<鎌倉古道巡礼>=約700年前の「切通し」●中世の迷宮都市・鎌倉の絶景歴史スポットの鎌倉七口を散歩しよう』
<鎌倉古道巡礼>=約700年前の「切通し」
中世の迷宮都市・鎌倉の絶景スポット☆
鎌倉七口を散歩しようよ』
前坂俊之(ジャーナリスト)
奥富敬之著「もっと行きたい鎌倉歴史散歩」新人物文庫(2010年)によると、中世の迷宮都市・鎌倉のゲートはどこかーーー
鎌倉七口の特徴とは
鎌倉の都市化が進むと、鎌倉に出入りする人数も必然的に増加する。仁治元年(1240)十月十日、北条泰時が、「山内に道路を造るべし」と命じた。それまでの鎌倉は、亀ガ谷坂道ただ一本で、鎌倉往還(鎌倉街道)の上ノ道に通じていた。これを二本に増やせと命じたのである。いわゆる小袋坂道である。
鎌倉古道百選ー大仏切通、鎌倉時代の雰囲気が一番残っている③★5
同年十一月三十日、北条泰時は再び命令を発した。「鎌倉と武蔵国六浦荘(横浜市金沢区)との間に、始めて通路を開くべし」
これが「六浦路(朝夷那の切通し)=現在の朝比奈切通」で、鎌倉と鎌倉往還の下ノ道とを結ぶ道である。
なお、この泰時の下知には、小袋坂では「造る」とあり、六浦路では「始めて」とあるが、これは間違いで両道路ともに、以前から存在していた。両工事は、道路の新設ではなかったのである。すでに存在していた道路をさらに拡幅するという意味であった。
何故か。六浦道(朝夷那の切通し)を越えた先は、武蔵国六浦荘(横浜市金沢区)である。領主の金沢流北条実時は、泰時の信任厚い甥(泰時の弟実泰の子)である。そして小袋坂道の先の相模国山内荘(北鎌倉から横浜市戸塚区など)は、泰時自身の所領であった。
鎌倉古道散策ー新緑が輝き、岩崖の石仏ある朝比奈切通 ⑦★4
鎌倉古道百選ー武士、日蓮も歩いた名越の切通しを緑ヶ丘入口から登る②
「いざ、鎌倉」出陣!
という事態が生じたとき、いつでも味方の軍勢を鎌倉に投入できるという意図があったのである。両道は、まさに軍用道路であった。
明確な徴証というほどのものはないが、同じ頃、鎌倉の東南隅の境においても、泰時は大工事を行なっていたらしい。三浦半島に通じる名越坂道周辺に、巨大な「大切岸」(おおきりぎし)を築いている。六浦路・小袋坂道の工事は、幕府公許のものであったので、御家人らに諸役を配分した。しかし大切岸の工事は、北条一族だけの手で秘かに行なわれたらしい。
大切岸は、山の尾根に沿って、外側を高さ一〇メートルほど垂直に切り落として築かれた。全長八〇〇メートル余の工事が完了した後は、三浦勢は甲骨に身を固めに侵入できなくなった。尾根の上部には犬走り″状の細道が通じていて防御する北条方の軍兵が走りまわれるようになっていた。
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この時期、北条泰時が、三浦半島に盤居する三浦一族を仮想敵としていたことは歴然としている。・鎌倉西北隣の山内荘と東北隣の六浦荘とから、五条氏は味方の軍兵を鎌倉に導き入れることができる。対して三浦一族の軍勢は、簡単には鎌倉に入れなくなった。
三方を山で囲まれている鎌倉では、切通し″以外では外に通じる道はない。この切通しを「鎌倉七ロ」と呼ぶ。その鎌倉七口には、多かれ少をかれ敵兵の侵入を妨害阻止する仕掛けが、同じく泰時の時期に設けられたらしい。
すべてに共通して道幅は狭く、騎馬武者一騎がようやく通れるほどだった。それぞれの道の中央部には「置石」あるいは「置岩」が露頭していた。さらに、しばしば道路を横に切った「堀切」あるいは「堀割」が設けられていた。
また、弓矢は進行方向に向かって左側しか射ることができない。
右回りの直角の曲り角である「虎口」も、ここかしこに造られた。
虎口が登り坂にになっている箇所は「空洞」(ほうとう)である。要所要所には「矢倉門」がくまれた。その下を平時には1列で通過できるが、戦時は弓の名人が一人立てば、万人の通行が阻止できた。
切通しの両側あるいは片方は、吃立する崖に形造られていた。押して通ろうとすれば、その頭上に矢の雨を降らせ、巨岩・大木を投げ落とすことができた。三方から挟撃できるような地は、「平場」と呼ばれた。
鎌倉七口近くには、ほぼ北条一族の拠点があった。 海が近くに迫っている鎌倉では、水は良くない。しかし後世に名付けられた「鎌倉五名水」「鎌倉十井」は、いずれも鎌倉七口近くに位置している。このことからも、鎌倉七口の造成は軍事目的であったことが知られる。
切通しの両側あるいは片方は、吃立する崖に形造られていた。押して通ろうとすれば、その頭上に矢の雨を降らせ、巨岩・大木を投げ落とすことができた。三方から挟撃できるような地は、「平場」と呼ばれた。
鎌倉七口近くには、ほぼ北条一族の拠点があった。 海が近くに迫っている鎌倉では、水は良くない。しかし後世に名付けられた「鎌倉五名水」「鎌倉十井」は、いずれも鎌倉七口近くに位置している。このことからも、鎌倉七口の造成は軍事目的であったことが知られる。
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