片野勧の衝撃レポート(70)★『原発と国家』―封印された核の真実⑧(1960~1969)『アカシアの雨がやむとき』(上)
2016/02/21
片野勧の衝撃レポート(70)
★『原発と国家』―封印された核の真実⑧(1960~1969)
アカシアの雨がやむとき
片野勧(ジャーナリスト)
■日本初の“原子の火”灯された
茨城県東海村の原子力研究所は緊張と興奮にざわめき立っていた。1957年8月27日――。米国・ノースアメリカン航空から約9千万円で購入した軽水炉(JRR-1)に、日本初の「原子の火」が今まさに灯されようとしていた。(以下、「朝日新聞」1957/8・27付夕刊社会面からの引用)。
沸騰水型原子炉点火まであと一歩。湯沸型原子炉の建物では濃縮ウランの注入作業が慎重に続けられていた。松林の中には無線アンテナを立てた報道陣の自動車が勢ぞろいして点火の一瞬を待っていた。
緊張の度が増す。ウラン235に換算して1、143㌘の燃料が炉心に入れられ、制御棒が静かに抜かれていった。4本目を抜いた。「あと3㌢、2㌢、1㌢……」特設スピーカーがアナウンスする。
研究員も報道陣も一瞬緊張。「全部抜きました」制御室でオーッと叫び声があがった。しかし、原子の火はつかなかった。あとウラン235が27㌘足りないという。最終回の燃料注入は余裕を見て50㌘と決められた。
午前2時40分、最後の注入が始まり、午前4時半炉心に1、193㌘のウラン235が入った。再び、張り詰めた空気が漂う。午前4時56分、炉室の壁の赤ランプがつきベルが鳴りだした。制御棒が動き始める信号だ。
ロードバック博士以下日米双方の技術陣がそろう。制御室の窓から庄司研究員が指2本を示して「2本目の制御棒を抜く」と合図。5時10分過ぎ、制御室の後ろの方に控えていたロードバック博士がつかつかと制御台の前に歩み出てメーターを見つめる。点火の瞬間が近づく。
5時16分、3本目を抜き始める。特設スピーカーから流れるカウンターのカチカチいう音が次第にせわしくなった。火がついたらしい。カメラマンが一斉にシャッターを切る。だが、これは間違いだった。
5時21分、最後の制御棒が抜かれる。これでつかなければ点火作業は失敗である。22分、NAA社のカクラム技師が立ち上がって制御棒の計器に顔を寄せる。沸騰水型原子炉管理室長の神原豊三氏も立ち上がる。それにつられるように全研究員が交互に立ち上がって計器を見る。
次の瞬間、「何時だ。何時だ」と研究員が一斉にめいめいの腕時計を見る。続いてアナウンス「5時23分に臨界に達しました」――制御室の窓ガラス越しに研究員が手を振る。待ち構える報道陣への喜びをこめた合図だ。
制御室外の廊下で作業を見守っていた安川第五郎理事長、駒形作次研究所長、杉本開発部長、嵯峨根遼吉理事らが一斉に拍手。制御室からの特設スピーカーからは「サンキュー、サンキュー」と言い交す声が聞こえる。
東海村の研究用原子炉「JRR-1」が臨界に達した瞬間だった。それは同時に、わが国に初めて“原子の火”が灯った瞬間でもあった。直径40センチの炉心でこの時に得られた出力はわずか60ミリワットだった。しかし、これはアジアで前年のインドの国産炉に続く2番目の臨界達成だった。
朝日新聞は朝刊1面トップでこう伝えた。
「『原子の火』日本に初めてともる 『原研』は夜明けの乾杯」と。また、「広島、長崎の原子爆弾以来十二年目に『第二の火』を東海村にともすことの意義は大きい」とも書いた。祝賀ムード一色の記事。
日本の原子力開発は、ここから加速する。桁違いの大型発電炉の建設話が持ち上がり、その計画は既定路線のように次々と受け入れられていった。しかし、ここで見逃してならないのは、原子力基本法が掲げる3原則「公開・民主・自主」の1つ、「自主」にはほど遠いものだった。
その背景には米国の原子炉輸出戦略があったからだろう。その戦略に乗って、原子炉は米国企業から輸入し、運転も米国人技師が指導した。受給体制は三菱系がウェスチングハウス社、三井系と日立は米ゼネラル・エレクトリック社、住友系はユナイテッドニュークリア社……。
