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「Z世代のための日本最強リーダーパワーの勝海舟(75)の研究④』★『危機管理を忘れた国は崩壊するのが歴史法則』★『ペリー黒船来航の情報に対応できず、徳川幕府崩壊へ』★『阿蘭陀風説書でオランダ国王から黒船来航予告にまともに対応せず、 猜疑心と怯惰のために,あたら時間を無駄 にすごした」(勝海舟)』

   

   『リーダーシップの日本近現代史』(329 )記事再録

徳川鎖国時代と戦略情報、危機対応能力

鎌倉、室町、戦国安土、桃山時代と続き、1603年に江戸時代に入り徳川幕藩体制は230年続いた。鎖国を祖法(家康が定めた憲法)としたが、オランダ、中国の2か国とは長崎出島を通じて貿易を行った。鎖国230年の徳川一国平和主義はなぜ長く続いたのか。

それはヨーロッパからみると、日本がユーラシア大陸の一番遠くの存在の『ファーイースト(極東)』だったからだ。『ファーイースト』というようにユーラシア大陸の東はしの、さらに海をへだてて存在する日本は陸路はもちろん海路でも一番遠い。

地球儀で見ればよくわかるが、北米大陸はヨーロッパから大西洋を距て目の前。ところが、アジアに行くためには、スエズ運河1869年、明治維新の1年前に地中海と紅海を結ぶ運河)が完成する前はアフリカ南端の喜望峰を回り、インド洋を通過してウィンガポール沖、南シナ海を通過して日本に来るしかなかった。

パナマ運河(パナマ共和国内で太平洋とカリブ海を結ぶ運河)が1914年(明治44)に出来るとヨーロッパからはスエズ運河を通って太平洋をわたり、日本中国に行くことができるようになった。

スエズ運河ができる明治維新前までは、ヨーロッパから海路では最も遠い国が「日本」であり、地球最後の植民地としてターゲットになったというわけです

この地政学的条件が日本を他国による侵略を免れた最大の要因である。

徳川幕府は大型船(500石積(排水量100トン余)の製造を禁止、外国船が入ってくると『打ち払い令』で追い返していた。

18世紀世末となり、英国の産業革命(1764年、ハーグリーヴズがジェニー紡績機を発明したころから、蒸気機関車の鉄道が各地に開通し始めた1830年代までの期間)によってさまざまな機械が発明、発見、導入され、製造・製鉄・交通などの分野が発達したことで、生産力は加速的に向上した。

鉄鋼蒸気船が発明されて、航海術の進歩により西欧各国の軍艦が砲艦外交を展開し開国と貿易をもとめて、世界中の弱小国、資源国を荒らしまわる弱肉強食の帝国主義時代に入る。徳川末期には西欧から大型帆船、蒸気船が日本近海に多くあらわれてきた。

日本に通商を求めてきて断られたロシア船の略奪行為をしたり、イギリス船の長崎港不法侵入事件などの頻発で『鎖国を祖法』(憲法)として固く守る幕府は1825(文政8)年、異国船打払令を出し、沿岸に近づく外国船を、打ち払うよう命じた。日本人漂流民を送還するため来航したアメリカの商船「モリソン号」にも砲撃を加えた。

 1828年(

1828年(文政11)日本を追放されオランダで研究生活を送っていたフォン・シーボルト(1796-1866,医師、博物学者)は、オランダ国王ウィレム2世に「アヘン戦争の結果を知らせ、鎖国を撤廃するよう促すべきである」と進言し、ウィレム2世による国書「阿蘭陀風説書」

は1844年、正式な儀式を経て長崎奉行を通じ幕府に手に渡された。

オランダ商館長の予告通知と幕府の対応

幕府はこの助言を「鎖国」の掟に従って拒否した。しかしオランダは1852(嘉永6)年6月5日,ドンケル・クルチウスを出島の商館長として送り込み ペリーの米黒船艦隊の来航を予告した。

その内容は「アメリカ政府が日本国に使節を送り,日本国と通商を遂げたいために蒸気仕掛軍船サスケハンナを主監とした4隻を派遣するので、その軍事力からみて,日本にとってきわめて憂慮すべき事態が起こる恐れがある」というもので(「別段風説書」)

