日本リーダーパワー史(586) 「日本飛行機の父」「殿様飛行士」徳川好敏のパイロット人生
日本リーダーパワー史(586)
「日本飛行機の父」「殿様飛行士」徳川好敏のパイロット人生
前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
日本で最初に動力飛行機が飛んだのは明治四十三(1910)年十二月十九日のことである。後に「日本飛行機の父」「殿様飛行士」とうたわれた若き徳川好敏大尉の操縦するファルマン式複葉機と日野熊蔵大尉のグラーデ式単葉機が代々木練兵場(現在の東京・代々木公園)で飛んだのである。
今から見ると、まるでオモチャのような2つ羽根(複葉機)のフアルマン式は五〇馬力発動機で、重量六百㌔、翼幅一〇㍍五〇、全長十二㍍。グラーデ式は発動機二四馬力で重量三三〇㌔、翼幅一〇㍍、全長七㍍五〇で、ヨーロッパで購入し操縦法を習得してきたばかりの2人がテストパロットを行った。
これは臨時軍用気球研究会(初代会長は長岡外史陸軍中将)が主催し十二月十五、十六日に決まったが、一目見ようと約10万人の大観衆が弁当持参で詰めかけた。
ところが、フライト予定日は使用機の故障と破損、転覆事故のトラブルが相次ぎ、悪天候も重なって4日間も延びた。この間にも10万以上の熱狂的な人出は続いた。
十九日朝、前夜までの悪天候はおさまり、日野大尉のグラーデ機がまず飛行準備体制に入ったが、発動機が回転しない。そのため徳川機に飛行許可が下りた。
実は徳川機もトラブル続きで発電機が故障したので応急的に『硫酸式電池』に切り替え飛ぶことになった。徳川大尉は前では操縦舵を握り、後ろには危険な硫酸のいっぱい入った電池を背負っての操縦で、もし、ひっくり返えりでもすれば硫酸を全身に浴びてひとたまりもない。
命がけのフライトになったが、なるべく揺れないようにそつと舵を操縦し、ファルマン機は順調に滑走を開始した。機体はふわりと上昇し高度七〇メートルで水平飛行に入り、ゆっくり練兵場を一周したのち、出発点に見事に着陸した。その模様を東京朝日(同年十二月二十日付)は「滑走三十メートル、早くも飛行機は地上を離れて悠然として梯子(はしご)無き、宙高く攣ぢ登りつゝ進む一〇秒、二十秒、三十秒、五十秒、松の木よりも高し・・・」と伝えた。
代々木周辺を埋め尽した大観衆からは「奇跡だ。やったぞ」「バンザイ!バンザイ!」の歓喜の大合唱がまき起こった。
この日本最初の公式飛行記録はわずか三分間、飛行距離三千メートル、高度七〇メートル、滑走距離三〇メートル、着陸距離二〇メートルで出発点に機体を停止させる見事なパイロットぶりを示した。この後、日野大尉も滑走に成功し、二〇メートルほど上昇して練兵場上空を一約千メートルを飛行し無事着陸した。
徳川大尉は翌年に独学と職人芸で名機を創り、多くの飛行家を育てた伊藤音次郎にこの時の飛行の秘訣を「離陸滑走して地面から離れたら、いっぺんに高所に登ろうとせず、空気の中に階段があると思って、一段登ったら水平にして力を貯え、一段一段と登っていくことだ」と教えた。初期のエンジンは弱いので、どうしても一挙に上昇できないので『空気の階段を登るように登れ』という徳川のフライト名人技で後の日本パイロットの合言葉となった。
日本の初飛行はライト兄弟の成功から、7年後のことで決して遅いスタートではない。というよりも、飛行原理を発見した二宮忠八(1886-1936)はライト兄弟より十二年も前に模型飛行器をつくったが、当時の日本の産業技術力ではエンジンや工作機械を作ることはできず涙を飲んで、動力飛行機まではできなかった。米、仏、独では民間が中心で飛行機開発がすすんだが、日本では民間人には資金力がない。そのため軍が積極的に乗りだし、徳川大尉らのヨーロッパ派遣となったのである。
ただし、軍部内での飛行機への関心はそれほど高くはなかった。この日も寺内正毅陸相、乃木希典大将ら陸軍、山川健次郎帝国大学総長、田中館博士愛橘博士(たなかだて あいきつ)、ら大学研究者も多数が参観していたが「飛行機なんてものは山川や長岡のような変人にまかせておけばいいさ」と放言する将軍がいたという。
