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1951年(昭和26年)とはどんな時代だったのか ー講和条約、日米安保条約、独立から再軍備の「逆コース」

   

1951年(昭和26年)とはどんな時代だったのか
 
<講和条約、日米安保締結、独立から再軍備の「逆コース」へ>
 
 
                                    前坂 俊之
                                (静岡県立大学名誉教授)
 
   サンフランシスコ講和条約締結と日米安保条約
五〇年四月、就任したばかりのダレス米国務長官顧問は対日講和について本格的な検討を始めた。

日本を反共国家として米国の友好国にするためには早期の対日講和を推進すべきだと統合参謀本部などを説得して米政府内部で合意を取りつけた。九月には連合国が賠償請求権を放棄する、国際連合に復帰させるなどの日本には寛大な内容の「対日講和七原則」を決定して、極東委員会(日本占領における最高政策決定機関)の諸国と協議に入ったが、ソ連、オーストラリアなどは日本に再軍備の制限などをつけていないことに懸念が示された。
 

対日講和七原則の主要点は、次のようなものであった。
 
①  対日講和の意思ある国は、対日平和条約の当事国となり得る。
②  国際連合への日本の加盟は考慮される。
③ 領域については、日本は朝鮮独立の承認、琉球・小笠原の国連信託統治、台湾、南樺太、千島列島に対する将来の米・英・ソ・中国の決定を承認する。
④ 安全保障については、国連が取り決めをするまでは、アメリカ軍隊との協力的責任が継続することを考慮する。
⑤ 当事国は、一九四五年(昭和二十)九月二日(降伏文書調印)以前の戦争行為から生じた請求権を放棄する。
ところが、朝鮮戦争の勃発、中国軍の介入で米、国連軍が敗走という情勢の変化によって米統合参謀本部は講和よりも、日本の再軍備を優先させよとの方針転換をダレスに強く求めた。五一(昭和26)年一月、ダレスはトルーマン大統領の特使として来日、吉田首相らと再軍備、安保条約と早期講和について協議をはじめた。
ダレスは最初から強硬に再軍備を要求したが、吉田は軍国主義の復活や国民世論の反対、経済復興が遅れることなどを理由に拒否して、講和交渉は難航した。次の交渉では日本側も折れて、2国間の安保条約(米軍の日本基地利用、駐留案)の締結と、講和締結後に再軍備を検討し、5万人の保安隊の創設などを盛り込んだ『再軍備計画案』を米側に提示した。これに納得した米側は初めて平和条約案(対日講和七原則)を日本側に示したが、これを見た吉田は「わが方の予想より寛大なものに大いに勇気づけられた」(吉田茂『回想十年』)と安堵した。
この機会を逃さず、吉田は主権と独立の回復、国際社会への復帰を獲得することに努めた。だが、独立するには将来の再軍備を約束するほかなく、アメリカ主導による講和と、もう一つ別個に日米間で安全保障条約を結ぶことになる。
   「単独講和」か「全面講和」かで、大論争へ
 
国内ではアメリカ主導による「単独講和」か、それともソ連・中国も含めた「全面講和」か、をめぐって、世論は真っ二分になり、政党間も激しい対立が起きた。大内兵衛東大教授など数十人の知識人が集まった「平和問題懇談会」では、月刊誌『世界』」などで論陣を張って、全面講和を支持した。
 
