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村田久芳の文芸評論『安岡章太郎論」③ 「海辺の光景へ、海辺の光景から』

      2018/11/23

                                                      

安岡の小説においてほんとうに主人公たちは社会というものの中で生きていないのであろうか。

私は江藤と対極の位置に立っている。安岡のこの小説の中で主人公は、既に個人と個人、他者の存在する社会という概念はしっかりともっており、成熟した眼をもって母の死をもっとも近しい「他者」の死として受け取り、最後のシーンを死を含んだ自然として浮かび上がらせて「海辺の光景」の終章としたのである。

 

安岡の実際の生活を見てみると戦後まもなく父が復員するまでの間、母と子はなれあいともいうべき状態であったことは確かである。それは子が劣等生であることを母は忌避しつつそのことに安住し、秘かにお互いにもたれあった状態であった。

しかし、父が復員し、三人の密着した生活が始まるとともに父の存在は無視し得ないものになっていった。安岡はその間、病気をかかえながら時おり得る自分のわずかな収入で生活しなければならなかった。

 安岡はこの頃の生活を原点にしてさまざまな小説を書いてきた。昭和32年に母を亡くし、ますます無視し得なくなっていた父の存在を対象化し、自分の小説の中にしっかり位置付ける必要を強く感じるようになっていた。そして書かれた小説は、結局自己の半生をたどる形をとり、いわばそれまでの自己の「総括」に等しいものになった。

江藤は、結論を示すごとく次のように書いている。

「『海辺の光景』とは、作者にとってこれほど深い意味を持っていた母親という存在が、狂気に犯されて崩壊していく話である。それだけではなく母から解放され、始めて『個人』になることを強いられた男が無限に不自由になっていく話しである」と。

これに対し、私は次のように主張したい。

母親との肉感的な濃い関係を他者の発見という大きな装置をくぐりぬけることによって、母親をも個人として見つめることになった主人公が、また、父親という存在をやはり個人としてみることによって客観的に無能さを認識し、その無能さという点で自己との同一性を見いだすことになった。父、母、主人公の三人が戦後という未曾有の困難な時代を生きる中で、主人公は改めて個としての人間存在にめざめ、その中で父と母を再認識する話である。と同時にそこから新しい出立へ向かおうとする物語であると。

息子を手放さない母を「個」として見据え、それとともに父のほんとうの姿を発見し、それを了解し、受け止めていく物語であると私は思う。

江藤は「氏の次の作品が『成熟』した主人公の登場する小説ではなくて、ふたたび少年期の肉感的な世界を描いた『花祭』だったことは単なる偶然ではない」と短絡的にしかも恣意的に自説に沿った評を下している。

安岡は、アメリカ留学という屈折点を通過して「海辺の光景」の変奏曲たる「幕が下りてから」、「月は東に」を刊行し、その間、次第に歴史へと眼をやるようになっていった。

その過程の筋道となったのは年を重ねることに伴う父への理解の深まりであったと言ってよいであろう。あれほど父に絶望感をいだいた安岡が年を経るとともに父の立位置や思いを理解していくことになったのである。

昭和43年に発表された「テーブル・スピーチ」の中にはっきりとその足跡が刻まれている。主人公 宗一は、新京の関東軍、予備士官学校の幹部候補生であったが、病気のため中途から原隊にもどされ、一般兵に降等されてしまい、終戦前に帰郷することになった。予備士官というのは二等兵であった海辺の光景の信太郎と将官であった父 信吉の中間の階級であり、この初めての設定に注目すべきである。さらにもう一つ、宗一の妻は精神を病んで入院しているという点にも注目しなければならないであろう。

このことからこの作品が宗一と言う主人公に信太郎と信吉をダブらせているのがわかる。

宗一は、帰郷する列車の中で老婆に見つめられ思わず階級章を手で隠そうとする、この心理は安岡本人の心理でもあり、復員時の父の心理でもあった。また、宗一は「バクゼンたる不安」や「空白なもの」を感じている。「この自分の体のなかにポッカリ穴のあいた空白なものを抱えこんでいるというのは、一つにはもっと端的なこと―――肉体の老いの予感―――からくるものかもしれない」という思いもある。

