を自慢をする。私はその方でも自信はあったが、彼の自慢話を聞き流していた。サンフランシスコに着いたのが午前二時、波止場は真っ暗である。

船中で、ホールド・アッブが多いから明るくなってから上陸してはどうかと忠告されたが、武道自慢の男は“何、大丈夫だ〃といって私を誘った。

私も早くアメリカの士を踏みたい、そして落ちつき先の熊本旅館に着きたかつたので支那行李〈中国カバン〉をぶら下げて下船した。

そのころのサンフランシスコは自動車ではなくて馬車である。二頭立ての馬車といっても、荷物を運ぶ車に二人は乗せてもらった。御者の顔は暗くて見えない。われわれのほか、もう2人は荷物の方に乗っていた。

しばらくガタガタと石畳の暗い道をいくと馬車がガタンと止った。御者が私たちに〝下りろ″というので、もう着いたのかと思って、いわれるまま車に下りると、荷物の上にいた二人の男がピストルをポケットから出したり入れたりして、〝お前たちは帰れ″といい出した。私はこれは大変なことになったと思った。

向うは三人、こっちは2人である。しかし連れの男は武道の心得があるといっていたので、小声で「僕はこっちの2人を引受ける、君は他の1人を引受けろ」といって、いきなり私は2人に向かって突進し、二人を倒してしまった。

武道で2人をやっつける

二人はのびてしまったので、もう一人はどうしたろうとみると、御者は馬車で逃げ出している。追っかけていって、ぶん捕えて引ずり落し当身を加えてギューとやった。ほっとして、気がつくと友達の姿がみえぬ。いくら呼んでも出て来ない。一時間位して、巡査をつれて走って来た。どうも彼の武道自慢は口ばかりだったらしい。

アメリカの士を踏んだとたんにこの事件。
私は余程しつかり気をつけないといかんと思った。私は着いた翌日から、鉄道会社直営の駅の食道に皿洗いとして勤めることになった。月給30ドル位だったと思う。そして、皿洗いの余暇に、日本人に英語を教えて月謝をもらった。

あのころの日本人は、英語を読むことも、書くことも出来ない人たちが多かったので、私の学歴でも結構、間に合ったわけである。食うや食わずの生活で我鰻して、残りは学費として貯金した。

実に苦しい生活だったが、若くて負けず嫌いの私には平気である。やつと学費が出来たので、シカゴへ行き、ジカゴ大学の予科に入った。試験は地理とか化学などほどうでもよく、英語が出来ればいいというので、難なくバスした。大学に入ったが実にとぼしい学費なので遊んで暮すわけにはゆかない。スクール・ボーイとなって働きながら勉強することにした。

このスクール・ボーイというのは学校寄宿舎に泊って、朝食を作って、夕食の血洗いをやれば少しばかりの小遣いもくれる。弁当も持たしてくれて一日学校へ行ける。-これで私はようやく前途にやゝ明るさを見出すことができるようになった。

 

アルバイトで学費を貯金、シカゴ大学に入学アメフトで学費免除

私はスポーツが好きだった。とくにアメリカンフットボールのタックルがうまかった。

柔道の手をつかってコロットころがす。誰も私にかなわない。推されて正選手になることが出来た。そのお蔭で学費免除にしてもらった。
そうなると、スタール・ボーイをする必要はない。寄宿舎に入って、うまいものが食べられてフットボールをやる。そのうち、顔が売れて、寄宿舎の幹事に推されることになった。
その町の大学チームの選手たちのうちに小さな選手が2人いた。1人はハーバード大学のケリー-という選手、もう1人は私である。ケリーは実にすばしこい。ねずみのように速くてとても捕えることが出来ない。

いつでもハーバードとの対抗になるとケリーにしてやられる。これに対して私の後方に選手をつけさせ、私が攻めてくる奴をストンストンと倒して進む、この方法で大分点を稼いだ。
そのうちに、「早川のタックルはどうもおかもい」といわれるようになった。柔道の手ということがバレたのは一年後であったが、結局、〝お前の手は使ってはいかん〃といわれ、やれば罰則を食うのでやれなくなってしまった。私にこの手を封じたのでは選手の能力はない。選手を退いてしまった。

1913年(大正二年)、24歳の夏休みに、私はロサンゼルスに遊びに来た。
退屈まぎれに町を歩いていると、日本人の芝居が上演されている。常盤正劇団という名前で、藤田東洋が座頭で、常盤操という名前でやっているが、どうみてもうまくない。浅草あたりの壮士芝居みたいな変なお芝居である。

私は「こんな芝居ではいけない僕にやらせてみろ」というと、「何をやる」ときくので「不如帰(ホトトギス)」と答えた。
「不如帰」は私が初めて読んだ小説で、東京にいたころ藤沢浅二郎の武男、木村操の浪子で、幾度もみているのでセリフはほとんど覚えていたし、軍服姿も海軍予備校で経験ずみ、なかなか板についている。

いざ、公演ということになも、ふたをあけてみると大変な人気で「あの武男はほんとうの武男だ」と.いうわけで大入り満員である。
私の芝居に対するうぬぼれが出て来て、「不如帰」をもってあちらこちら巡業してまわって、いい気持ちになっていた。

ロサンゼルスで芝居をする  英語劇「タイフーン」が認められる

どうも日本人相手ではおもしろくない、ひとつ西洋人にみせてもわかる芝居をやろうという野心がわいて来た。そうしてやったのが「タイフーン」という英語劇。俳優をやとっては高いので、俳優学校の生徒を使って、西洋人の劇場でフタを開けた。
これをみにきていた「ニューヨーク・モーション・ピクチェア・カンパニー」のトーマス・インスというプロデュサ-が、私に映画界入りをすすめてくれた。

1914年、私が25歳の時で、あのころのハリウッドは2巻物が多く、処女出演映画「タイフーン」を六巻物で撮影した。当時としては大作だったわけで、これがニューヨークでヒットし、お陰で私はパラマウントに三年契約で入社することが出来た。パラマウントができたばかりのころである。

これまでのハリウッドでデビューするまでのいきさつは、本人の自伝ではあまりにもサラッと述べているので
、いくつか補筆する。

「土蔵の中で切腹したというけど本当なの」-これは本当なんですね。

雪洲は海軍大将になることを夢見ていたので、希望を断たれたので、自分が描いていた東郷平八郎の肖像を前で切腹して、東郷におわびした。雪洲の家は漁師の網元で、代々に漁業権の問題で勢力争い、けんかが絶えず、日本刀の切り合いがしょっちゅう起きていた。小さい時から剣道を習い、ケンカして負けたりすると、「腹切って死んじまえ」とか「キンタマとってしまえ」といつもおやじから怒られた。そういう荒っぽい、教育を受けたから、切腹なんかなんでもなかった。

そこで、いまこそ切腹すべきだと、決意して土蔵の2階で、戸はビシンとしめて、だれもわからないように、腹を切った。
ところが、愛犬がすぐ嗅ぎつけたのだ。犬が狂気のごとく騒いだ。中庭にいて、1メートルか2メートルも飛びあがって、母屋へいってワンワンほえる。

ヘンだというので、家人が土蔵へあがってきた。厳重に大きな戸がびしっと締っているので薪割り持ってきて、メチャクチャに戸を壊して入ってきて、20ヵ所ぐらい切って、3リットルも血を流した雪洲を発見した。もう十分も遅れたら、ダメだった。その時、雪洲の意識はすでにあの世にいっており、白いヴェールをかぶった女性が2,3人チラチラ目の前に見え、天国とはこんなところかと思った、という。

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