この傾向はその後も続き、陸軍は日露戦争での戦術の白兵肉弾戦、海軍は大鑑巨砲主義に固執して、欧米の飛行機、軍用機の開発に遅れをとった結果が太平洋戦争の敗北につながった。
徳川好敏は明治十七年(1884)七月二十四日、将軍家御三卿の一つ清水家七代目の当主伯爵徳川篤守の嫡男として、東京高田馬場に生まれた。今の西早稲田三丁目にあたる総面積10万平方メートル以上の宏大な屋敷である。邸内には森があり清流が流れ、キツネ、タヌキなどの動物、鳥類が多数棲息していた。好敏はこの自然の中でのびのびと成長した。
当時、皇族や華族の健康な子弟は、陸海軍の将校養成学校に入るのが慣例であった。
明治三十年、十三歳で東京陸軍地方幼年学校(市ヶ谷台)に第一期生として入校。同期生は五〇名で皇族、華族、名門士族の子弟が大半を占めていた。好敏は小柄ながら体力は強靭で運動能力に優れ剣道は柳生新影流・水泳は向井流を修めていた。
三年間の寮生活のあと、中央幼年学校に進み、理数系、技術系の学科が得意で飛行機のりの基盤はここで築かれた。
中央幼年学校に入って間もなく、一大事件が起きた。実父の清水徳川家の当主の徳川篤守が爵位を返上し、同家は華族としての嶺遇が廃止されたのである。
父篤守は水戸家10代の藩主・徳川慶篤の2男で1856年(安政3)生まれで、「最後の将軍」の徳川慶喜の甥にあたる。
明治四年、政府派遣留学生となって渡米、コロンビア大学に留学、鳩山和夫(鳩山一郎元首相の実父、鳩山由紀夫元首相の曾祖父)らと同級生である。帰国後は外務省に籍を置き自由民権思想に基づいて社会事業、殖産興業など多方面の活動を行った。ところが、殿様の人のよい性格を利用されて借金、裁判沙汰にまきこまれて、家屋敷を処分せざるを得ない状況になった。篤守は米国留学で身につけた自由平等主義思想から爵位もあっさりと返上した。
この爵位返上が徳川一門で大問題となり、篤守とその家族に非難が集中した。好敏少年はこの屈辱といわれのない非難に堪えながら、いつか必ず清水徳川家の名誉を回復してみせるぞと、深く心に誓った。
二年間の中央幼年学校生活のあと好敏は、志望通り工兵科に進んだ。36年12月に陸軍士官学校に入学した。おりしも日露戦争の風雲が迫っており陸軍は士官学校を1年半に短縮して、好敏は工兵科をトップで卒業した。
徳川少尉は日露戦争に従軍し、第一軍参謀部に派遣され情報将校として現地の満州人の馬賊、間諜(スパイ)を教育し、諜報活動の責任者となって活躍した。日露戦争の陸戦では旅順攻撃が天王山となり、203高地の攻撃に何度も失敗した。飛行機に強い関心を持っていた長岡はこのとき時、大本営参謀次長をしており気球による偵察と攻撃を指示したが、現地の乃木の第3軍の反対にあい、実現しなかった。
長岡はその後、陸軍軍務局長、明治42年8月には中将となり「臨時軍用気球研究会長として、飛行機の開発に熱心に取り組んだ。
そして、明治四十三年四月、同研究会は、徳川にフランス、日野両にドイツでの飛行術の習得と購入の任務を与えて出張を命じたのである。ちなみに長岡は大正4年に予備役となるが『国民飛行会』を設立し会長に収まり、40センチもの長いカイゼルヒゲを「プロペラヒゲ」と称してはやした奇人で、飛行機の普及を目指して日本中、世界を飛び回った飛行機将軍でもある。
一方、徳川はバリの北方約五〇キロの地にある小さな町エタンブのファルマンの飛行学校に入学した。学生は仏、英、伊、ポーランド、ロシアなどからの十二人。 25歳で意欲満々の徳川は早速、オートバイを買い、毎朝すっ飛ばして学校に一番乗りして、真っ先に同乗飛行をして技術を覚えた。
同乗飛行というのは教官の背後の席に座り、右手を教官の肩から伸ばして握っている操縦カンの上の手にのせて学ぶ。1日1回5分間、同乗して高度三〇から五〇メートルで場内を一周する訓練で、これを10日間行い総飛行時間は約一時間ほどである、このあと一人で乗って3回飛んで卒業試験で合格すれば免許がでる。明治四十三年十一月八日付きで、徳川は飛行機操縦免許を取得した。
ここで、ファルマン式複葉機などを1万5000円で購入して帰国し、代々木練兵場での最初のフライトに臨んだ。
飛行機の戦争への本格的な登場は第一次大戦から始まった。大正三(1914 )年八月二十三日、日本は連合国の一員としてドイツに宣戦布告した。気球隊にもドイツ青島攻略の出動命令が下った。これがわが国での最初の飛行機からの攻撃となる。