この思いも安岡と父の両者に共通するものかもしれない。「父を自分の対立者とみるより、自分自身の血液の中に父を想い描くよう」な心理がこのような形の設定を生んだ。信太郎と信吉の両方を兼ねる主人公を登場させるというやや実験的な手法によって父への理解の一つのアプローチを展開したのである。

さらに「テーブルスピーチ」と同年に刊行された「志賀直哉私論」によってもう一つの父子の関係を検証し、そのことを通じていっそう父への理解は深まっていった。

安岡は、志賀父子の不和に多数の紙数をさいてその最大の原因を直哉が父や母がいるにもかかわらず封建時代の遺風から祖父母に手渡されて育てられたことにあると結論付けた。志賀父子の対立の主たる原因を制度からくるゆがみと指摘し、自己のケースを思いはかったのである。

一方父の存在を様々な角度から分析し、その理解が深まっていくのと比例するように

一つの架空な観念であった故郷が、父の受容を一つの契機として次第に「知らないうちに取りかわされた約束」をようやく憶い出すように実体のあるものへ変貌していったのである。

思えば劣等生意識を強く抱いた少年が母との密接な関係を経て父の存在に目覚めそれを受け入れて行く過程は一歩一歩、故郷へ近づいていく過程であったかもしれない。しかも、その過程はこの世界は自分と同様の個人によって形成され、それらの人々の日常の営みによって形作られているのだという確信にも似た想いとともにあった。

江藤は、「流離譚」にいたる安岡の小説の変遷を充分に承知して、その後に死去している。しかし、「成熟と喪失」後はさしたる安岡論を書いていないと私は承知している。江藤は安岡の小説の要諦を一方的な「母の物語り」として捉えようとした。そして、その方法をもってしては「海辺の光景」以後の安岡の小説を論じる道は閉ざされていた。 

一方、冒頭で引用した平野謙は、その解説の最後で「やがて、安岡章太郎は『海辺の光景』にまさるとも劣らない秀作を私どもに見せてくれることだろう。『海辺の光景』の作者は、確実にそう期待させるだけの力をもっている」と書いた。

私は「流離譚」を筆頭とする「鏡川」や「果てもない道中記」によって、安岡は充分に平野の期待に答えたと思うが、平野は「流離譚」の完成作を見ることなくこの世を去った。

私は、安岡章太郎の作品を読み直す機会を得、先に「安岡章太郎試論」としてまとめた。その文章を書く際に、もともと他人の言説に影響されやすく、さしたる文学的な立地点などとは無縁な自己を省みて、安岡に関する解説、評論を意識的にほとんど前もって読まないように心がけた。

その後「試論」を書き上げた時点で、現在手にすることのできる安岡に関する解説、評論を一当たりしてみた。

安岡の永い文筆活動に沿って、昭和30年代から現在にいたるまで多くの解説、評論が一般に流布されている。もちろん、その内容は安岡の文学に期待を寄せるもの、賛同するもの、批判するもの、貶すものと様々である。その中でとりわけ大きな意味を持つとされたのが江藤淳の「成熟と喪失」であり、安岡のみではなく第三の新人の多くを俎上にあげ、それらを文学的に位置付けた「評論」とされているようにみえる。

安岡が文壇にデビュー以後、「海辺の光景」までの多くの小説のほとんどが母と子を何らかの形で対象としており、その点で父の存在は影が薄いようにみえる。

たしかに戦争が終わるまで、江藤が言うように濃密な母と子のつながりがあり、そのことを題材とした作品が書かれている。しかし、その時期でさえも父の存在は意外に大きいものがあったのではないだろうかと考えるようになった。

そのことについては既に述べたとおりであるが、安岡の現在に至るまでの作品をもう一度見渡すと「海辺の光景」が一つの大きな転換点となって、その後、父への眼差しを強め、それが郷里への関心、歴史への接近へとつながっていったと思えるのである。つまり、図式的には、「海辺の光景」を境として前半が母と子の物語、後半が父へのアプローチという形が見えてくるのである。

