前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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ジャーナリストからみた日米戦争

   

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 03,7
静岡県立大学国際関係学部教授
前坂 俊之
1・伝説の国際記者。楠山義太郎
1988年夏。私はインタビューがうまくいくかどうか、内心危ぶみながら、
東京都世田谷区下北沢の閑静な住宅街を、その人の住所を探しながら歩いた。
戦前、国際記者として鳴らした元毎日新聞欧米部長、主筆の楠山義太郎さんに
会うためであった。この時、楠山さんは90歳、日本の外信部記者の最長老で
あり、毎日新聞社内でも伝説的な大先輩として聞えていた。
楠山さんは15年戦争の発端となった1931(昭和6)年9月の満州事変
で、国際連盟が派遣したリットン調査団の「満州事変は日本の侵略である」と
結論づけた報告書をすっぱ抜き、世紀のスクープをしたのをはじめ、太平洋戦
争直前に日本人記者としてただ一人、ルーズヴュルト米大統領の単独会見にも
成功した、戦前を代表する国際記者であった。
新聞と15年戦争のかかわりを取材していた私は、先輩記者を次々とたずね
歩いていた。 会ってみて、私の危倶は吹き飛んだ。少し耳が遠い以外、元気
いっぱいで、毎日『ニューヨーク・タイムズ』に目を通し、ジャーナリズム精
神にあふれていた。驚くほど鮮明な記憶力で半世紀以上も前の出来事のディテ
ールを証言した。
2・ヨーロッパからみた満州事変
日本は満州事変から満州建国をめぐって、国際的非難を浴び、国際連盟から
脱退し〝世界の孤児″と化したことはよく知られている。
当時、大阪毎日新聞ロンドン特派員だった楠山さんは、この孤立化から戦争へ
発展する過程を身をもって取材した。
「当時、ヨーロッパは平和でノンビリしていました。そこに突然、満州でイナ
ズマが走り、ジュネーブの国際連盟で爆発した感じですね。政府は不拡大方針
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を出しましたが、関東軍が次々に戦線を拡大、ジュネーブで取材していて地元
の新聞をみるのが怖かった。日本への批判や、〝悪口雑言″が載らない日がな
いほどでね」
「連盟では毎回、袋だたきにあい、脱退なんて言っているが、全会一致で国際
社会から〝無頼漢″として追放されたんです。今のジャパンバッシングの比で
はない。それを国内では〝桜の花の散るごとく″とかいって、バンザイで松岡
洋右を歓迎した。全く唯我独尊の無知まる出しの孤児だったんだよ」とふりか
える。
3・真珠湾攻撃成功に沸き立つ毎日新聞編集局内
1941(昭和16)年12月8日。
真珠湾攻撃によって日本は太平洋戦争へと突入した。毎日新聞(当時の題字
は『東京日日』)はこの開戦をスクープし、編集局内は熱気と歓声にわいていた。
が、欧米を熟知していた楠山さんは内心、ショックを隠し切れなかった。
編集局で幹部がそんな楠山さんに声をかけた。「みんな歓声を上げているの
に、君一人うかぬ顔だね」。
「米国と戦争をして勝てれば奇跡だ。軍事的にも、経済、社会的にもどこをみ
ても勝ち目はない」
楠山さんはズバリと言い切ったという。
当時の新聞の報道ぶりについて、楠山さんは痛恨の思いでこう語った。
「結局、国際感覚が全く欠如していたんです。軍部が強硬になっていく過程で、
社内でも支那(中国)派が勢力を握り、英米派は冷や飯をくわされた。
支那問題を連盟で論じていると、『欧米に支那のことがわかるか』と反発をくい
ましてね。私は『支那通の支那知らず』とことあるごとに言ったんだがね。と
にかく、新聞を含めて、日本人全体が井の中の蛙になっていた」
楠山さんは90年1月に亡くなり、今はもういない。「これは僕が後輩の記者
たちに残す遺言だよ」と熱っぽく語り続けた楠山さんの姿が今も思い出される。