また、東大総長・南原繁も全面講和を主張したが、吉田首相は昭和25年5月3日の自由党両院議員秘密総会で、「永世中立とか全面講和などは、いうべくしてとうてい行なわれえないことだ。南原総長は曲学阿世の徒(学問を曲げて世の中にへつらう者)だ」と厳しく批判、この『曲学阿世の徒』が一躍流行語となった。これに対して、南原総長は翌日、「かかる極めつけこそ、学問への冒湧、学者に対する権力的弾圧だ」と反論した。
吉田の発言は人々に単独講和でよいのかという疑問を投げかけたが、全面講和支持はさほどの盛り上がらなかった。全国的にデモやスト、集会が禁止されていたし、レッド・パージで労働組合は骨抜きにされていたためであった。
 対日講和の手続きは、ポツダム宣言に基づき、米ソ英中の四カ国合意の上で進めることになっていた。だが、アメリカ主導による講和にソ連が反発。講和に関しては事前に四ヵ国外相会議を開き、対日戦争に参加したすべての国の代表の講和会議を主張した、これに中国、北朝鮮、インドが賛成し、なかでも中国政府は「日本の最大の被害国である中国が参加しない講和など無効である」と訴えた。これに対してアメリカは「太平洋戦争で日本を降伏させた主力のアメリカが中心となって講和会議を開くのは当然」と、東側諸国の要求を拒否し、西側陣営に協力を求めて、中国、台湾の代表権問題については両方とも出席させず、日本がどちらと国交をもつかは講和締結後日本の判断に任せる、として米側の講和方針を通して、米英主導で講和会議を強行した。
     対日講和と日米安保の同時発行
サンフランシスコ講和会議は五一年(昭和二六)九月四日から5日間、アメリカのサンフランシスコ市のオペラ・ハウスで開催され八日(米時間)に、講和条約(連合国と日本の間の平和条約)の調印式が行われた。
この会議に参加したのは日本を含む五十二カ国だが、インド、ビルマなどのアジアの国々は招待されたものの出席せず、ソ連、チェコ、ポーランドの3ヵ国は出席したものの調印しなかった。また、中国、台湾は承認をめぐって連合国間の調整がつかず、参加できず、結局調印したのは49ヵ国だった。吉田茂全権大使らが調印し、翌年四月二十八日に条約は発効、日本は六年八ヶ月にもおよぶ占領時代に終止符をうって、独立を果たすことになる。講和条約締結と同時に、別の形で安全保障条約が日米間で調印され、翌年に同講和条約とともに発行した。これは日本の安全保障と極東の平和と安全のための日米間の軍事的協力関係を定めたものであり、前文と五条からなっていた。
 
(コラム)
 
<日本語に切り替えてスピーチ>吉田はサンフランシスコ講和条約では受託演説を最初は英語でやる予定だった。
ところがアチソン米国務長官から「日本語でやったら」といわれて、急遽日本語に変更して、チャイナタウンで巻紙を買い求めさせて、毛筆で書いたものをスピーチした。吉田は講和条約を「和解と信頼の文書」と評価しながらも、琉球や択捉、国後などの返還、賠償支払いの履行、それにソ連の抑留者の早期帰国の三点を強調した。
 
   講和をめぐって混迷する各政党と総評
講和と安保条約をめぐり、各政党間の激しい対立と変転が続いた。吉田は前年(50)三月、民主党連立派の一部を吸収して自由党を結成したが、それは保守政権の安定とサンフランシスコ講和条約後の体制固めをめざしたものだった。
逆に社会党内では対立が一層、激化して、左派は(一)全面講和、(二)中立堅持、(三)外国軍事基地反対、(四)再軍備反対のいわゆる「平和四原則」にもとづき両条約とも反対の立場をとった。一方、右派は全面講和は非現実的であるとして、安保条約のみ反対の立場をとり、五十一年十月の第八回臨時党大会では、社会党は両派が乱闘の末ついに分裂してしまった。
また、50年にGHQの支持で結成された日本労働組合総評議会(総評)は急速に左へ転回し、左派社会党の大衆運動方針に呼応して、同じ平和四原則を運動方針として採択した。
共産党も急速に先鋭化し、五一年にスターリンによって作成された「五一年新綱領」にもとづき、武力闘争戦術を公然と主張する。火炎ビン戦術、山村工作隊、血のメーデー事件など、当局に弾圧の口実を与えるような事件を次々に起こし、翌年五二年の「抜き打ち解散」後の総選挙では、支持基盤がなくなり、三五議席から一気にゼロになってしまった。全面講和を主張した左派陣営は敗れて、以後、敗北と内部分裂を繰り返しいく年ともなった。
こうして日本の政治が独立をめぐっての激しい政治闘争、論議をやっている最中にの4月11日、マッカーサー連合軍総司令官がトルーマン大統領に突然解雇される衝撃的なニュースが飛び込んできて、日本国民を驚かせた。朝鮮戦争で「中国本土攻撃も辞さず」とのマッカーサーの独断的な声明が解任の理由といわれた。5年8ヵ月におよぶ日本占領で君臨していたマッカーサーの離日は文字通り、占領の終了と日本独立を象徴するシーンとなった。4月16日の離日では20万人の日本人が羽田空港までの沿道に並んで見送り、マッカーサーとの別れを惜しんだ。
 
