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*

戦争とジャーナリズムについてー前坂氏に聞く 図書新聞(2001、5、5)

   

 

<大新聞は昭和アジア戦争-昭和15年戦争をどう報道したのか>

前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
聞き手 米田 綱路(図書新聞編集長)

① 内閣情報局による言論統制の実態


――先ごろ、山中恒さんの『新聞は戦争を美化せよ!-戦時国家情報機構史』が刊行されました。この本を手がかりに、戦争と新聞、そしてジャーナリズムと報道のありかたなどについて、新聞記者を長く勤められ、『兵は凶器なり一戦争と新聞1926-1935』『言論死して国ついに亡ぶ一戦争と新聞-1936-1945』(ともに社会思想社)の御著書もある前坂さんにお話しいただきたいと思います。
まず、山中さんの『新聞は戦争を美化せよ!』について、お読みになった感想をお話しいただけませんか。

前坂 この本は、史料の発掘がほとんど進んでおらず、歴史として欠落していた部分を、山中さんが丹念に史料収集されて、内閣情報局がどのような言論統制の方針を持っていたのか、その結果、新聞がどのように報道してきたか、ということを対比させて書いておられますね。いままで研究がされてこなかった情報統制の実態を山中さんの本が初めて明らかにしたという点で、その功績は大きいですね。消された資料を掘り起こしメディア統制史の決定版、名著ですね。

――前坂さんは『兵は凶器なり』『言論死して国ついに亡ぶ』において、満州事変前夜から太平洋戦争敗戦までの、実際に言論統制を受けた新聞記者の方々に取材をされていますね。
そうした方々の証言による言論統制の印象と、山中さんが『新聞は戦争を美化せよ!』で史料的に明らかにされた内閣情報局の言論統制の実態とを比べて、どのようにお感じになられましたか。

前坂 従来、戦時下のマスメディアがどういう状況にあったか、ということについていえば、ほとんど言論の抵抗らしいものはなかったわけです。
例外として5・15 事件で「福岡日日新聞」の菊竹六鼓が反軍の社説を書いたり、桐生悠々が反軍の文章を 書きました。また、正木ひろしが「近きより」で反軍の論説を書くというように、ごく例外的な少数の個人の抵抗はありましたけれども、肝心の新聞社はどうだったかというと、軍部のテロ、暴力や右翼の圧力、言論弾圧によって、書こうにも書けなくなってしまった。

戦争中の報道は大本営発表そのままになっていった、という経緯で説明されていたわけですね。ただマスメディアがそうした経緯をたどるプロセスについては、いままでブラックボックスになっていました。その内幕が今度の山中さんの本から、はっきり見えてくる。内閣情報局がどのような情報操作をやったかという部分が、今まで史料的に隠蔽され、まったく明らかになっていなかったのですが、この本では、内閣情報局常任委員会の連中が毎回の討議にお
いて、どういう問題を話し合っていたかが、細かに具体的に紹介されていますね。

その点は、いままでまったく知られていなかった部分です。特に、一九四〇(昭和一五)年に内閣情報部から内閣情報局に変わるんですが、そこ
で内閣情報部の初代部長であった横溝光輝が、新聞統制において力を発揮し、統制を一挙に推し進めたわけです。
そのことが、『新聞は戦争を美化せよ!』で史料的に証明されています。私はその点がいちばん興味深かったですね。

それから内閣情報局は、国家総動員法によって検閲面で報道を操作していくだけではなくて、新聞の形態そのもの、それから販売そのものを手中に収めることによって、新聞を政府の宣伝機関化していった。つまり、新聞を内閣情報局の宣伝部にしていった経過が、こと細かに書かかれています。
新聞社の社史で見ると、朝日新聞が最近全四巻の立派な社史を出していますけれども、その時期の報道がどうであったのか、どのようにして新聞が統制されていったのかという戦時下報道の問題について十分に検証していません。その点を『新聞は戦争を美化せよ!』は徹底して解明していますね。

 ーー新聞は書けなかったのではなく、書かなかった、書く勇気が欠如していた――言論の質そのものに対する統制とともに、太平洋戦争が始まって、一九四二年に内閣情報局は、新聞が「思想戦」の役割を担うものとして位置づけますね。特に、新聞は「紙による弾丸」であって、「ペンは銃剣」であり、新聞記者というのは「思想戦の兵士」であるという位置づけがなされるのですね。また、『戦争は新聞を美化せよ!』では、査閲報告によって新聞がどのように統制されていたかが、明らかにされていますね。

