前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本史の復習問題/ ◎『山県有朋から廃藩置県の相談された西郷隆盛は 一言で了承し、断固実行したその最強のリーダーシップ②』

   

 日本リーダーパワー史(248
 
 
◎『山県有朋から廃藩置県の相談された西郷隆盛は・・・・・・・・
 
              前坂俊之(ジャーナリスト)
 
下中弥三郎『大西郷正伝第2巻』(平凡社、昭和15年)、坂元盛秋『西郷隆盛―福沢諭吉の証言』(新人物往来社、昭和46年)などによると、
 
日本歴史上、廃藩置県ほど重大な改革はない。廃藩の案は二年前にできあがっていたが、これを断行する責任者がいない。もし断行を引き受けた者の氏名を当時発表すれば、その当人は命がいくつあってたらなかったであろう。
 
廃藩置県は明治維新の最大の改革と言ってよいが、安藤英男『史伝西郷隆盛』(鈴木出版、1988年)によると、明治新政府は明治二年六月、木戸の発議によって版籍奉還を成しとげた。しかし、全国の藩主は旧によって知藩事となり、土地と人民には、いぜんとして生殺の全権を保有していた。このままでは新政府を維持する財源もなければ、下手をすると全国的な叛乱、暴動の温床をかかえていることになる。
 
版籍奉還の次に来るものは、当然、廃藩置県でなければならない。全国を名実ともに郡県の制に改めることだが、それは旧藩主・藩士の生活権にかかわる重大問題なので、猛烈な反対や妨害が予想され、強行すれば内乱になるおそれがあり、これを正式に議題にのせることですら、難しい状況にあった。     

この大改革を断行できる者は、「いのちもいらぬ者だけが政治をやれる」という信念の西郷隆盛だけであるということが、巷間にささやかれていた。そのことを当時の目撃者・福沢諭吉は『丁丑公論』の中ではっきりと「西郷の一言だけで廃藩は実行された」と明記している。
廃藩置県の発令は1871年(明治四)七月十四日であった。しかし、この重大改革は発令だけでは役に立たない。すくなくともその後-、二年間は、その励行と監視が必要である。この重大改革励行という憎まれ役を、主席参議(当時の総理大臣と同じ)の西郷隆盛が引き受けさせられた。
 
というわけは、発令の後四ヵ月目には、廃藩後の財政財産整理に最も必要な大蔵卿の大久保利通は、島津家の怒りを避けるためか、木戸とともに洋行の途についたからであった。これは何としても不思議なことである。(坂元前掲書)
 
福沢諭吉は大久保・木戸の不在中、廃藩を断固実行した西郷内閣の二年間の努力と苦心を目撃し、西郷を「廃藩置県・人権平等主義者」(国会の前途)として「最も欽慕し」たのである。(明治十六年第一回西郷銅像発起人総代・福沢の建設趣意の文)西郷の人気は単なる死後の判官びいきや英雄崇拝ではなく、現実の廃藩置県という800年の封建制度の根幹を打ち砕く困難な改革の業績とその人徳の結果である。
 
廃藩置県ほど福沢諭吉や学者たち、一般国民を驚喜させた改革はなかった。その当時を後年顧みて、その喜びを『福翁百余話』に次のように書いている。
 「当時、吾々同友は、三五相会(三々五々会うと)すれば則ち祝し、新政府(明治新府)の此盛事見るたる上は死するも憾(うらみ)なしと絶叫したるものなり」
福沢たちを喜ばせた廃藩置県の大改革は、西郷の一語がなかったならば成功しなかったことを次のように書いている。
 「廃藩置県の大挙も西郷の一諾なくんば、成を期すべからずや明なり」(西郷が賛成しなければ成功しなかった事はあきらかである)
 しかし、これがために島津家と不和になったことを同じく『丁丑公論』に、「維新の後は却って島津家の首尾を失い、かつ其参議たりしときは廃藩置県の大義にもあずかりて大にありしは、世人のあまねく知るところならずや」と書いている。
 
ところで、廃藩置県に火をつけたのは伊藤博文(長州出身、民部少輔)で、彼は鳥尾小弥太・野村靖らとはかり、山県をして隆盛の同意を得させようとした。
西郷隆盛は日本一の薩摩藩を代表し政府の首座に座ったが、その旧主・島津久光は、なお陰然たる勢力を有し、しかも郡県制に反対である。
隆盛に久光を抑さえる自信があるか、その去就こそが成否のカギである。山県が隆盛にはかると、
「それはよかろうが、木戸の意見はどうか」
と、たずねた。山県が、
「あなたの意見を聞いた上で、木戸に相談することになっています」
と答えると、
「それは宜しい」と一言でいった。あまりにあっさりと素早いあいさつなので、山県はさらに念を押し
「この間題は、じつに重大ですから、どうしても血が出ます。その覚悟をしなければなりませんが」
というと、やはり隆盛は、
「わしの方は宜しい」 と、一言いったのみであった。(『西南記伝』上巻の一、『防長回天史』)
これは明治四年七月一日のことである。山県は大いに感激してきっそく同志に報告した。これを聞いた木戸も大いに喜び、その日記に、「西郷、断然同意の返答を開き、大いに国家のために賀し、且つ前途の進歩も亦、これより一層なるを楽しめり」 (明治四年七月七日)と記している。