コラム
 
<日本人の精神年齢は12歳>解任され帰国したマッカーサーは51年4月19日、米国議会で証言。

「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」との名セリフを残し、「日本人は12歳」とも述べて、日本人に大きなショックを与えた。「科学、宗教、文化などの発展からみてアングロサクソンは四十五歳、ドイツ人も同年配である。

しかし日本人はまだ生徒の時代で、一二歳の少年である。ドイツ人が現代の道徳や国際道義を怠けたのは、それを意識してやったもの。国際情勢に関する無知識の故ではなく、その失敗は日本人の犯した失敗とは趣きを異にする」

 
 
   「社用族・公用族」
 
朝鮮特需の浸透で、日本経済は上昇軌道に乗りはじめており、その後の日本株式会社、サラリーマンの原型がこの時期に形づくられた。各種の「族」が誕生し、社用族、公用族という言葉が流行語となり、世間を賑わせたる。

「親指族」とは、パチンコに熱中する人々を皮肉った新語。前年に登場した「正村ゲージ」によってギャンブル性が強くなったパチンコが人気爆発。当時のパチンコは現在のように自動ではなく親指で玉をはじいて打ったことから、この名がついた。この年、東京都内のパチンコ店は5千軒、全国2万店に急増、パチンコ総売り上げは1千億円を突破、新聞広告の総売り上げ163億の6倍以上という大衆娯楽の王様に躍り出た。
 

 「社用族」とは、会社の経費でバーやキャバレーで遊んだり、旅行などをする社員のこと。税法に交際費控除があるためで、言葉は太宰治の小説「斜陽」(1947年)から生まれた「斜陽族」(戦後になって没落した上流階級を指す)にひっかけて生まれた。「社用族の多い会社は斜陽になる」という警告と皮肉が込められたが、サラリーマンの行動パターンの日本的な特徴として、この言葉は定着した。
 
 次には「公用族」も登場した。公務員たち、中でも幹部の公務員が公用車をゴルフ、野球、物見遊山に使い、なかには出張旅費をもらいながら公用車を乗り回わして、浮いた旅費を懐に入れる不心得者も多くいた。
そうした中で、前年四月に発覚した「鉱工品貿易公団公金横領事件」で、公団総裁が「あれくらいは女中のつまみ食い」と発言、世論からごうごうたる批判を浴びた。これ以降、汚職のことを「つまみ食い」と呼び、これが流行した。こうした役人の腐敗ぶりを目のあたりにした行政管理庁の役人・高田茂登男が内部告発して「不正者の天国」「仮面の公僕」の本を出版したが、逆に起訴され、免職となった。
 
 サラリーマンものの古典、源氏鶏太の小説「三等重役」(サンデー毎日昭和26年8月から連載開始)が有名になったのもこのころ。企業では創業社長や大物役員が公職追放で次々とやめていった。残された社員のから小心な重役への抜擢が相次いだが大半はサラリーマン重役であり、能力もチョボチョボ。彼らは必死になって組織にしがみつき、定年まで無事に勤め上あげようとした。そうした悲哀を表現する言葉として、共感を呼んだ。
 