私は以上の観点から「海辺の光景」を母の物語と父の物語が拮抗する作品であると考えるようになった。

江藤は、成熟と喪失というキイワードを使って「海辺の光景」を批評した。それはこの物語を母と子の物語と断定し、自らのフィールドへ引っ張り込んでの論評であり、結果として父への視点を欠くものとなった。

再度引用することになってしまうが、「『海辺の光景』とは、作者にとってこれほど深い意味を持っていた母親という存在が、狂気に犯されて崩壊していく話である。

それだけではなく母から解放され、始めて『個人』になることを強いられた男が無限に不自由になっていく話しである」という江藤の見解からは「海辺の光景」以後の安岡の膨大な作品を説明し、解釈することは不可能であった。

 

ここで外地で生まれた、あるいは育った作家の故郷と作品について参照し、安岡との類似点と差異を考えて見たい。

 明治42年(1909年)台湾の新竹で生まれた埴谷雄高は、昭和3年(1928年)に日大予科に入学、昭和6年(1931年)に日大を退学となり、その後、日本共産党に入党、逮捕された。翌年、転向により釈放されたが獄中でカントの「純粋理性批判」を読み深い影響を受けたという。

 

戦後、代表作「死霊」を執筆しはじめる。「不合理ゆえに吾信ず」、「闇の中の黒い馬」等に顕れているように作品は観念的で形而上的なものが多い。台湾や祖先の地福島県相馬についての記述は作品の中にほとんどなく、徹底して思想や観念の世界を扱い、場合によっては妄想の域にまで入り込む思考の有り様は日本人離れしている。

 もう一人昭和7年(1932年)生まれの五木寛之のケースを見てみたい。

五木は、福岡県八女市に生まれたが、生後まもなく朝鮮にわたり、昭和22年(1947年)内地に引き揚げる途中、母を失い、艱難辛苦の末、九州にたどり着いたが、この体験が五木の文学の原体験になっている。早稲田大学中退。「さらばモスクワ愚連隊」、「蒼ざめた馬を見よ」以後、何回かの休筆をはさんで多数の作品を発表している。近年、仏教に関心が向かい、特に浄土真宗の蓮如に関する作品を刊行し、また、幾度となく言及している。

エンターテイナーとしての才能を余すところなく発揮し、多くの作品を発表しているが、自らを故郷喪失者として位置付けているように思える。五木は故郷に回帰することなく、近年宗教への接近が目立つがいわゆる土着性をもった作品は少ないようである。

埴谷雄高における台湾、五木寛之における朝鮮は、心理的に戻ることのできないいわば封印された地となった。彼らは自らをハイマートロス、デラシネととらえ、埴谷は「観念」へ、五木は「宗教」へと向かって行ったのである。

この他に外地で生まれ、何年間かその地に居住した清岡卓行、井上光晴、森崎和江、澤地久枝などの作家を並べると、はっきりとコスモポリタン的な様相が浮かび上がってくる。

いや、簡単にコスモポリタン的などとひとくくりにすることは単純すぎるであろう。彼らは望郷の念にとらわれ、時に石もて追われ、複雑な想いを心に留めて、作品をつくったに違いなく、作品の方向性もさまざまである。だが、共通して言えることは故郷に対する偏った拘泥がなく、その地と自己を安易に結び付けて考えることを避ける傾向があることである。

 一方、安岡の場合、幼年の頃から、高知に居住することなく、各地を転々としていたため、「故郷は一つの架空な観念」であり、故郷に依拠することがなく、その点で上記の作家達と精神的な類似性が見られる。しかし、高知に関する様々な事物について、繰り返し父や母から聴かされており、観念の中の故郷として確かに存在していた。そのため、「故郷を棄てる」という言葉は父母を捨てるということに通底するような後暗いことであった。

安岡にとって、高知は、朝鮮や台湾などのいわゆる外地ではなく、物理的に心理的に容易に帰ることのできる内地であり、現に多くの親族が住む地であり、歴史的なつながりをさかのぼることのできる土地であった。

そのことが後年、文学上の様々な経由地を通過した後、高知に向かわせることになった。

 

                                            (おわり)

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