前坂
査閲報告というのは、編集した紙面を持っていくまえに、その新聞が検閲に引っかからないように新聞社が部分的にチェックする、いわば思想的な校閲部を社内的に設けて、出した報告です。

一九四一年の太平洋戦争段階で、言論統制法規の数が32ぐらいあるわけですね。膨大な数の法規でがんじがらめになっており、ですから、記者の書いた文章のどの部分がどの法律に引っかかるかどうかということは、整理部の人間も、書いた記者もはっきり分らない状態です。
それを部内の人間にチェックしてもらい、それから実際に内閣情報局なり大本営の報道部に持って行くわけです。だから、内部の自己検閲の部署ですね。

――戦争の激化にともなって、用紙統制などで新聞のページ数も減っていきます。戦争末期にはぺラ1枚の2ページになるわけですが、紙面のほとんどを大本営発表の記事が占めるなかで、記者たちはどうしていたのでしょうか。

前坂
記者の多くも召集され出征しているわけですが、「毎日新聞」で起きた、本土決戦を竹槍主義で防衛しようという陸軍のアナクロニズムの作戦を批判した記事で有名な竹槍事件でも、書いた新名丈夫記者が懲罰的に応召され、東条英機首相は「毎日」の廃刊を強く迫ります。
結局、毎日の廃刊は何とかまぬがれますが、一度、兵役免除になっていた三七歳の新名記者は再び二等兵で香川の部隊に入れられて、まきぞえをくって再召集された中年二等兵250人は全員硫黄島に送られ玉砕しています。

新名記者は何とか除隊して難を逃れましたが……。だから、新聞の編集に従事している人間は、太平洋戦争中は一挙に減っています。戦争末期の一九四四(昭和一九)、四五(昭和二〇)年頃になると、新聞も二ページですから、各県版もほとんどないに等しい状態です。
満州事変や日中戦争の時期は、まだ朝夕刊20頁ほどありましたけれども、それが激減するのは、ただ紙の問題だけではなくて、戦時下の物資欠乏にも原因がある。そして、新聞を殺すには記事よりも紙によって締め上げる方が簡単ですから、生殺与奪の源として紙の統制に乗り出してきたのです。
そして、新聞だけではなくて、「中央公論」などの雑誌も昭和19年頃には廃刊になります。

確かに、軍部のテロや言論への暴力に震え上がって書けなかったのだというのが、これまでの戦時中における新聞人の弁明、言い訳だったわけです。しかし実際に、書けなくなったのがどの段階なのか、満州事変の段階なのか、二・二六事件の段階なのか。

太平洋戦争が始まった段階では、一切合切が戦時立法によって統制され、実際百パーセント書けないようになりますが、まだ自由のあった時期、たとえば二・二六事件の頃は書ける自由がまだあったんですね。それなのに、暴力やテロ、そして軍部におびえて、書けるのに書かなかったのではないか、書いたらやられるのではないかと恐れて過剰に自己規制して、自己萎縮して書かなかったのではないか。そうしたジャーナリズムの自己規制の方こそ問題ではないのかと私は思います。

特に二・二六事件の時には、「時事新報」は軍部批判を半年間も続けていたわけですね。けれども、恐れていた軍、右翼からの暴力や恫喝、テロはなかった。そのことから考えれば、暴力を過度に恐れて新聞は自己規制を強くやり過ぎたのではないか。書けなかったと弁明しているけれども、実際は書かなかったのではないか、書く勇気が欠けていたのではないか、というのが、私が『兵は凶器なり』『言論死して国ついに亡ぷ』の二冊でいちばん言いたかったことなんです。

一方、経営面での新聞統制について見ると、政府の一県一紙の方針によって、全国で1422紙もあった新聞を強引に新聞統合を進めて一県一紙にし、大都市の場合も現在と同じような朝・毎・読・産経という四つの新聞に統合して、一挙に五五紙に減って、現在のような新聞体制ができたわけですね。

つまり、現在ある新聞は、太平洋戦争中の国家総動員法による新聞統制の結果なんですね。そして新聞だけではなく、ほかの業界の場合も、国家総動員法によって、政府の方針に基づき企業の合併が集中的に行われたわけです。