11月に東京―大阪―福岡間の日本航空の国内線が復活し、「スチュワーデス」が登場して、女性の憧れの職業となった。
 
   不況と「軍艦マーチ」の復活
 
昭和26年は占領から独立を果たし、今度は再軍備へと向かうターニングポイントとなった年でもある。戦犯や公職追放となった人々が続々と追放解除され『復古調ムード』『逆コース』と例えられた。一連の追放解除の動きは6月20日に第一次公職追放解除では三木武吉、石橋湛山ら2900人余があり、同30日に地方レベルの追放解除約6万六千人、8月6日に第2次追放解除で鳩山一郎ら1万3千人余、同16日に旧軍人解除が1万1千人と続いた。戦争責任の追及は、処分はこれで終り、追放解除された軍人、政治家、経済人、役人はもとの職場や社会に復帰、右翼政治家が政界に、旧軍人が警察予備隊に大挙して入隊した。
 
そんな復古ムードを象徴するように、占領時代には聴くことのなかった軍国時代のシンボル「軍艦マーチ」や軍歌が復活して町のあちらこちらで流れた。
 
子供の遊戯から大人のレジャーになったパチンコ屋がBGMとして流し始めた。占領が終わり、独立したというお祝い気分もあるが、この軍艦マーチはその後パチンコ屋だけでなくラジオやアルサロ(アルバイト・サロン。今でいうクラブあるいはキャバクラのような形態。前年五十年に大阪千日前に第一号店が開店し、美人ホステスが揃っていることで人気に火がつき、店舗は全国へと波及していく)でも聴かれ、レコードもヒットした。こうした風潮を読売新聞は「この道はいつかきた道・・・逆コース」と評した。
 
 一方、国内の経済状態だが、独立を回復し、占領下における統制や生活物資の配給も次々に解かれ、自由経済が復活するものの、自己調達を余儀なくされると同時に物価は跳ね上がり、企業経営や国民生活は圧迫された。
「わずかでもいいから金を稼ぎたい。少しでもいいから節約したい」。こうした庶民の知恵が「エントツタクシー」を生む。これはタクシーの運転手が小遣い稼ぎのために、料金メーターを倒さず(エントツのように立てて)走ることで、客のほうもそれを認めることを条件に料金を値切ったりした。
 
    働く子供たちと遊びに夢中の子供たち
 
朝鮮特需や経済復興の恩恵は末端まで浸透せず、親のない子や生活苦は子供たちを直撃した。女の子のバイトは花売り、男の子は靴磨きが定番であり、「ひばりの花売娘」(美空ひばり)「東京シューシャインボーイ」(暁テル子)などは、そんな世相を反映した歌であった。
働いたお金で、あるいは親からもらうわずかな小遣いで少年少女が群がったのは今でいう「スイーツ」、お菓子だった。森永製菓が発売した「森永ミルクキャラメル」(一箱二十円)は一ヶ月で一千万個の売り上げを記録。また、明治製菓は戦後初の国産板チョコ「明治ミルクチョコレート」を発売し、話題となった。カバヤは「おまけ付きカバヤキャラメル」(一箱十円)。お菓子ではないが、ぜいたくな果汁飲料として「バヤリースオレンヂ」(一本五十五円)が発売され、子供たちが飢えていた「甘味」に応えた。
 
 働かなくてもいい子供たちは遊びに夢中となった。西部劇がブームとなり、ブリキ製の「百連発ピストル」が流行する。小さな火薬を細い紙テープに点々と貼り付けた渦巻状の弾丸を、ピストルにセットして引き金をひくと、パンパンと連続して火薬がはじけた。このピストルで走りながら撃ち合ったり、広場や野原で決闘ごっこ、早撃ち競争などがくりひろげられた。
 
また、「生活するには体が資本、せめて体だけは丈夫に」と、戦後、GHQによって禁止されていたNHKのラジオ体操が復活した。毎朝六時十五分になると「ラジオ体操第一・・」という元気な声がラジオから流れ、それに合わせて老若男女が一日の始まりの儀式のごとく、黙々と体を動かした。
 