楠山さんは国際連盟脱退当時とインタビューした1988年当時の状況の類似
性を強調した。
「大ざっぱに対比して、当時は軍が武器や兵隊を使って領土を拡張した。今は
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かつてのような軍部の存在はないが、それに代って企業が商品を武器に世界の
市場をせっけんしている。
軍部は統帥権を神聖不可侵なものとしたが、今は企業の利潤追求がこれにとっ
てかわっており、摩擦の元凶となっている。
当時は軍事大国というオゴリで国際世論に耳を貸さなかった。今は経済大国の
オゴリが強くなっている。戦前も戦後も一貫して変らぬこのエキスパンショニ
ズム(拡張主義)がこわいね」
「当時、満蒙はわが国の生命線と言ったが、今の日本の生命線は自由貿易だよ。
これがくずれれば日本は危ないよ」
その後の日米関係の激化、国際的な孤立化をみるにつけ、楠山さんのこの指摘
はズシリと胸に響いてくる。
4・40 年ごとに友好・対立・衝突の日米関係
さて、1991年は日米戦争に突入した真珠湾攻撃からちょうど半世紀目にあ
たる。
日米関係を長い歴史の中でみると、友好から対立、衝突の歴史をほぼ40年ご
とに繰り返してきた。その原因は両国間の認識のズレ、コミュニケーション・
ギャップに誤断が抜きさしならぬ対立を生み、日本は孤立化し、破局を迎えた。
その中で新聞が果たした役割や責任も決して小さくない。
楠山さんが日米関係を考える上で、〝歴史の教訓〟にすべきとして、引き合い
に出したのは1924(大正13)年7月1日に施行された排日条項を含む「外
国移民制限法」である。
これが日米を引き裂き、真珠湾攻撃の一つの引き金になったといわれる。
徳富蘇峰はこの日を〝国辱の日″とせよと叫び、国民は激昂した。
英米指向からこれを転機に大アジア主義が台頭しナショナリズムが昂揚した。
現在の日米摩擦の原型がここにみられる。
米国はもともと移民の国であり、日本人移民も20世紀に入り増加し、192
0(大正9)年までに約21万人にのぼり、その間の中国人移民約4万300
0人の5倍に達した。
日本人移民は主に米国西海岸に移住し、1919年当時、カリフォルニア州の
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最多の外国人は日本人であり、全米本土9万人のうち約8万人が西海岸に住ん
でいた。
日本人移民はなぜ嫌われ、激しい排斥運動が起きたのか。そこには文化的、
経済的な深刻な摩擦が横たわっていた。
日本人移民たちは白人労働者の賃金の半分で人一倍熱心でていねいな仕事を
した。その優秀な労働力が白人労働者を失業へと追い込み、反発とウラミを買
ったのである。
移民という観念がなく、故郷に錦を飾るという出稼ぎ労働者が大部分だった
ため、単身赴任で、安息日も教会にもいかずガムシャラに働く。地域に全くと
けこまない。そうした日本人の働き蜂の国民性に加え、立小便などのマナーの
低さがひんしゅくを買った。
さらに思わぬ反発を引きおこしたのは〝写真結婚″である。米国の女性団体
からは「人身売買」「女性への侮辱」と激しく批判され排日の原因となったので
ある。
5・なぜ、日本人は激しい批判、排斥を受けたのか
1905(明治38)年にサンフランシスコにアジア人排斥協会(後に日韓人
排斥協会)ができたが、同協会は次の理由をあげた。(1)
1 日本人は長時間の低級労働に甘んじて白人労働者に対抗する。
2 日本人の生活程度は劣等で、米国人は競争にたえることができない。
3 日本人は獲得した金銭を故国に送り、米国経済に貢献しない。
4 日本人は故国から日常消耗品を買い、米国製品を買わない。
5 日本人は愛国心強く、米国人との同化の素養を欠く。
日本人移民を日本製品に置きかえてみればまるで現在の貿易摩擦と同じであ
る。地域にとけこまず、集団的に固まる体質は今も地域へのボランティア活動
を一切せず、寄付が少なすぎると批判されている日本企業や日本人ビジネスマ
ンと同じである。
日本企業による海外の不動産の洪水のような投資、買収が批判されているが、
