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『アジア開国の父』福沢諭吉の「韓国独立支援」なぜ逆恨みされたか③ー井上角五郎は孤立無援で新聞「漢城旬報」発行にまい進

      2015/01/22

 

 


「日本開国の父」『アジア開国の父』の福沢諭吉

の義侠心からの「韓国独立支援」はなぜ

誤解、逆恨みされたのかー

福沢の一番弟子「井上角五郎伝」から読み解く③

 

<井上は勇躍、韓国にむかったが、清国が韓国宮廷を

完全に牛耳っており、開国派は手も足も出ず、

孤立無援の中で新聞発行にまい進した>

 

 

 

<以下は「井上角五郎先生伝」(同伝記刊行編纂会、昭和1812月刊 、570非売品)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%A7%92%E4%BA%94%E9%83%8E

の『第2章、韓国顧問時代』(31Pより)から、転載する>」

 

先生(井上)の感激はその極に達し、「自記年譜」「その義理も情誼も私をして死生何かあらんの念を生ぜしめたのであって、初めて世間に出でんとする私には血湧き、肉踊るの意気を起したのであった。」とある。

 

やがて洋服も新調されたが、先生(井上角五郎)はまだその着方を知らなかったので、折柄、上京した加藤政之助氏が着方を伝授したという逸話もある。かくて謝罪使一行の出立より少し遅れて、先生は牛場氏等4名と共に出立した。当時の状況は先生の「懐旧録」にはこう載っている。

 

 

 「京城(ソウル)へ到着したのは1883年(明治十六)一月になったが、この頃は朝鮮半島との交通が今日(昭和初め)の如く便利なものでなく、汽船なども小型で速力が出す、途中、下関・長崎・対馬・釜山に寄港し、それから漸く仁川に達したような始末である。

 

その頃は内地・京城間に電信なく、汽車は半島に全くなかつたから、仁川より京城まではもちろん朝鮮駕籠(かご)に乗って行ったのである。

 

韓国政府の顧問となる

                                               

明治十六年(24歳)一月、先生等の一行は朝鮮に着いて、直ちに京城南部の苧洞(ちょどう)の邸宅に落ち着いた。これはもと王宮の御用邸であったのを、金玉均・朴泳孝両氏の計らいで朝鮮政府から一行に提供したものである。

 

先生等は早速その一部を割いて印刷工場にあて、新聞発行の準備をしていると、そこへ朴氏が遅れて日本から帰って来たが、その時の朝鮮の政情はまた既に一変していて、もはや朴氏等の駿足を展はす余地が無かった。

 

 即ちその時の朝鮮政府においては、の人々の勢力が再び強大になり、要路は悉く 應植等の人々及びその与党を以て占められ、しかもこれらの人々は事大主義で、支那の勢力の前に属伏していたから、大小の政務は悉く清国北洋大臣李鴻章の命を仰ぎ、その上、内衛門(内務省)にはドイツ人のモルレンドルフといって、多年李鴻章の幕下に重用せられた男が目付役として顧問となって居り、外衛門には清国人・馬健常が顧問となって共に政権を握り、清国兵が多勢に京城内外に駐屯して、まるで清国の属国のような有様であった。

 

 

そこで金・朴両氏のような進歩主義で、しかも親日党である者は手も足も出す事が出来ず、朴氏が今度帰って来ても誰一人公然とこれを助ける者もなく、却ってますます身辺に危険が迫って来るのであった。

 

 

 朴泳孝は前国王哲宗の三女の婿であって、家柄も高いので、囚へて獄に投ずる事も出来ず、一旦、漢城府判尹役に任せられて、その手で新聞を発行させる事になり、軍隊調練も行っていたが、間もなく閔家の人々の策で、慶州留守という地方長官に転任させられて、田舎へ追いやられてしまった。

 

 苧洞の一邸に陣とった牛場等の所へは、一ヵ月たっても二ヵ月たっても誰一人訪ねて来る者もなく、此方から訪ねて行けば居留守をつかって玄関払いを喰うだけであって、何とも手のつけようがない。

 

のみならず、ますます身迫に危険が迫ってくるので、四氏はついに耐へ切れず、「この上は最早、長居は無用である。直ちに帰国する外はない。」と早くも帰国の準備にとりかかつた。

 