日本の原発は英国製のコールダーホール型炉1基を除いて、ほか56基はすべて米国で開発された軽水炉だった。このように米国に付き従う原発国家・日本の原点は、ここにもあったのである。
原子の火がともってから6年後の1963年、原研は米ゼネラル・エレクトリック社製の動力用軽水炉「JPDR」で発電に成功した。電力9社などの出資で設立された日本原子力発電株式会社は1966年、東海原発で日本初の商業運転を始めた。ここでも3原則の1つ、「自主」とは程遠いものだった。当時、原子力施設建築の安全性を研究していた内田孝の証言。
「日本は設計通りつくって動かせばよい、と安易に考える体質が生まれていた。安全性を疑問視し検証する姿勢は薄かった」(朝日新聞取材班『それでも日本人は原発を選んだ』朝日新聞出版)
内田は東大の大学院で建築を学んだあと、原研に入所し、原子炉建屋や高速炉の格納容器の建設に携わった人で、この時期から「安全神話」が始まったと内田は見ている。
JPDRの建設・運転には電力会社やメーカーの技術者など300人近くが携わったが、その後各地で建設されていく軽水炉型の原発で中枢を担ったのが、彼ら技術者たちである。その1つが東京電力福島第1原発だった。
■安保闘争で1人の女学生が死んだ
「原子の火」で沸いていたころ、政界は安保改定で揺れていた。昭和35年(1960)5月20日未明。岸信介内閣は過半数を占める衆院で強行採決に踏み切り、条約改定を承認した。しかし、国会に500人もの警官を動員するなど強引な国会運営に批判が高まり、国会前に「安保批准反対」を叫ぶデモが繰り返された。
強行採決から9日後の5月28日。岸は記者団にこう豪語した。
「デモ隊ばかりが世論ではない。『声なき声』に耳を傾けるべきだ。今あるのは『声ある声だけだ』」
この発言が火に油を注いだ。衆院の強行採決から約1カ月後の6月15日。国会を取り囲んだ4000人の学生が国会の敷地内になだれ込み、警官隊と衝突。東京大学文学部4年の樺美智子さんが死亡した。当時、22歳。東大生を束ねるリーダーの一人だった。
ところが、警察は樺さんの死を「学生の転倒が原因の圧死」と発表。人の波に押されて転んだ樺さんが、後列の学生によって踏まれた事故死と断定した。樺さんの同級生で2、3列後ろにいた長崎暢子さん(78)の証言。
「警察官の暴行が原因だと思う。彼らは学生の頭を警棒でボカボカ殴り、見えないところで腹を突いてきた」と。自身も頭を殴られ、2日間入院したという(中日新聞社会部『日米同盟と原発』中日新聞社)。
それから3日後の6月18日。国会前には33万人が集まり、戦後最大の反体制運動に発展した。ところが、翌19日、新安保条約に署名・調印が行われ、6月23日に発効すると、ほとんどの学生や反核団体は潮が引くように運動から去っていった。
■墓碑に刻まれた樺さんの詩
安保闘争が生んだ「悲劇のヒロイン」として語られる樺さんの葬儀は新条約を批准した翌日の6月24日だった。2万2千人が参列し、遺影を掲げて国会までデモ行進した。東京・多磨霊園の墓碑に刻まれた樺さんの詩。
「誰かが私を笑っている/(中略)でも私は/いつまでも笑わないだろう/いつまでも笑えないだろう/それでいいのだ/ただ許されるものなら/最後に/人知れずほほえみたいものだ」
1960年、西田佐知子がうめくように歌った「アカシアの雨がやむとき」は、安保闘争に敗れた若者らの共感を呼んだ。「アカシアの雨にうたれてこのまま死んでしまいたい」――。
改定された日米安全保障条約は日米同盟の中核をなす条約で、現在まで続いている。米国の日本に対する防衛義務や、極東の平和と安全の維持を理由に米軍が日本国内の基地を使うことが明記されているものだ。
しかし、核兵器を搭載した米軍用機および米海軍艦船については言及されていない。そのために核搭載艦船および軍用機の日本立ち寄りは従来通り、米軍の意のままに続けることができるというものだった。