これも70年前に問題となった。
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当時、日本人移民の大半は農民で、カリフォルニアで抜群の能力を発拝し、
白人が開拓できなかった荒地を次々に農地にかえ、勤勉に働いて得た金で農地
や土地、住宅、商店などの不動産を買いあさった。これに白人労働者が怒り、
カリフォルニア州で1913(大正2)年八月に〝排日土地法″(正式には「外
国人土地法」)が成立した。
内容は米国市民になり得ない外国人(日本人らをさす)の土地所有の禁止、借
地期限を制限したもので、実質上〝帰化不能外国人″のレッテルをはられた日
本人をしめ出そうという法律であった。
ただし、この法律にも2世は生まれながらにして米国市民であり、土地所有で
きるため、土地を子供の名義にする〝抜け穴″があったが、これも一切禁じて、
日本人農民を土地から一切排除するきびしい「イトマン法」がカリフォルニア
州議会で1920(大正9)年11月に可決され、全米各州に広がった。
一連の〝排日土地法″に日本政府はきびしく抗議し、世論は憤激し日米開戦の
危機も伝えられたが、第一次世界大戦の勃発(1914年)などでガス抜きさ
れる。
1922(大正11)年、米最高裁は日本人移民から出された帰化権について
「白人とアフリカ人以外に帰化権はない」との判決を下した。
6・排日土地法とは・・
再び、排日の火の手の上がった。「日本人同士の異常な団結で米国との経済競
争に勝ち米国民の脅威と化した」として、下院議員のジョンソンから移民制限
法案が下院に提出されたのである。
排日土地法はカリフォルニア州議会であったが、今度は米国議会である。日
本側はまさか友好国の米国がそこまでやるまいと考えながらも外務省は危倶し、
埴原正直駐米大使はシューズ国務長官にあてて「移民法が成立すれば重大なる
結果(Grave Consequences)をまねく」との手紙を出した。
問題の移民法には「帰化不能外国人は移民を禁止する」という条項があり、
これが〝排日条項〃として問題となったのだが、1924 年4 月に期待に反して上
下院議会をすんなり通過した。
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7・新聞は一斉に米国撃つべし」
新聞は一斉に憤激し「米国撃つべし」の世論が沸とうした。まさか通るはず
もないと思っていたものが通ったからである。
『朝日』『毎日』『読売』など新聞15社は連名で「米国に反省を求める宣言」
を掲載した。
「排日案の不正不義なる次第は明白である。両国民の間に存せる伝統的な友好
が深大なる創痍を受くる」(1924=大正13 年4月21 日)
全国各地で新聞社主催の反米大会が開かれた。同法が施行された7月1日は〝
米禍記念日〃として「この屈辱を忘れるな」と日本人は胸に深く刻み込み米国
をうらんだ。反米感情がうねりとなって広がったのである。
なぜ、移民法は通ったのか。そこには両国間の完全なスレ違い、コミュニケ
ーション・ギャップが存在していた。
① 埴原大使の「重大なる結果」という言葉が戦争に当たるとして米議会で大
問題となり、予想外の通過となったのである。外交交渉における言葉のは
ずみの恐ろしさである。
② 排日土地法の対応も含め、日本側は国民的名誉、国家の威厳の問題と受け
止めたのに対し、米国は単なる経済問題、国内問題として処理し、人種的
偏見ではないと主張した。
このため、日本側はプライドをひどく傷つけられ、屈辱感を味わったが、
米国には加害者意識はなかった。
③ 米国は日本人移民を他国の移民と同じように扱っただけだが、特別待遇に慣
れていた日本はその甘えが通用しなくなった時、憤激した。
ワシントン会議(1921 年)で世界の5 大強国の一つとして米国に協力したの
に、という大国意識、優越感が日本にあったが、その鼻をへし折られ、中国
人、韓国人と同じに扱われたというショックがあった。
欧米への劣等感の裏返しのアジア蔑視が見事に切り裂かれたのである。
8 排日移民法は日本側の過剰反応!