――新聞の自己規制の問題についてですが、前坂さんが本のなかで書いておられるように、先ほど言われた菊竹六穀の「福岡日日新聞」にしても、桐生悠々のいた「信濃毎日新聞」にしても、全国紙に比べれば規模的には一〇分の一ぐらいの小ささであったわけですね。
しかも地域により密着した、地域の事情がもろに影響する地方紙で言論の主張ができたことが、なぜ全国紙でできなかったのか。その点は依然として大きな問題であると思うのですが、前坂さんはどうお考えですか。

③ジャーナリズムの報道による戦争の既成事実化

前坂 満州事変から日中戦争の時期においては、新聞は戦争によって発展したというとおり、当時の大新聞は戦争によって部数も増えますし、広告も増えていって、我が世の春を謳歌するわけです。
それが、太平洋戦争が始まる一九四一(昭和一六)年頃になると、統制によってがんじがらめにされる。結局、大新聞と地方の新聞との間の経営的格差でいえば、満州事変や日中戦争ごろの大新聞がどんどん発展していき、小さな新聞はますます経営難になるわけです。

その点で、中小の新聞が連合して大新聞に対抗するために、内閣情報局の統制をうまく利用したという側面があります。同盟通信の吉野伊之助らがしかけて、弱小の新聞を守るために、より言論統制を強化して全国的な大新聞の手足を経営的にも縛っていったという構図になっていきます。
そういう中で、菊竹六鼓や桐生悠々があそこまではっきりと軍部批判できたのに、なぜ「朝日新聞」はできなかったのか。

販売も含めて何千人の人間が働いている新聞社の経営者として、真正面から軍部を批判することは、場合によっては会社を潰されるかもしれない。
それを避けるために、社員を路頭に迷わすわけにはいかないという経営の論理、会社の自己防衛がジャーナリズムの使命よりも最優先されて、ああいう事態になったという弁明をしているわけですね。

当時、メディアが手を組んで一斉に言論の放列を敷いたならば、軍部はそれほど恐い存在ではなかったのだということ、新聞が手を組めば、戦争を食い止めることも不可能ではなかったということを、戦後、緒方竹虎は反省の弁として述べているわけですね。
しかし、戦後の状況を見ても、新聞がじゃあ手を組めたかといえば、そういう状況には無いわけです。このあたりを見ても、ジャーナリズムとしての反省の原点が、戦後も克服されていませんね。考えてみると、十五年戦争では国内外で数百万人が亡くなっていますが、ジャーナリ
ストで真実を報道するために命を賭して戦って亡くなったという人間は、残念ながら一人もいないんです。ジャーナリズムの批判の剣はついにヤキが入れられず、ほんとうの真剣になることができなかった。

出版人では、横浜事件で逮捕され、獄中で拷問されて死んだ人間はいましたけれども、残念ながら新聞人には、身体を張ってまで抵抗した人間はいなかったですね。また、新聞の戦争責任について、戦後それを反省し責任をとって辞めた人も少数しかいない現状だったんです。

――新聞は戦争によって発展すると言われましたが、大量の従軍記者を派遣し、技術的にも南京事件で写真電送がはじめて登場するわけですね。
そうしたかたちで、新聞において速報性が主軸となって、開戦スクープのように、戦争勃発が部数拡大の絶好のチャンスとなっていったわけですね。
そして、前坂さんが本のなかで書いておられるように、客観報道が既成事実を次々と追認していくという格好になっていくわけですね。こうした構図は、一貫してずっと今まで続いているように思えるのですが。

④速報主義の戦況報道で自縛される

前坂 満州事変が勃発し、戦争報道において新聞社の間で速報戦が繰り広げられるわけですね。速報性はジャーナリズムの使命ですから、一刻も早く戦況を報道することが至上のものとなるわけです。

ただ、満州事変の場合でも、実際に現地を取材した記者のなかには、これは関東軍のやった謀略であるという情報もつかんでいた人たちもいたわけですね。
しかし、そのことを再検証していくという過程がシャットアウトされて、全て戦況報道に引きずられていく。それは、昔も今も同じジャーナリズムの変わらぬ姿ですね。だから、気がついてみると、軍部と同じく、即容認して既成事実を積み上げていって、政府も尻拭いできない状態でどんどん先へ行ってしまうという事態になる。