 
   桜木町事故
この年も特異な事故、犯罪、事件も続いた。最大事故は電車火災の「桜木町事件」である。四月二十四日午後2時前、京浜東北線赤羽発桜木町行き電車(五両編成)が横浜市の桜木町駅ホームに進入の直前、最前車のパンタグラフから発火、両目は全焼、二両目も天井を焼失して死者一〇六人、負傷者九十二人を出す未曾有の大惨事となった。犠牲者が一両目に集中していたのは、桜木町駅の改札口に一番近い先頭車両で一番混んでいたためだった。
事故車は、昭和十八年の物資不足中で設計・製造された車両で、ガラス窓も小さくボディは木造で耐火塗料も施してなかった。
事故の原因は電力工手が架線工事中に誤って架線が三十センチも垂れ下がり、それを電車のパンタグラフが引っ掛け、ショート、炎上したためだった。事故後、手動コックが分かりやすく表示され、各車両間の通行ができるように改造された。
 
    八宝亭殺人事件
 
222日朝,東京中央区築地の中華料理店「八宝亭で,主人の岩本一郎さん夫婦と2人の子供の計一家4人がまき割りで惨殺され,現金三万円余りと預金通帳が盗まれた。

警視庁では発見者のコック山口常雄(23)の積極的な捜査協力で,前日同店に雇われ事件後姿を消した「太田成子」のモンタージュ写真を作り全国に手配。3月10日,この女は静岡県生まれの西野つや子(24)とわかり逮捕。
「山口の手引きで住み込み,犯行のあった翌朝,「山口に脅されて岩本名儀の預金を引き出しに行った」との自供から山口の犯行が明るみにでて逮捕されたが,山口は11日午前4時ころ,築地署の留置場でかくしていた青酸カリで自殺。西野は直接関係のないことがわかった。
この事件は凶行後平然と警察や新聞社に協力していた山口の二重人格的な行動や
架空の人物を犯人に仕立て、バレると服毒自殺を図るという、まるで映画もどきの事件展開が話題となった。

 
   アナタハン事件
 
 マリアナ諸島のアナタハン島で日本の終戦を知らずに生きていた日本人二十人が、七月六日に帰国した。十九人の元日本兵のなかにただ一人混じっていた女性の比嘉和子は、南洋興発社員だった夫と島に住んでいたが、四十四(昭和十九)年、米軍の空襲で夫を亡くす。このとき、難破した船から島に泳ぎ着いた約三十人の日本兵と暮らすことになった。

だが、ただ一人の女性である比嘉をめぐって男たちの間には激しい争い、殺し合い起こって、夫にした三人の男が行方不明になったという。帰国後は「女王蜂」、「何人もの男と交わった女」として好奇の目で見られ、ジャーナリズムは「アナタハン島の女王」と呼び、映画(J・V・スタンバーグ監督 根岸明美主演)にもなった。世間では「アナタハン」とは、長い間、ごぶさたしていたという意味にも使われ、流行語となった。

 
 
   「チラリズム」と「ストリップの女王」
 
世の安定化でよみがえってきた風俗の世界では、女剣劇の「チラリズム」や「ストリップの女王」が人気となった。GHQによるチャンバラ禁止と、ストリップ・ショーに押されて鳴りをひそめていた女剣劇が、再び浅草で息を吹き返した。

その呼び水になったのが、浅香光代率いる一座。「エロにはエロで、相手が舶来のストリップなら、こちらは和風でいく」と、着物の裾がめくれて大股がチラリと見える立ち回りを考案、これが大受け。浅香光代自身は不二洋子や大江美智子などに代表される正統派女剣劇を上演したかったのだがうまくいかない。立役の物を演ずると客の入りが悪くなるが、彼女が「戦後派的な女剣劇」でエロチックな女形をやると大ヒットし大入りが続いた。

もう1つ。世の男性の熱い視線を一身に
浴びたのが、『伝説のストリッパー』のジプシー・ローズである。「内外タイムス」が行った「人気ストリッパー・ベスト二十」で、ベテランを押しのけてこの年の女王に輝いた。彼女は前年、浅草蔵前の常盤座で泉都ルイズの穴埋めとしてセーラー服で登場、以後、グラインド(腰振り)プレーで一躍、人気者となった。
 