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日本では〝排日移民法″という名で一貫して報道されたが、もともと、このよ
うな名称そのものが過剰反応であった。正式名称は「1924年移民法」で、
どこにも日本人を特定する文句はなかった。
排日条項とされた部分のいわゆる「帰化不能外人」には確かに日本人をさす面
が強いが、「白人とアフリカ人」以外はすべて入っており、外務省や新聞が「排
日条項」「排日移民法」として最初から報道したため、全文排日の法律という受
け止め万が一人歩きし日本人を余計に刺激したのである。
結局、両国の認識のズレ、受けとめ方の落差を報道が大きく増幅し、とりか
えしのつかない結果を生んだのである。
約70 年前の悪夢のような出来事と現在の状況を単純には同一視できないが、日
米関係がますます悪化している中で、米国議会では目下、日本企業をターゲッ
トにした対日の投資、金融、資産凍結などの法案が目白押しなのである。
かつての日本人移民のように、日系企業がアメリカ産業の脅威となっていると
いうジャパン・フォビア(日本恐怖症)がますます増えているのだ。
さて、そのような移民法から7年後に起きたのが満州事変である。90年8
月のイラクのクウェート侵攻による湾岸危機をみるにつけ、約60年前の満州
事変による中国侵略、カイライ国家の満州国建設、国際連盟脱退による〝世界
の孤児″と化した日本の姿がオーバーラップしてくる。
当時、日本で吹き荒れた極端な排外熱や日本主義のナショナリズムはフセイ
ンの掲げる〝イスラムの大義″と同種のものである。
9・朝日は右翼に恫喝され転向する
この日本の破滅のきっかけとなった満州事変から国際連盟脱退に至る過程で
は、政府の不拡大方針を軍部が無視して暴走し、事態を一層こじらせ、政府は
そのシリぬぐいから既成事実の追認へと追いこまれていった。
この間、新聞はどのような役割を果たしたのか。チェックするどころか、軍
部の暴走を即容認し、軍部と二人三脚で世論をあおり、軍部におもねりながら
進んだのである。
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戦後、新聞は自らの戦争責任についてはほとんどふれず、戦前の報道につ
いてはとかく、言論統制や検閲の厳しさばかりを強調しがちである。しかし、
満州事変から2・26事件あたりまでは、書く気さえあれば、その後ほどがん
じがらめの統制ではなかった。
言論の勇気の欠如こそが問題なのである。
事変前までは厳しい軍部批判を展開していた『大阪朝日』も事変勃発ととも
に「木に竹をついだ」ような転換が行われた。
当初、大阪朝日編集局は整理部を中心に事変反対の空気がみなぎっていたが、
事変約一カ月後に開かれた重役会は「日本国民として軍部を支持し国論を統一
することは当然」として軍部や軍事行動に対しては絶対に非難、批判を下さな
いよう決定したのである。
これに対して、整理部の反対が依然として続き、会社側は大異動して事変反
対の空気を一掃した。なぜ、軍部に対する姿勢の180 度の転換が起こったのか。
在郷軍人会などからの不買運動による部数の落ち込みと同時に、右翼の総本山、
黒竜会の内田良平による恫喝、脅迫が態度変更の要因になったのではないか、
ということが最近の研究で明らかになっている。(2)
事変から約2ヵ月、日本新聞協会は国際連盟や各国に対し、「(同事変)は
日本の自衛権行使であり、国運を賭してもこの死活問題に邁進せねばならない」
との勇ましい声明書を出し、新聞界は上げて支持に回った。
10・国際連盟脱退を新聞は共同宣言
当時の新聞の国際性がどのようなものであったか。
国際連盟で一致して採択されたリットン報告書が1932(昭和7)年10月
に公表された時、各社は猛烈に反発し最大級の悪罵が並んだ。ヒステリックで
センセーショナルという当時の新聞の〝病気″が社説にも示されていた。
『東京朝日』-「錯覚、曲弁、認識不足」
『東京日日』『大阪毎日』-「夢を説く報告書 - 誇大妄想も甚し」
『読売』-「よしのズイから天覗き」
『報知』-「非礼誕匿たる調査報告」