しかし幕府はこの情報を信用せず,ことの重大さに気づかなかった。来航の可能性まで否定して、情報そのものを徹底して秘匿した。オランダ国王には『そのような不吉な情報をしらせてくれるな』との返事を出し、全国に国の安寧を願って神社に祈祷をさせていた。

傍観主義の幕府とベリー来航

予告時期がせまり、浦賀奉行所から警備対策の伺いも出したが、幕府上層部は「異船が何隻きても日本が鉄砲をぶっぱなせば,直に逃げ帰る」、「浦賀にきても,ここは外国の事務の取扱場所ではないとつっばねて長崎に回せばよい」と強がって何ら対策を講ぜず、時間を空費し続けた。

(現在の政治資金規制改革法案の国会論議は「会議は踊るされど決せず」(ウィーン会議)「日本の小田原評定」と同じだらだら時間つぶし、時間空費の会議馬鹿が日本です)

 元寇の役のケースとまるで同じ、情報軽視と無為無策での典型。

当時の老中首座は27歳の阿部正弘であり、天保の改革の立役者水野忠邦の失脚,幕政の混乱のなかで,たまたま老中上席であったで阿部正弘がところてん式に首座についた。政治的な経綸も希薄であり、北条時宗と同年の戦知らず、経験不足、国難に対応できる力量など持ち合わせていなかった。幕府成立以来初めて幕臣と有志大名から海防策を求めたが、台場(砲台)の建設や、肝心の大型蒸気船の建設は祖法によってできず、いずれも資金不足により,対策は後手に回った。

阿部には打つ手がなく、結局「黒船が来れば国書を受け取り一日も早く退去させ、その後多くの意見を聞き,国としての方針を決定し再来に備えよう」という先延ばしの無為無策で、異国情報拒否症だった。

まるで時宗と同じ危機管理ゼロで、せっかく2年前のオランダ商館長の来航予告情報も知りながら対策も立てず,一方的な圧力に屈して日米和親条約を結ぶ結果を招いた。

旧幕臣の勝海舟,直接外交にかかわった田辺太一たちが,「オランダからの来航予告にまともに対応しておれば、適宜の処置を講ずる時間がありながら,猜疑心と怯惰のために,あたら時間を無駄にすごした」と述懐している。

驚くべき情報無視、グローバリズムへの無知、神頼み、無責任体制、何百年も続く情報感度ゼロ、情報音痴ぶりが日本人のDNAに深くしみついているのである。

危機が来ると、カミナリが鳴り出すとそれを調べるのではなく、怖いと布団をかぶって通過するのを祈る。『地震、カミナリ、火事、オヤジ』とはよく言ったもので、神頼みして対策を立てない。つまり、科学的な精神、インテジェンスの欠如である。

アメリカ建国の父の1人、ベンジャミン・フランクリン(政治家、物理学者)(1706-1790)

がカミナリ除けの避雷針を発明したのと、将軍、大老、幕府のたちの迷信的な態度との落差は、封建時代の日本と近代化した西欧の科学主義と合理精神との違いそのもの。

ここでも、日本の外国無知、外交音痴ぶりがしめされて、徳川幕府は崩壊した。

しかし、元をたどれば海外とのコミュ二ケーション、海外知識の研究を禁じる鎖国の思想そのものが敗北、自滅の原因であろう。幕府を倒した薩摩、長州はすでに薩英戦争(文久3年1863年8月)

下関戦争(元治元年1864年8月)で西欧軍艦に痛い目にあわされた経験から、開国派に転じて、西欧列強と巧みな外交戦を戦わせていた。

西郷隆盛は英国の外交官・アーネスト・サトウとの交渉で幕府側についたフランスと英国の仲を裂くために、フランスの幕府への資金提供情報を密告して、サトウが抜け駆けに怒り『それでは、英国は薩摩に討幕資金を提供しよう』と申し出たが、西郷はきっぱりと断った。植民地にされた国は列強から安易に借款して、その借金を返済できず、領土を奪われるパターンが多いのを知っていたのである。
西郷、高杉晋作らは「自国は自国で守る、国内紛争に他国を介入させてはならぬ」という独立論を堅持していた。西郷、高杉のインテリジェンスがなければ、日本は西欧列強の植民地に、清国、朝鮮同様になっていたであろう。

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