『日中台・Z世代のための日中近代史100年講座⑧』★『日本恋愛史の華』★『憤怒の眦(まなじり)を決して伊藤伝右衛門氏下関で語る』「大阪朝日」
2025/02/24
2015/01/01/NHK「花子とアン」のもう1人の主人公・柳原白蓮事件(7)再編集
[福岡県の炭鉱経営者の家に生まれ、三井物産の商社マンとして長年、世界を駆け巡ってきた籾井会長は一刀両断「伝助のモデルは、人づてに聞いたところでは奨学金も手がけた立派な人。(年下の大学生と駆け落ちした妻の)白蓮はわがままな女だと思っています]
「妾を何人ももって、カネで華族の白蓮を後妻にむかえた伊藤伝右衛門と白蓮のどちらが、一体わがままなのか?」
柳原白蓮
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E7%99%BD%E8%93%AE
白蓮事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE
%E4%BA%8B%E4%BB%B6
宮崎龍介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%
B4%8E%E9%BE%8D%E4%BB%8B
1921年(大正10)10月25日「大阪朝日新聞」『憤怒の眦(まなじり)を決して 伊藤伝右衛門氏 下関で語る』
【10月25日 大朝】
二十三日夜、京都祇園の茶庭伊里を出て郷里福岡に帰り、燁子(あきこ)の絶縁問題につき親戚会議を開くべく、同八時発下り列車に乗った伊藤伝右衛門氏は悲憤と嫉妬のため、マンヂリとも眠れなかった身体を、二十四日午前九時三十八分、下関に現した。
ヵーキ色の外套にくるまり、茶色の中折帽を戴き、荷物とて小型の手提トランク一個のみ。機関車の次に連結された最前列の二等車寝台から飛降り、人目を避けるが如く、俯伏加減にプラットを歩み、鉄道連絡船に乗るのを避け、開札口から駅外に出で直に腕車を駆って駅前より同市岬ノ町通りをヒタ走りに走り、東南部町の海岸通りを辿り、開門汽船の唐戸渡船場に出で、野菜荷物と乗客でごった返しているむさくるしい渡船硯海九の片隅に身を隠した。
全くの不意討 裏面に大きな黒幕
記者は駅前から同行、硯海九に同乗する。23日来、極度に神経を悩ましてゐた所へ、前夜来の睡眠不足で態度落付かず、昂奮し切った眼は血走ってゐた。
「連絡船で渡るとうるさいから此所へ出て来た」ポッリポツリと語る。
「今度のことは全く予期しない出来事である。今日は幸袋の本邸迄帰りたいと思ってゐるが、帰ってから親族会議を開いて今後の態度を決めやうと思ふ。今の所ではどうなるか何とも判からない。私の考へや、又今後の方針に就いては燁子から迭ったと云ふ本当の絶縁状をまだ見てゐないので、態度を決めやうも決められない。
のみならず、燁子から果して其絶縁状なる物が送ってあるか否か、又送ってあるとしても、其内容が果して世間で言ふやうな物であるかどうか、今の所では郷里から何の知らせもないのでとんと見当がつかない。
当の私が未だ手にしない内に、あの絶縁状なる物が社会に公表された所から見れば、燁子の今度の行為の裏には、或は一の大きな黒幕が怪しの糸を引いてゐるのかも知れない。
殊に一方の宮崎と云ふ者は新しい人で、今度の神戸の労働争議にも関係があつたと云ふから、或はそれ等の人々が皆よってたかって私と云ふものに取掛ってゐるのかも知れない。
京都では柳原伯と面会して帰ったが、伯は今度のことに就いては、私に向かい、非常に恐縮しきつた態度でいろいろ話された……」
話はそれからそれからと腹の底から繰出された。
社会的に懲罰の方法を講ずるだらう
伝右衛門氏と同列車にて、潜かに西下午前十時四十五分門司駅発列車にて福岡に向つた妹婿伊藤鉄五郎氏は語る。
「私共の帰福は全く親族会議を開くためです。其内容は多々あるが、主とて燁子等両名に対して法律的制裁を輿へるか、若しくは社会的制裁に出づるかの点に関するものであるが、本人が本人丈けに、事件の結果が及ぼす社会上人倫上の反響は相当大きなものがあらうと思われるので、此際私共に於ては此点に慎重なる
考慮を払う必要があらうと思ひます。
此見地からいって寧ろ不徹底なる法律的制裁よりも、モツトモット深刻な社会的制裁の方を選ぶやうになるだらう。其方法は今は発表する事は出来ない」云々。
燁子の死を希ふ心と「生」に対する深い執着「歌」に死せよと佐々木博士の詞
燁子が心を許してゐたさる歌の友に寄せた手紙には、世の毀誉を色々に気遣ひながら寂しい心に死を希ひ、その一面深い生の執着に囚はれてゐるおど〈したさまが見える。
久々の御文嬉敷拝見致しました。世間では何らしてあんなに私の事を色々といふのでせう。ほんとに此度はあの後すぐに旅をしたので尚更うるさう御座いました。
けれども本当は私は自分の事をくさしてゐるのか、ほめて居るのか、よく解らないので御座います。
或時は人事の様にも思われます。とにかく実は何とも思って居りませんのです。こういふ事も馴れるとあつかましくなると見えます。人に依るとまるで悔やみでも述べる様な挨拶をされると、そんな事なのかしらんと思ふ位本当は一向無感覚なのです。
百千人の敵(敵といふものではなく或は同情者なのかもしれませんが)は何とも思ひはしません。
けれども私も女自身の棲む周囲が、一番怖ろしう御座います。くわしいわけは今あなたにも申上げられませぬ。まして私の名を知る人人にも申されませね。
私は腹立ち紛れに、あんな手紙をあなたに出しました。殆ど同時に佐佐木先生にも出しました。先日先生の御宅でもあなたの仰る通り弱い女、歌に現れたと異なった意志の薄弱な女とさんぐに叱られました。
先生はいっそ歌って歌って続く限りを歌ひつくして死ねばよいとも仰いました。五十年の生命を今の一時に縮めてもと仰いました。本当にこれだけは先生のおっしゃってる言葉の中の真実だと思ひました。
そもそも人間として生れ出づる因縁からして、なぜに不思議に人と異った運命を持って来た私、人並の幸、人並の願ひそれは自分には贅沢なもの、歌の中に我宗者を見出し篤い信仰を歌の神に捧げてゐればよい。
けども私の歌の神には尊い犠牲を捧げました。あの涙も血もまだ足らぬと仰るならば、いっそもうかわき切った涙をなはもふり搾って、早く死んでしまふのがいゝかしらんとも此の頃考へますの。
けれどもやっぱり死ともない。如何に私に歌作らせるために惨酷な神様でも、もういゝかげんに許して頂かうなどなど思ふのが卑怯だと仰るのですか。
私は医者もわからぬ病気までしました。あの踏絵のあの歌は実は私が作ったのではありませぬ。私の境遇が作ったのです。私はあの踏絵を見るのがこわいのです。何もしらぬ人々にはあんなことをもっと歌って見ろなんて私は悲しう御座います。死より外に道はありませぬ。私の歌作らぬ幸編と、私の歌作る不幸と誰も察しては下さらぬ。
燁子
そしりかや 情かはたはあざけりかけふ 此頃の我をよぶこゑ
この願ひありうることか 逢ふといふのぞみはすでに死よりはかなし
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