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国際連盟脱退のキャンペーンをいち早くはったのは『東京日日』だが、『朝日』、
『読売』らもこれに追随した。同年12月19 日、全国132の新聞は連盟脱退
への共同宣言を第一面に掲載した。
「いやしくも満州国の厳然たる存在を危うくする解決策は断じて受諾せず」と
日本の言論機関の名で声明した。
脱退論の主張は「留って外侮を受けるな、むしろ孤立・国威を輝かせ、昭和
日本の行くべき道也」として、当時一番恐れられた経済封鎖や制裁措置は双方
に損をし、日本の海軍力で経済封鎖は不可能だと全く近視眼的な見方をしてい
たのである。
そんな中で、唯一、「脱退は誰でもできる。脱退しないのが外交」と最後まで
勇気をもって国際的孤立に反対の論陣を張ったのが、『時事新報』であったこと
は記憶に値する。
この時代をふりかえって、伊藤正徳・時事新報編集局長は「なぜ、新聞が最
もその力をふるうべき時にふるわなかったのか」自責の念をこめて書いている。
11・新聞人の勇気の欠如が一番問題
その最大のものは新聞人の勇気の欠如であり、二番目は言論に対する抑圧で
ある、と。「新聞人が勇気を欠いたことは争うを得ない。一般にみて必要以上に
遠慮し、回避したことは争われ得ないようだ。刃物の刃にふれることを警戒し
て手出しをせず、無為に傍観した例は乏しくない。
言論生命のために、1社の運命を一論に賭するの進攻的勇気はあえて求めな
いにしても、防御の筆陣を包囲的に展開する程度なら、当然新聞人に要求され
てしかるべきであろう」
戦前の言論屈服について、和田洋一同志社大名誉教授は「ジャーナリズム
の戦いは5・15事件で90%終わり、2・26事件で99%終わった」と総括し
ているが、言論界へのトドメとなった二・二六事件では東京の朝日新聞社など
が反乱軍に襲撃されたため、新聞はテロに脅え、完全に萎縮してしまった。
ところが、こうした中でもごく少数だが勇気をもって書いた記者がいた。
先にも述べたが『時事新報』社説部長の近藤操は毎日「今日やられるか」と覚
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悟しながら、2・26 事件から約10ヵ月間にわたって厳しい軍部批判、粛軍論の
社説を書き続けた。ところが、戒厳司令部からの注意は一度しかなく、全く拍
子抜けした、と戦後の回想録で記している。
12・各紙が筆をそろえて批判すれば軍部も抑制できた
近藤はこうした体験から「各紙が筆をそろえて批判、直言したならば軍部や
革新官僚に対する抑制効果は必ずあったに違いない。非常時でもやれば出来た
ことであった。しかるに新聞は萎縮し、その言論責任を果たさなかった」と。
戦前の亡国の歴史を担ったのは、ジャーナリズムの使命の自覚と勇気の欠如、
国際感覚のなさであったことを新聞人は決して忘れてはならない。
確かに、今、戦前の軍部のような存在や厳しい言論統制はないとはいえ、新
聞は何者にも脅えず、遠慮をせず国民の知る権利に十分応えていると胸をはっ
ていえるだろうか。
天皇タブー、昭和天皇の病気から亡くなるまでの報道でみられた自主規制、
萎縮ぶりは戦前の言論人の勇気の欠如と同じ現象ではないのか。
半世紀以上、日本を取材してきたフランス人ジャーナリストのロベール・ギラ
ンは著書の中で、楠山さんと同じ危倶の念を表明している。
戦前、軍部の暴走を抑えきれなかった政治家は現在、猛烈な競争心に燃える
実業家の野心を抑え切れるだろうか、と。
「成功の勢に乗った企業、実業家の野放図な競争がブレーキをかけられなけれ
ば外国市場に耐えがたい打撃を与え、再び重大な紛争を生じさせないか」(3)
この危惧はすでに現実のものと化している。
結局、日本の近代化の歴史をふりかえると、江戸時代は藩に、明治から大正、
戦前は国に、戦後は会社にと〝忠誠″を誓う対象は違っても、常に滅私奉公す
る軍人や企業戦士であり、市民としての意識や自覚は結局生まれず、真の民主
主義の確立はいまだに出来上がっていないといえるだろう。
戦前の軍事大国、戦後の経済大国は個人や国民の〝滅私奉公″という犠牲の