また山県も、「実に私もこの時は西郷を見上げた。西郷という人は、どうしても非凡の人間である。その果断明決、能く事の利害を察し、そうして能くこれを実行する力を持っているというのは、とうてい尋常の人間の出来ないことである」 (三宅雪嶺『同時代史』第一巻)と述べている。

隆盛は廃藩を決意すると、浜町の自宅へは帰らなかった。鹿児島藩知事・島津忠義(久光の長男) に呼びだされると、挨拶に困るからであって、なかなか苦心があったのである。
 
                           (つづく)
 
 日本リーダーパワー史(246)『山県有朋から廃藩置県の相談を受けた西郷隆盛、
「結構」と一言の基に了承し、断固実行した』<小沢、鳩山、谷垣にこの大度量はあ
るのか>
 
 
日本リーダーパワー史(247<何よりダメな民主党のリーダーパワー(指導力)>
『総理大臣は攻撃命令{問題解決力}を発する人。出来ないこと嘆く前に、
断固、シュートを打て』
 

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

Z世代への遺言「東京裁判の真実の研究②」★『敗戦で自決した軍人は一体何人いたのか』★『東京裁判ではA級戦犯の死刑はわずか7人、BC級裁判では937人にものぼり、下のものに圧倒的に重罰の裁判となり、「復讐の裁判」との批判を浴びた』★『戦陣訓』で、捕虜になるより自決を強制した東条英機の自殺失敗のお粗末、無責任』

『リーダーシップの日本近現代史』(124)ガラパゴス日本『死に至る病』 &nbs …

no image
知的巨人の百歳学(130)ー『昭和の大宰相・吉田茂の健康長寿の秘訣ジョーク集』➂ 歴代宰相の中で一番、ジョーク,毒舌,ウイットに 富んでいたのは吉田茂であった。

記事再録2016年2月3日日本リーダーパワー史(658) 『昭和の大宰相・吉田茂 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(204)記事転載/『新しい女・青鞜』100年-日本女性はどこまで変わったのか①ー100年前の女性、結婚事情』★『働き方改革、女性の社会進出、少子化対策が叫ばれる現在とどこまで女性の地位は向上したのか』』

  2011/10/14  『新しい女・ …

no image
日本の「戦略思想不在の歴史」⑷『日本で最初の対外戦争「元寇の役」はなぜ起きたか④』★『 文永の役はモンゴル軍の優勢のうち、『神風』によって日本は侵略から助かった』

 文永の役はモンゴル軍の優勢のうち、『神風』によって助かった。  1274年(文 …

no image
<日本最強の参謀は誰か-杉山茂丸>⑩伊藤博文や山県有朋ら元老、巨頭を自由自在に操った神出鬼没の大黒幕

    <日本最強の参謀は誰か–杉山茂丸>⑩ & …

no image
速報(391)『日本のメルトダウン』●『米国の財政緊縮に戦々恐々、脅かされる日常生活』◎『白川総裁は誠実だったが、国民を苦しめた』

速報(391)『日本のメルトダウン』   ●『米国の財政緊縮に戦々恐々 …

「Z世代のための日本宰相論」★「桂太郎首相の日露戦争、外交論の研究②」★『孫文の秘書通訳・戴李陶の『日本論』(1928年)を読む』★『桂太郎と孫文は秘密会談で、日清外交、日英同盟、日露協商ついて本音で協議した②』

  今後の日本に「日英同盟」は不要、イギリスにとっても不要である。 い …

no image
速報(300))『北朝鮮の最新動向、金正恩体制はどうなる①』●『韓国北朝鮮の半世紀の政治経済の真実②』

  速報(300)『日本のメルトダウン』 ―国際ジャーナリスト・前田康 …

no image
日本リーダーパワー史(708) 日中韓150年史の真実(11) 「福沢諭吉はなぜ「脱亜論」に一転したか」⑪<記事再録>『福沢諭吉の「脱亜論」と時事新報の主張に全面的に賛成した』上海発行の英国紙「ノース・チャイナ・ヘラルド」1884(明治17)年5月2日

  日本リーダーパワー史(708) 日中韓150年史の真実(11) 「 …

『Z世代のための日本戦争学入門④』★『平和時に戦争反対はやさしい。戦争時に平和を唱えて戦った軍人は・③』★『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐/水野広徳』★『日米非戦論・軍縮を唱え軍部大臣開放論を唱えた』

2018/08/20 /日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広 …