結局、ジャーナリズムが報道することによって、戦争がどんどん既成事実化されていくわけですね。自らの報道で自分の首をしめていく自縛に陥ってしまう。
そこで、真実がどうだったのかという検証が全然なされていなくて、戦争責任の問題を考える場合でも、ジャーナリズム自体が戦争中の報道はどうだったのかという検証をするという作業もまったくやっていないわけです。

そういうなかで、山中さんの本によって、いままで秘密にされていた、戦時報道がどうであったのかということが史料的に明らかにされたわけですね。
速報性と、事実の究明にはタイムラグ、時間がかかるという矛盾をどう解決するのか。これはジャーナリズムの持つ宿命でもありますが、速報によってどんどん報道されたものをもう一度フィードバックして、再検証していくということがまったくなされていない。その結果、ジャーナリズムは真実を覆い隠して事実は死んでいく。ジャーナリズムが自らを殺していくということになったわけですね。

そういうことでいえば、ジャーナリズムの持つ宿命というか、検証しながら報道するというジャーナリストが、戦争中もいなかったということですね。
「書けなかったのではなく、書かなかった」のですが、それが、軍部の圧力で書けなかったという弁明のもとに、自らも言論統制下の被害者ずらして戦争責任を回避するという立場を、ジャーナリズムは一貫して取ってきたわけです。

そうした、書けなかったのではなく書かなかったという戦争中の自己規制は、昭和天皇が「逝去」する前段階での、本当は脳死している状態が続いていたわけですけれども、刻々と病状を報道したジャーナリズムの雰囲気でも体験されたことです。つまり、全体的な雰囲気のもとで言論が自己萎橋、自己規制して沈黙し、黙認して流されてしまう。戦争の場合も、ズルズルと日中戦争のドロ沼に入り、勝ち目のない戦争で大変なことになるといった危機感、問題意識があっても、政府と特に軍関係者は、ヒトラーがヨーロッパで破竹の勢いで進撃している段階で、そのバスに乗り遅れるなとばかり三国同盟の方向に走っていくわけですね。

そして、日中戦争を続けながら、なおかつ日米戦争を始めるという非常識な事態に、自暴自棄、思考停止に陥って無謀にも飛び込んでいくわけです。
新聞記者のなかでも、ヨーロッパやアメリカで実際に特派員として取材して、国力の差からいってとても戦争にならないということを知っていた者も、戦争熱の充満した雰囲気のなかで、いっしょに巻き込まれ、流されていく。自分の内部では批判を持ちながらも、大勢に押し流されていくというのが大半だった
わけですね。

それとともに、情報局そのものにも新聞社のトップの人々が入っていますし、まさに緒方竹虎などは一九四四(昭和一九)年に内閣情報局総裁になっています。つまり、戦争になったら新聞が協力するのは当たり前で、いざ太平洋戦争になったら、新聞人も言論報国するのは当たり前だというのは、当時の新聞人の共通した認識だったわけですね。
 

⑤ 産業体制、マスコミに現在も続く「1940 年体制」

――戦争と新聞の結び付きを考えるとき、いままでお話をうかがっていて、新聞における速報性が戦争の既成事実化に巨大な「貢献」をしてしまうという構造は、現在の新聞の体制が戦時下につくられたものだとしたならば、戦後に情報局がなくなっても基本的に変わっていないということが亭見るのでしょうか。

前坂 情報局がやったことの一つとして、いろんな新聞社のトップや幹部を集めて開かれた懇談というものがあります。そして、現在の記者クラブの前身である記者会という強固な組織をつくったということですね。

それから、先ほど言いましたが、たくさんあった新聞を一県一紙、全国紙を四つにしていったわけです。こうしてできた体制、それを「一九四〇年体制」ということができると思いますが、それがいまも日本のジャーナリズムにおいて変わっていないわけですね。

確かに、戦後は新聞に対する統制はなくなりましたけれども、そのときのシステムが現在の新聞にも続いていますし、当時のように内閣情報局で懇談してこれは書いていい、これは書いてはいけないといった統制はしていませんが、記者クラブにおけるソフトな統制というものは逆に強まって、そういう意味では枠組みは変わっていないわけですね。