上に成り立っており、国や企業の繁栄は決して国民の豊かさやしあわせに直結
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しなかった。
それどころか、経済大国という美名のもとに、リバイアサンと化した〝企業″、
会社主義の恐ろしいほどのまんえんが行きつくところまで行き、海外では摩擦
の激化、国内では豊かさを奪い、「サラリーマンが一生働いても家一軒買えな
い」という異常な事態を生んでしまった。
日本の政治、経済、行政の歪んだシステム全体が問われており、より公正で
民主的な改革が今こそ求められているといえよう。
13・ジャーナリストの本分は「言わねばならぬこと」を言い切ること
戦後の新聞の民主化のスタートは『朝日』の「自らを罪するの弁」(1945 年8
月23 日)での戦争責任についての国民への謝罪であり、その上での「国民と共
に起たん」(同11月7 日)での宣言であった。
二度と再び、戦争へのペンをとらないという痛恨の覚悟であり、他の新聞
も同じ決意で歩調を合わせた。
それから46 年。湾岸危機に関連して、自衛隊の海外派兵や憲法論議が大きくク
ローズアップされているが、もう一度、この「国民と共に起たん」の原点にか
えり、中でも「生活者、消費者とともに起たん」との精神で再出発をすべきで
はないだろうか。
明治以来の日本のジャーナリズムには外側から冷静、客観的に自らをふりか
える目が養われなかった。15 年戦争にいたる過程やその戦争下で日本の侵略の
姿を朝鮮や中国の目で見詰め直すという姿勢はなく、今もそうした姿勢は希薄
である。
逆に戦前への回帰の方が強いが、戦争責任も含めてその姿勢を反省することが、
国際化、隣国と友好を結ぶための第一歩であろう。
戦後の西ドイツと日本の姿勢がよく比較されるが、戦争責任を自ら徹底して
追及した西ドイツはヨーロッパ各国に真の友人、パートナーとして迎えられて
いる。
これに対し、過去の誤りを十分反省しない日本は今もアジア各国との真の友好
関係を築き上げていない。政府や一部自民党だけではなく、戦争責任を自覚せ
ず、追及してこなかった新聞の〝歴史健忘症″もその原因なのである。
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「日本は経済的にうまくいっている世界で唯一の共産国」というのはある外
国人記者の日本へのジョークである。
政権交代がなく、鉄壁の官僚機構が国民を統治し、おとなしい国民が一糸乱
れず効率的な経済活動に励む日本をヤユしたものだが、ヨーロッパ各国の日本
のイメージは象徴的である。
外務省の1989 年の調査では、日本を経済大国とみる人は英、イタリア、西ドイ
ツで80%以上にのぼるのに対して、民主的、平和的な国というイメージは何と
たった1%から5%しかないのである。「平和で民主的な国家」という日本人の
意識とは大きな落差がある。
ますますボーダレス社会になる中で、さいわい日本の新聞にはかつての盲目
的な愛国心や排外熱ナショナリズムは高まっていないが、この免疫ができてい
ない戦前の病気がいつ再発しないとも限らない。
戦前、「関東防空大演習を笑う」で信濃毎日新聞社を追われ、個人雑誌『他山
の石』で言論抵抗を続けた桐生悠々は立憲下の国民として、ジャーナリストと
して「言いたいこと」ではなく、「言わねばならぬこと」を言い切ったために職
を奪われてしまった。
ジャーナリストの本分は勇気をもって、この「言わねばならぬこと」を言い切
ることではないだろうか。(終)
<注>
(1)『国辱-虚実の「排日」移民法の軌跡』吉田忠雄 経済往来社1982 年7 月、121-1
22P、排日移民法の経過については、本書と吉田教授の談話によっている。
(2)『辛亥革命から満州事変へ一大阪朝日新聞と近代中国』後藤孝夫 みすず書房 1987 年9
月 389-390P
(3)『アジア特電一九三七 -一九八五』ロベール・ギラン平凡社 1988年6 月 567-
568P
<前坂俊之著『言論死して国ついに亡ぶ』社会思想社刊 1991 年11 月刊より>
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マスコミ史(3) 200 3 年4 月2 5 日