航空隊は飛行斑と気球班からなり、モーリス・フールマン式飛行機など四機と気球1個が出動し、徳川は飛行班を指揮した。
まず、気球班は千メートルの上空から青島ドイツ要塞を偵察し、箱庭のようにはっきり見えて望遠鏡で保累の細部まで識別し、その詳細な地図を軍司令部に報告した。ところが参謀たちは「飛行機の偵察などで、そんなに明瞭に判るわけはない。地上の偵察、斥候が必要だ」と信用しない。徳川は参謀たちの航空への無知にあきれてしまったが、これ以来、空中写真の必要性を痛感し、その開発に情熱を燃やした。
飛行機からどうやって爆撃も試みるかも試行錯誤された。最初は大砲の瑠(木へん)弾に落下傘をつけた爆弾を試みたが、落下傘爆弾はブラブラと揺れながら落ちて、着地で横倒しになり信管が爆発しなかった。
このため、ガソリンの空き缶を切って矢せん(竹冠に下が前の字)ーを作り、瑠(木へん)弾にハンダ付けをして落下させると見事に爆発した。
数十発を落としたが、こんな幼稚な爆弾なので、要塞の破壊よりも、敵兵へ空からの攻撃という精神的ショックの方が大きかった、という。11月7日、青島は陥落してドイツ軍は降伏した。
この成功で大正四年十二月、飛行、気球中隊を合わせて航空大隊が作られたが日本陸軍最初の航空部隊であり、好敏は初代飛行中隊長を命ぜられた。その後、所沢飛行機学校、陸軍航空学校教官、研究部長などを歴任し航空思想、技術のエキスパートとして、陸軍航空部隊の発展に尽くし、民間航空の発展、育成にも取り組んだ。
昭和3年(1928)11月、こうした長年にわたる日本航空界への功績に対して徳川に異例の男爵が授与された。大正末期以降で軍人で新たに授爵したものはなく、徳川とその後の荒木貞夫大将(文部大臣)の2人だけである。徳川はこれによって父の名誉を回復できた大いに喜び、谷中にある徳川家墓地の父の霊前に早速お参りして報告した。
これ以来、わが国ではもちろん、世界からも「バロン徳川」「日本航空界の開祖」として一層の人気を集めた。昭和五年八月には陸軍少将に任ぜられて、将軍の仲間入りをした。
昭和一一年(1936)八月、航空兵団司令部が東京に編成され、徳川中将が航空兵団長になり、天皇に直隷し内地の航空部隊を統一して指揮することになり、文字通り空軍のトップに君臨した。
徳川はその長い航空歴でも死亡事故はもちろん、大事故を起こさなかった名パイロットとして名を残した。それは徳川がどれほど飛行技術とマシンへの知識に優れ、用意周到な準備と点検を怠らなかったか、細心かつ大胆な人物であったかを示す証拠でもある。航空学校長時代のこと、専用機を一〇〇時間ほど飛ばすと、必ず発動機を分解し、材料廠にエソジンの消粍度を測定させで、詳しく調査研究されたというエピソードがある。
そのうえで、部下たちの乗っている九一式戦闘機のエソジン損耗度と比較して、「君たちの飛び方は乱暴すぎる。もっと発動機を大切にして慎重に飛べ…」と注意を与えていた。
日本の第一号操縦者として代々木初飛行を成功させて以来二十数年間、あらゆる危難を乗り越えながら無事故で生き抜いてきた名パイロットの教えだけに生徒たちにはずっしりと響くものがあった。
昭和三五年(一九六〇)一〇月、かつて戦ったアメリカ空軍から「日米修好百年」「日本航空五〇年」を記念しての招待状があり、七五歳の徳川は老体をおしてパン・アメリカン航空のボーイイング707ジェット旅客機にのって米国、ヨーロッパ、世界旅行に旅立った。
アメリカでは81歳のライト兄弟から直接操縦を習った米国最古のパイロット・ベンジャミン・フロア少将が出迎えて、始終付き添って米国内を案内した。ライトの古邸を訪ねた夜の歓迎パーティでは徳川家の三つ葉の葵の紋章の造花が飾られ、アンダーソン空軍大将は「航空の発展はライト兄弟や徳川中将などの勇気ある先駆者の功績に導かれたものであることを忘れてはなりません」とスピーチして、徳川を感激させた。この3年後の昭和38年5月、徳川は78歳で亡くなった。
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