特に、いまの記者クラブの問題ですけれども、記者クラブが官庁に入っているという構造そのものは、戦中につくられたものなんですね。
内閣情報局によって、それまでのジャーナリズムの競争体制が国家の方針に沿ったものになる。経営的に見ても、一県一紙になって、各地方紙は経営的には安定して独占、寡占状態になるわけです。全国紙の場合でも、朝・毎・読・産経といった新聞がカルテルを結ぶという状態ですね。
そして、先ほども言いましたが、取材のシステムの場合でも、記者クラブが広報の窓口となって、役所が出している画一的な情報操作されたニュースをそのまま伝えていく。

そうした情報の流れの仕組みや体制は、戦時中につくられたものがいままで六〇年間以上も続いているわけです。だから、本当の意味での自由な報道が行われていないということですね。

――戦時体制と記者クラブの結びつきという問題は、現在の記者クラブ制度と官庁・行政の発表取材のありよう、そしてそこで事実を伝えるということの意味を考える上で不可欠な論点だというわけですね。やはり、そこには戦争とジャーナリズムという大きな問題が横たわっていますし、現在
のジャーナリズムのあり方を考える場合も、戦争というものが現在もなお大きな鍵を握っているということが握っているわけですね。

前坂 新聞だけでなく、日本の場合には新聞がテレビ局をつくりましたから、今のテレビ局の場合、全部新聞の系列がありますね。それから、地方紙の場合も系列のテレビ局を持っています。

そういう意味では、テレビというマスコミの組織の体系も、一貫して「一九四〇年体制」によって築かれた流れの上にあるわけです。
そこでは、競争の原理はまったく認められていなくて、新聞の場合には、戦後は統制する官庁がなくなりましたけれども、放送の場合には郵政省が電波の希少性というかたちで統制して、内容に関しても放送法によって規制していますから、戦時体制は放送の面ではより強く残っています。
新聞の場合でも、統制はされていないといっても、システム的には記者クラブの成立が原点になっていますから、そういう意味では戦時体制が続いているわけです。
 

⑥ 求められる本質報道

――速報性の他に、新聞のもう一つの機能である言論についてですが、明治期の政論紙的な新聞が、速報性を追求する新聞に変わっていくのは、いつ頃なのでしょうか。

前坂 それは、大正末期から昭和の初めにかけてのことです。各家庭が新聞を取り、部数的にも百万部を超えるようになって、全国紙の体制を築いていくのが、昭和初め頃です。そして、満州事変の段階で、はじめてラジオが登場してきます。

新聞は、昭和初めから日中戦争までに、読売新聞は東京だけで百数十万部というように、この十年間で部数が一挙に増えていきます。その段階で、新聞において言論よりも報道、速報の方が重視されていく。そして、その分水嶺が大正末期で、ちょうど関東大震災が大きな契機となるわけですね。

――公正な報道や客観報道といわれるものも、部数の拡大と報道の重視によって要求されてくるわけですね。
部数の拡大によって、主張よりもバランスのとれた、公正な報道が要求されるようになるのだと思いますが、戦争と新聞の客観報道との関係では、大枠として考えれば、戦争それ事態が逸脱、偏向しているにもかかわらず、それを客観報道するという、大所高所から見れば奇妙な構造があるということなのですね。

前坂さんは本のなかで、戦争への暴走にジャーナリズムはどの時点で歯止めをかけることができたのか、と問うておられますけれども、客観報道と、起こっている事態の本質を見抜くという意味でのジャーナリストの批判精神とのかねあいを、前坂さんはどう考えておられますか。

前坂 確かに、戦時下の新聞の紙面を見ても、国民の間に熱狂的な天皇制イデオロギーがあり、排外熱の昂揚などは、それから軍部や内閣情報局の指導に沿ったものですけれども、底流としてあるのは反中国感情、中国への蔑視、民族的な偏見、エスノセントイズムですね。

それを他者の目を通してグローバルに、冷静に見ていくジャーナリズムの目が、紙面からは感じられません。中国側から日本を見ていくというジャーナリズムの公正さ、客観的な視点が全く欠落していますね。そうした愛国主義的な報道を見れば、ジャーナリストのなかにも盲目的なナショナリズムが満ちていたのかもしれません。客観的に見る目、公平、多角的な視点が、残念ながらその当時の論調そのものに少ないですね。

――現在のジャーナリズムの取材体制のなかで、速報性ということと検証的なフィードバックを両立させていくということは、やはり至難の技なのでしょうか。
朝刊制作帯と夕刊制作帯という時間的制約のもと、締め切り前に記事を突っ込まなければならないという日々のなかで、検証と事態の本質を見抜くジャーナリストの批判精神との兼ね合いはどうなのか。