前坂 俊之
ニュースはどのように作られるのか=『情報評価法』を学ぶことが大切
①-「日本人のマスコミ信仰ぐせ」情報を主食とする現代人は毒性を見極める
必要性
②一情報をチェックすることの重要性、PL 法(製造責任法)、
③-ニュースの制作過程とは=記者(レポーター)と情報源の相互関係である。
④-直接体験者の証言、書いたものか。第三者が書いたものか。信頼牲の吟味
する
⑤一直接体験者、見聞者の証言は信頼できるのか-。世界心理学者大会での実
験、証言の難しさ、記憶、人間の知覚、認識のあいま
いさ
⑥一証言者、レポ一夕ーの信頼性はその記憶力、表現力、観察力、物事の正確
な把
捉力、再現能力、まとめる能力、虚言性がないかどうか、客観性、ベテラ
ンか新
人か、日本本語能力、信用性などによって左右される。
⑦ ニュースの定理とは=ニュースは伝聞取材によって作られる。
直接体験者一関係者一捜査官一刑事課長一警察署次長一記者-デスク・・とニ
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ースは伝達されていく。再伝聞、再々伝聞一再々再伝聞というように、信憑性

ロへ「‥らしい」「‥ようだ」の未確認情報の積み重ねでは真実に接近できない。
⑧一裁判での証拠は物的証拠のみ。「伝聞証拠は価値なし」、裏をとる必要性
⑨-ニュース制作の制約。新聞、テレビの時間的制約、スペースの制約など
⑩-『日本型のニュース製造装置』としての記者クラブの弊害、問題点
⑪-ニュース制作に不可避なこと。「事実とは違うものがニュースとして流さ
れていく 「仕組みが出来あがっていること」
⑫一読者、視聴者のメディアリテラシーを強化し、情報操作を見破る目が必要

⑬-情報が真実かどうか、をいかにチェックするか、「情報評価法」を学ぶ。こ
のためにはメディアの比較、情報源、書き手のチェック。情報内容の検証が不
可欠である。
対イラク攻撃:米軍が従軍取材規制 ルールの詳報
米軍が今回、初めて試みたエンベッド取材を申請する際、米軍は取材記者に「取
材規則」への同意と署名を求めた。毎日新聞が参加する空母キティホークの従
軍取材で提示された取材ルールの内容の詳報は次の通り。
<総則>
米軍と従軍報道機関の安全のため、報道機関は定められた総則を順守する。
総則は従軍する報道機関が事前に同意、署名する。総則の違反は従軍の終了に
つながる。
◆全ての乗組員へのインタビューはオン・ザ・レコード(実名報道、公式取材)
とする。航空機パイロット、搭乗員へのインタビューは任務完了後に許可され
る。
◆活字・放送媒体は全ての記事、細則に従って取材・報道する。細則は窓口で
ある中東軍司令部を通じて適切に定められる。 ◆米軍に従軍する報道機関は、
火器の持込を許されない。 ◆光を発する以下の機材の使用については制限が加
えられる。カメラのフラッシュ、テレビライト。現場の司令官が事前に特別に
15
許可を与えた場合を除いては、夜間の作戦行動中にカメラのフラッシュを使用
することはできない。
◆作戦行動の安全のため、荷物の持ち込みに制限が加えられることがある。制
限は作戦行動上の安全の問題がある時のみ適用され、問題が解決された時は、
できる限り速やかに制限が解除される。
<提供可能な情報>
◆友軍の勢力の概要。 ◆友軍の犠牲者の概況。従軍報道機関は、制限の範囲内
で、目撃した部隊の犠牲者数を確認できる。
◆拘束・捕捉された敵兵の人数の確認。 ◆戦闘、作戦行動に参加した友軍の規
模は概数で公開される。特定の部隊の規模に関しては、安全を保証しなければ
ならない理由がなくなった時点で公開する。
◆攻撃対象となった軍事上の標的、目標、及びその情報の事前通報。 ◆航空作
戦行動を取る際、その拠点に関する一般的な説明。 ◆通常の軍事任務と作戦行
動に関する日時や場所の事前通報は、任務の結果報告と同様に一般的な説明の
形で提供される。
◆使用された兵器の種類に関する一般的説明。 ◆中東軍司令部の作戦行動空域
内で行なわれた空中戦、偵察飛行。 ◆作戦に関与した部隊の種類(防空部隊、