先生(井上)はこの時日も決して無駄には過さなかった。朝鮮の言葉を覚えたり、人情風俗を研究したり、密かに政情を探ったりして寸暇もなかった。随ってには帰国説に絶対反対であった。

 

 「何という馬鹿な事だ。朝鮮の国がこういう有様であって、金玉均や朴泳孝でもカが十分でないことを知ったればこそ、我々はこれを助けると言って出て来たのではないか。

 

来して彼等の力が弱かつたというので直ちに引返すならば我カの来た意味はどこにあるか。困難を見て退くは男児の本領でない。且、到着以衆の見聞に徴するに、近き将来において新たに活路が開けると信すべき理由がある。兎も角も一応、東京に通信して、その返事を待って進退を決してはどうか。」

と極力阻止したけれども、四氏は耳をかさない。

 

「東京へ手紙を出して返事が来るには1ヶ月かかる。昨今のような危険では最早一日も耐えられぬ。」という。

 

こうなってはもはやかれこれいう必要はない。出発前に福沢先生から「万事、牛場氏等の指図に従ってやれ。」とはいわれたけれども、此の事ばかりは従うわけに行かない。

 

「それでは僕が独りでやる。諸君が東京へ着かない前に、この印刷機械は立派に運転させて見せる。」と不抜の自信と決心を示すと共に、内心ではこれからは自分独りで何でも思うように出来るのだと愉快でたまらない。

 

殊に大敵を目前にひかえて激浪怒涛を乗切りるのは男子の本懐である。まさに井上角五郎が存分に腕をふるう時機を天が与えてくれたのだと若い血潮は湧きかへつて、「天徳を予に生せり、桓魅それ予を如何せんや」という感慨であった。

 

幸いに、連れて来た職工の中で監督の三輪・眞田の商人が先生に同情したので、三人で新聞発行準備の局舎に起臥することにして、牛場氏等の帰国を見送った。これが到着後四ヶ月目で、明治十六年四月であった。

 この時、もし井上が他の諸氏と行動を共にしたならば、福沢翁の委嘱は果してどうなったであらうか。先生はそれを心配したのである。

 

 

  「私は、朝鮮での新聞発行の企図が世間の注意を惹き、福沢先生が時事新報の社説で発表されたのに、万一にも慶應義塾以外のものの手に成るような事があったら、私としては生きて居られぬ心地がしたのであった。(「福沢先生の朝鮮御経営」)とは後年、先生(井上)の告白である。

 

そこでいよいよ、先生は独力を以て局面を打開せねばならぬ場合に直画した。先ず渾身の知と勇とをふるって捨身になって現下の政情の調査を始めた。

調べて見ると昨年、乱を起した大院君の一派は攘夷主義で、現在努力をたくましくしている族は事大重義で、主義は違っているが施政は何れも旧式で、この連中にはちっとも世界の大勢に注意を払うような者は居ない。

 

然るに国王は非常な「開化主義」で、朝鮮も日本のように着々と新文明をとり入れて開明に進ませたい意見だという事が判った。

それ故に国王は、その生父の大院君が政治を執つても喜ばない。家は王妃の里方であるけれどもその一族の政治も気に入らないという情勢であった。

 

 

 先生は国王が決して尋常一様の君主でないことを知ると共に、そこに一縲の活路が発見されそうに思われて、なお色々と探索して見ると、国王は外国の事情を聞くのが非常に好きだという事が判った。

 

さればこそ金玉均・朴泳孝が日本政府から金を借りて新聞をおこし、軍隆調練を始めようと云った時に、多数の反対があつたにも拘らす、国王が独りこれに同意して、兎も角も金・朴両氏が京城に帰る事ができたのである。

 

そういうことで、宮中に出入する者の中でも・海外の事情に通じた者が最も国王のお気に入るという事であった。

  そねから井上は、力めて宮中に出入する者に近づいて様子を聞くと、国王は現に牛場氏等の帰国を惜しんでいるという事であった。

 

そこで先生は、海外の書籍を選んで国王に献上した。それも欧文が読めるのではないから、美しい景色や外国の市街の有様などを写した絵画写真などの多いものを選び、また海外事情を翻訳して幾度も献上した。そうしているうちに、ついに謁見を許された。それは牛場氏等が帰国してからまだ幾らも経たない時の事であった。

つづく

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