とりわけ、新聞が戦争を美化してしまった事実が決して特殊なものではなく、現在のジャーナリズムの枠組みを規定している記者クラブ制度や速報性を見ても現に存在しているということを、『新聞は戦争を美化せよ!』は問い掛けているように思います。
そのことは決して六〇年前の戦時体制下の特殊な出来事でばなく、先ほど話された
ように、昭和天皇の下血報道においても再現されたわけですね。そうした現在のジャ―ナリズムに通底する問題について、前坂さんはどうお考えですか。
 

⑦ 重要な検証報道で本質に迫る

前坂
新聞の場合には、事件発生した段階では、速報するため熱狂的に現場に行きますけれども、また新しい事件が発生するとまたそこに行く。「砂地獄」のような、そうした状態の繰り返しになっています。

いわば、犬が公園で木切れを、左に投げられると喜んで尻っぽをふりながら取りに行って拾ってくる、すると今度は右に投げられる。シッボを振って、また急いで拾って喜んで返ってくる。次々に発生するニュースとメディアの関係は、この「ペットドッグ(愛犬)」と主人の関係です。

大切なのは投げられたもの、その意図何なのかを見分けること。その本質を解明すべきなのに、くり返して素早くニュースを持ってくるだけの愛犬です。
メディアは権力を監視する「ウォッチドッグ(番犬)」であるという、本来の意味に立ち返るべきですし、メディアがアジェンダセッティング(議題設定機能)を取り戻すべきですね。

記者クラブという統制されたニュース製造工場の《鎖につながれた巨人》から、自由になるべきです。そして、いま求められているいちばん大切なことは、速報性の繰り返しだけでは真実に迫れないということを踏まえて、時間をおいてフィードバックして事実を徹底して追及、検証することですね。

前坂 九〇年代に入って起きた湾岸戦争の場合には、最初から情報のコントロールがなされて、戦争の報道の前に、関係者を一切現地に行かせない『プール』取材で、取材ができなかったわけですね。
報道される内容も、米国防省によって限定されていますし、速報で真実を伝えようとしても最初から無理だったわけです。そして、実際にイラクでどのくらいの人間が死んだのか、戦争の実態はどういうものであったのかということについては、その後も報道されていないわけです。

ピンポイント爆撃で軍事施設だけを破壊する「クリーンな戦争」であるということが、テレビで繰り返し報道されましたけれども、新聞の場合は、立ち止まって真相に迫る武器を持っているわけですから、時間をおいて、速報性に身を任せるのではなくて、事実をもう一度追跡して、検証していくという作業を、もっと徹底してやるべきだと思いますね。それから、情報をコントロールする側は、山中さんの『新聞は戦争を美化せよ!』を
見ても非常に巧妙にやっていることが明らかにされているわけですから、読み手は紙面だけでは全然それがわかりません。
ですから、情報をコントロールする側のさらに上に行くようなジャーナリズムの文法を
持つためには、ジャーナリズムが検証する力を持たなければならない。そうしないと、同じように速報主義と発表でやっていては、情報をコントロールされて
いるところから結局のところ脱出できませんね。

⑧ バブル以降の不況報道もまったく検証されず
それに、過去十数年間のバブル崩壊以降の「失われた十年」、本当は「失った十年」の経済、不況報道も、依然として六〇年前と同じ報道パターンがくり返されていますね。
戦争中の戦争の既成事実を追認して報道していく「戦局報道」、日本の政治報道も「政局」の変化を追っていくだけの「政局報道」に終始して質的転換が遂げられていないように、経済面でも、くり返された経済対策やスローガンだけの構造改革がその本質、結果はどうだったのかほとんど検証されることなく、くり返して前へ前へと報道される。

つまり、過去10 年の経済対策、公共事業優先緊急対策がどのように使われ、効果がまったく出ていないその対策の中味を徹底して検証すること、どのような効果と目的を果たしたのか、フィードバックして十二分に検証して報道することがなされていない。大本営発表の「勝った、勝った」というウソの大戦果の報道と全く同じことをくり返しているわけで、こうした「状況報道」よりも、鋭く本質に迫っていく、速報性はテレビに譲って事実の真偽をチェックしていく「本質報道」こそが、求められていると思いますね。
(了)
 

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