歩兵部隊、装甲部隊などの区別) ◆作戦行動に参加した兵力の種別(艦船、航
空機、地上部隊など)は指揮官の許可の後に公表される。
◆作戦行動のコードネーム。 ◆合衆国軍部隊の部隊名と本拠地。
◆作戦に従事する者の氏名と出身地は本人の同意を得たうえで公表する。
<提供不可能な情報>
◆中東軍の部隊に関する明確な数字 ◆航空機の明確な数字
◆その他の装備や重要補給品に関する明確な数字(火砲、戦車、揚陸艇、レー
ダー、トラックなど)
◆空母戦闘群の艦船に関する明確な数字
◆中東軍地域にある部隊の特定の位置および基地名。国防総省や中東軍司令官
の発表の際は、この限りで はない
◆将来の作戦に関する情報
◆基地や野営地の防護策に関する情報
◆基地や野営地の安全性に関する写真提供
◆戦闘規則
◆情報収集活動に関する情報 ◆作戦の効果を最大限引き出すため、攻撃開始の
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報道には細心の注意を払うこと。第1陣の帰還、あるいは指揮官の許可が出る
まで、滑走路や地上からの生中継は禁ずる。
◆作戦中の同盟軍の動き、および配置に関する明確な情報は作戦の安全、人命
を危うくする。交戦中の情報は許可が出るまで公表されない。
◆作戦や攻撃の内容に関する情報では「低い」「早い」などの(抽象的)言葉が
使われる可能性がある。 ◆イラクの電子戦の有効性に関する情報 ◆作戦中止
や延期を特定する情報
◆捜索救助活動の立案、あるいは実行中における、不明機、撃墜機、不明船舶
に関する情報 ◆イラク側の偽装、情報収集、安全策などの有効性に関する情報
◆戦争捕虜の顔や名札など人物の特定につながる映像や写真の公表
◆捕虜収容作戦の映像、写真撮影や捕虜へのインタビュー
<負傷や病気をした兵員について>
◆報道機関の代表者は情報提供を受けた後も、負傷者の名前や負傷者が特定で
きるような写真を使う際は注意する。
◆医療機関を訪問する報道機関は、適用される法規、規則、作戦命令や、担当
医師の指示に従う。もし(取材が)承認されれば、兵員か医療機関の職員が、
常に報道機関に付き添わなければならない。
◆報道機関による医療機関訪問は許可されるが、医療機関の長と担当医師の承
認を受けなければならず、治療を妨害してはならない。
◆取材記者は、医療機関の長が指定した場所を訪問できるが、手術中の手術室
の訪問は許されない。 ◆患者へのインタビューや写真撮影は、担当医、あるい
は医療機関の長と患者の同意がある場合だけ許可される。
◆患者は、自分の写真やコメントが報道目的で収集され、ニュースで報道され
うることを理解している必要がある。
<機密、極秘情報の扱い>
◆機密情報や、機密扱いでなくても、敵にとって作戦上の価値があるか、ある
いは他の機密扱いでない情報と一緒になれば、機密情報が明らかになってしま
う可能性のある情報へのアクセスを認められた報道機関は、部隊の指揮官やそ
の指定する代表者から事前に、情報の使用や公開に関する制限について知らさ
れる。疑問のある場合、報道機関は部隊の指揮官やその指定した者と相談する。
◆どんな情報が機密扱いなのか、情報を報道する時に、どのような制限を受け
るかなど、重要な保障措置については事前に報道機関に説明される。もし報道
機関が不注意に機密情報にさらされた場合、その後に、報道する際にどの情報
17
の公開が回避されるか、説明される。
◆記者が安全保障上の検閲に同意することは、全く自主的に行われる。もし記
者が同意しなければ、こうした情報へのアクセスは認められない。
◆記者が安全保障上の検閲に同意したとしても、それは、極秘や機密扱いの情
報が報道内容に全く含まれないことを確実にするためだけに行われる。
◆検閲は、作戦や報道を妨げないようできるだけ迅速に行われる。もし、検閲
の結果、異論が出れば、指揮官か、報道担当者を通して申し出る。
◆報道内容は、捜索、押収の対象にはならない。
[ 毎日新聞3 月1 9 日]
( 2003-03-19-22:50 )

 - 戦争報道

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