 
〈12〉「ボストン・マラソン優勝」とプロレスブーム
 
四月十九日、アメリカの「ボストン・マラソン」で、日大一年の田中茂樹が二時間二十七分四十五秒の好記録で優勝、日本人初の快挙だった。
 
 広島県出身の田中は子供の頃、毎日、学校までの四キロを母親が作ってくれたわらゾウリで走った。高校に進学しメキメキ頭角を現して、ボストンでの快挙へとなった。当時のアメリカメディアに、原爆投下の広島からきたということで田中を「アトム・ボーイ」として大きく紹介した。
 
 外人コンプレックスを払拭させてくれるスポーツショーが行われたのは十月十八日。大相撲の元関脇をつとめた元力士の力道山が、プロレス元世界チャンピオン、ボビー・ブランズとのエキシビション・マッチでデビューしたのだ。空手チョップで相手を震え上がらせ、殴り倒し、投げ飛ばす力道山のエネルギーと姿に、「外人には負けない」との想いが湧き上がった。
 
(13) 民放ラジオ局が続々開局、紅白歌合戦」の開始
 
 この年、ラジオは全盛期直前を迎えた。九月一日、初の民放ラジオ局としてCBC中部日本放送、NJB新日本放送(現・毎日放送)の二局が開局」。続いて朝日放送、ラジオ九州、京都放送、ラジオ東京(現・TBS)と、計六局が相次いで誕生し、NHKとの競争時代に突入した。このため、ラジオ契約数は約九一九万世帯(NHK調べ)と、前年より約五十万世帯も増えた。
 
スポンサー番組第一号となったのは中部日本放送の「服飾講座」。名古屋の毛織物店が提供し、新日本放送も放送劇「鞍馬天狗」で人気を得て、甲子園で行われた日米親善野球中継では中沢不二雄が日本初の解説者となった。後発のラジオ東京も放送劇「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」を制作し、長い人気番組となった。
 
NHKも民放に負けじと番組内容の充実し、放送劇の「さくらんぼ大将」や「明るい茶の間」「ラジオ体操」「夢声百夜」「海外の話題」などを制作した。
その中で、注目されるのは第一回の「紅白歌合戦」の開始。現在のように大晦日ではなく一月三日、東京放送会館の第一スタジオで行われた。赤組の司会は女優の加藤道子、白組は藤倉修一アナウンサー。メンバーは赤組が菅原都々子(憧れの住む町)、二葉あき子(星のためいき)、渡辺はま子(桑港のチャイナタウン)、赤坂小梅(三池炭坑節)ら七名。対する白組は林伊佐緒(銀座夜曲)、近江俊郎(湯の町エレジー)、東海林太郎(赤城かりがね)、藤山一郎(長崎の鐘)ら七名で、ちなみに第一回目の優勝は白組になった。
 
これ以来半世紀続いている紅白歌合戦だが、実は終戦の年の暮れに「紅白音楽試合」が行われており、これが「紅白歌合戦」の前身にあたる。司会は女優の水の江滝子、白組は漫談家で俳優の古川ロッパ。総合司会は田辺正晴アナウンサー。それから六年後に第一回の紅白歌合戦が始まり、翌年に第二回目。そして第三回目は五十三年の正月と大晦日に第四回目が行われ、一年に二回行われた。大晦日が恒例となったのは第五回目からである。
 
歌手にとって紅白出場とその回数は人気とギャランティの尺度となっていく。出場メンバーの発表がされるたびに泣くもの、大喜びするものありで、まるで合格発表のような光景が毎年新聞や雑誌で紹介される。聴視者には紅白歌合戦は一年の締めくくり番組となって、テレビの登場によって一躍、国民的番組へ、年間の再興視聴率番組へと成長していく。
 