1960年(昭和35)の安保改定で米国の「核の傘」に入った日本。しかし、死者まで出した責任を問われ、岸は辞任に追い込まれた。岸の後を継いだ池田勇人首相は「所得倍増計画」を旗印に高度経済成長を推進したが、病気で途中退任を表明。1964年11月9日、岸の実弟、佐藤栄作が首相の座に就くと、再び、核保有をめぐる議論が高まる。
その引き金を引いたのが64年10月の中国の核実験だった。中国は米ソ英仏に次ぐ5番目の核保有国になった。そのころ、日本では東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が営業を開始していた。
■ひそかに進められていた“原発と核”論議
そんなさ中、ライシャワー駐日米国大使との会談で佐藤はこう発言した。
「中国が核を持つなら日本の核保有も常識である」
世界唯一の被爆国でありながら戦後、原発建設へと踏み出した日本。原子力の平和利用を隠れ蓑にして、国民の知らないところで佐藤内閣は、原発と核兵器を結びつける議論をひそかに進めていたのだ。
■「核抜き・本土並み」の沖縄返還
歴代首相の中で、米国の「核のパワー」を最も身近に感じていたのは1960年代中葉から70年代初頭にかけて政権を担った佐藤栄作だろう。
「核抜き・本土並み」の沖縄返還の合意づくりも大詰めを迎えようとしていた69年10月7日、佐藤は牛場信彦外務事務次官や東郷文彦アメリカ局長を前に、「核を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核3原則の「持ち込ませず」は、誤りであったと反省している、と言明した(太田昌克『日米<核>同盟』岩波新書)。
米軍核搭載艦船の横須賀、佐世保への寄港が常態化していた当時の現実を踏まえ、米軍による日本近海への持ち込みが中国やソ連を牽制する核抑止力を下支えしている、との認識を佐藤は抱いていたことの表れだろう。
この大胆発言に踏み切った佐藤の胸中は一体、何なのか。「72年の沖縄返還」を目指した日米交渉の最大の争点は何といっても、当時沖縄に現存していた米軍の核兵器だった。ベトナム戦争のピーク時の67年には約1300発もの核兵器が配備されていたという(米国防総省文書)。
■密約はどうしてつくられたか
では、「核抜き・本土並み」返還の筋書きは、どうつくられたのか。核兵器は返還時に撤去するが、緊急時に再び持ち込みを認めるという密約がどうして結ばれたのか。日本側の密使は若泉敬(京都産業大学教授、国際政治学)。アメリカ側はキッシンジャー大統領補佐官だった。
若泉は密約に署名してから25年を経た1994年(戦後50年目の節目を迎える前年)、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)を上梓した。2段組で630ページという大部の書である。「密約」を佐藤に持ちかけた若泉の証言。
「唯一の問題点は、いまや、核を抜いて返還させたあとの、再持ち込みと通過の権利を相手にどう保証するかに絞られています」
「向うがどうしても書いたもので保証してくれ、と固執して譲らない場合は、――その可能性は非常に高いのですが、一つの方法として、合意議事録にして残し、首脳二人がイニシャルだけサインするというのはどうですか。絶対に外部には出さず、他の誰にも話さず、ホワイトハウスと首相官邸の奥深くに一通ずつ、極秘に保管するということでは」
佐藤総理は、しばし黙考のうえ、若泉の眼を正視し、「君に委すから、全部まとめてきてくれ給え」
また、心持ち間をとって、「通訳をどうするかね。まさか君に通訳を頼むわけにもいかんしなあ。要するに君、これは肚だよ。何と言ったって最後は相互信頼なんだ」
若泉は「核抜き・本土並み」返還についてすべての権限を任されたのである。
つづく
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