(14) 「ミネソタの卵売り」「上海帰りのリル」「トンコ節」
 
 この年に流行った歌は「東京シューシャインボーイ」「ひばりの花売娘」のほか、「ミネソタの卵売り」(暁テル子)、灰田勝彦の「アルプスの牧場」「野球小僧」、小畑実の「高原の駅よさようなら」など。
 
 世相を反映したのが「上海帰りのリル」(津村謙)で、戦後から六年たってもまだ「尋ね人」の張り紙が街角に貼られ、戦災による行方不明者を探すラジオ番組もあった。再会を祈る人々の想いを「誰かリルを知らないか~」という歌詞に託したのがこの曲。その一方で、ラジオ局には「リルは私です」などの電話や手紙が相次いで舞い込み、関係者を呆れさせた。これにあやかって「私がリルよ」(歌・三条美紀)というレコードを発売したが、これはヒットしなかった。
 
 朝鮮戦争の特需景気によって宴会が増え、お座敷歌としてヒットしたのが「トンコ節」(久保幸江)。今のようにカラオケがなかった時代、手拍子で歌えるのがよかった。だが「ネエ、トンコトンコ~」と子供までもが歌うようになり、世のひんしゅくを買う騒ぎになった。
 
 四月には日本コロムビアから日本初のLPレコードが発売された。ベートベンの第九交響曲など五タイトルが出されたが、価格は一枚二三〇〇円。当時、理髪料が大人百円~百二十円、映画料金百円、巡査の初任給が約五千円の頃で、庶民には高値の花の価格だった。だが、五月にアメリカの指揮者ローゼンストックが、九月には世界的バイオリニスト、メニューインが来日するとクラシックに注目が集まり、高価なLPレコードも次第に売れるようになった。
 
〈15〉映画・「麦秋」「めし」「カルメン故郷に帰る」がヒット
 
 キネマ旬報による日本映画ベストワンは、小津安二郎監督の「麦秋」(松竹・原節子、笠智衆ら)。北鎌倉を舞台に、婚期を逸しかけている娘に縁談話が持ち込まれ、二世帯が同居する家族たちのそれぞれの思いを描いた秀作。
 
もっとも話題を集めたのが、日本初の本格カラー作品「カルメン故郷に帰る」(松竹・監督・木下恵介 高峰秀子、小林トシ)である。本当はストリッパーの高峰と小林が「芸術家」のふれこみで故郷に帰り、村人を巻き込んでてんやわんやの騒動起こすという内容で、総天然色のスクリーンに人々は酔った。
 
文芸路線も当たり年だった。「めし」(東宝 監督・成瀬巳喜男 上原謙、原節子)は林芙美子の原作で川端康成の監修した作品。「風雪二十年」(東映・東京 監督・主演 佐分利信)は尾崎士郎の原作。「源氏物語」(大映・京都 監督・吉村公三郎 長谷川一夫)は谷崎潤一郎の監修で、いずれもヒットした。
 
 シナリオライターとしての注目されたのは新藤兼人。リアリズムの巨匠、溝口健二の「祇園の姉妹」をヒントにした「偽れる盛装」(大映・京都 監督・吉村公三郎 京マチ子)、「源氏物語」、自らの下積み時代を描き、監督・脚本をも担当した「愛妻物語」(大映・京都 乙羽信子)など立て続けに発表し、話題となった。 
 
(コラム)
<昭和26年の主な物価>
総理大臣の月給 六〇〇〇〇円~八〇〇〇〇円
公務員の給与ベース(国家公務員・一般職) 七九八一円~一〇〇六二円
大卒初任給(民間) 四五六〇円
新聞(朝日 毎日 読売 月ぎめ) 二二〇円
銭湯(大人) 十二円
たばこ(ゴールデンバット二十本入り) 三十円
雑誌(中央公論) 九〇円
自転車 一一〇〇〇円~一八〇〇〇円
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 - 現代史研究

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リーダーパワー史(40) 中国共産革命を実現した毛沢東と周恩来のコンビ

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