日本リーダーパワー史(55) 海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう立ち向かったかーハワイ攻撃を立案した悲劇①
2015/11/12
日本リーダーパワー史(55)
海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう立ち向かったかー
ハワイ攻撃を立案した悲劇①
歴史インテリジェンスからみた太平洋戦争と山本五十六①
特に、太平洋戦争までの過程は①暴走する軍部②軍部の中でも下剋上で中堅若手が権力を握って暴走するのを上層部がとめられない。
陸軍と海軍がことごとく対立、陸軍なって国家なし、海軍あって国家なしの無政府状態で、ましてや国民おやです。
政治家は軍人をまったく押えられずシビリアンコントロールできなかった。(たまたま、6月25日朝刊毎日新聞にはオバマ大統領がアフガニスタン駐留米軍司令官の大統領やアフガン政策を批判したかどで首にしたことを報じていました。米国のシビリアンコントロールが厳然と守られており、大統領が最高権力者で権力の1本かがきちんと実施されている)
。しかも、国家を滅ぼし、国民を犠牲に、その生活を塗炭の苦しみに突き落とした政治家、軍人官僚たちの責任は十分追及されてこなかった。この傾向は今も続いており、3権分立の司法がチェック機能を果たしていない。
東大卒の連中が国家公務員試験に受かっただけで、トコロテン式に階段をのぼり、外国語のできない外交官、金融の実務も経済専門知識もない、法学部卒の大蔵官僚、金融、経済のマスター、ドクターがすくなく金融専門家が少ない不思議な不思議な日銀、どの省庁もそろっての縦割り、2重3重のムダ構造、やたらに多い外郭団体、天下り組織、官僚天国・国民地獄国家の巨大腐敗・税金詐取の構造がこんかいのわずかな仕分けだけで明らかになりました。
大元帥で統帥権をもった天皇そのものが軍部をコントロールできないという無責任体制となってしまいました。
山本が昭和の最大の国家戦略立案者、リーダーだったのです。山本はハーバード大で学び、対米10年の海軍きってのアメリカ通でした。アメリカと戦って勝てるわけがないことを最もよく知ってい当時の日本で最高のグローバルインテリジェンスをもっていた山本に対米戦争立案の白羽の矢が立つとは、なんとも悲劇的なことです。
① 海軍に関する報道を誤らないこと
② 海軍軍事普及部の刷新
③ 黒潮会の重視=海雷情報は黒潮会を通じて行うを重点に刷新を図った。
これまで軍事普及部の委員長は予備役編入直前の将官ときまっていたが、それでは迫力がないので山本次官は委員長に現役のパリパリ比叡艦長 金沢正夫大佐を据え、軍令、軍政両面にわたって機密を知り、生きた報道ができるように近代化を図ったものである。
一方、黒潮会に対しては海軍のことは一切黒潮会を通じて公表することにし、極力海軍に関する情報が多岐にわたって流出するのを防ぐようにした。従って黒潮会との関係は緊密となり、代々の次官、局長で黒潮会に顔を出した人はなかったのに、山本次官はよくノコノコと記者クラブにやってきて、雑談をしたり将棋を指したりしていた。
とくに支那事変が勃発してからは、正規の黒潮会員以外に地方紙の記者も出席すにようになり、見当はずれの質問や意見も出たが、山本次官は面倒くさがらず、いちいち丁寧に返答して正しく理解されるよう努めていた。それというのも海軍のことは全部黒潮会を通じて発表するという方針を貫くためで、この間の消息を物語る次のようなエピソードもあった。当時緒方竹虎といえば、朝日新聞の主筆として著名な人だった。その緒方さんがある日山本 に海軍のことを聞いた。すると 山本は「君の杜は黒潮会に人を出していないのか」 という。 「いやとんでもない。常時数名 出している」 「そんならその人達に書いてくれ、僕は海軍のことは黒潮会を通じて発表することにしているンだ」
このように山本さんはぶっきら棒だったが、悪意はなかった。そして筋を通す人だった。記者会見でも、こんなことをきいてもいいのかと、こちらがいぶかる質問にも山本次官の答えは直裁簡明だった。省内の責任者らが機密事項としていることもあけすけに話した。だがそれだけではなく、イエスかノーかは答える。しかし信義は守れーというのが山本流の行き方だった。三国同盟に関する発言でも、歯にもの着せぬ反対論なので勇ましかった。それだけに敵も多かったように思う。
次に掲げるのは福田 耕氏の話である。福田 耕といえば岡田啓介首相の秘書として二・二六事件の銃火の先礼を受けた有名な人だ。氏は昭和一三年上海眞如無線台と劉行の受信所修復のため華中電気株式会社の社長として大陸に赴任し、上海を拠点として占領地区の通信事業の復興に従事していた。ところが通信に絶対欠くことのできないトランスミッターがない。
当時の中国人は日本の技術水準を知らない。 トランスミッターはどこの国の製品かときく。日本電気という会社の製品だというと、そうかも知れないがホントは何処ナンだときく。要は眞如無線台の無線電話開設のためのトランスミッターだからドイツから買えば安く、しかも早く着く、しかし私はドイツからは買わぬ、あくまで日本製を据えて中国人の蒙を開きたいということで、上京して山本次官に訴えた。
黙っていたのはその間中、心当たりを探していたのに違いないと思うと憤慨したのが恥ずかしかった。以上は福田氏の喜寿の祝いを西園寺公ゆかりの興津の水口庭で開いた席上、福田氏が披露したものである。太っ腹といえば戦前のことだが、山本が霞ヶ浦航空隊の副長兼教頭の時、大雨による洪水が起こり周辺に住んでいた海事家族が困っていた。それを見て、公金五万円を支出して被害家族を救済したことなどー若い時から大胆なことをやってのけた語り草が残っている。この性向が後年の真珠湾攻撃に繋がっていると、いえなくもない。
つとして軍令部か艦政本部に八インチ砲塔の新戦艦(大和、武蔵)の研究が要求されたのは昭和九年一〇月であった。
このような状況のもとに、海軍を担当する記者も、国際的な視野でものを見るようにならなければならない。それには練習艦隊に便乗させるのが一番よい ー ということになり、抽選の結果、読売新聞の等々力 栄君と私が選ばれた。
それはいいが六カ月にも及ぶ軍艦生活を覚悟しなければならない。健康状態はどうか、医務局で診てもらったところ、なんとか保つでしょうという。
「戦争記事」より「上海復輿」を取材
防婦人会の柵が随所に目立つ有様だった。私も出発を前にやや興奮気味で、次官のところへ挨拶に行った。
の大きな卓抜した見識の持ち主だと感じた。冷静、沈着、熟慮、断行が次官のモットーだったが、あの沸き立った社会的雰囲気の中で冷静に戦後の方策を考えるとは偉いものだと痛感した。
その足で社に帰って編集局長の小汀利得さんに会って赴任の挨拶をした。ところが小汀さんいわく「君を上海に遣るのは、兵隊の真似をして前線に飛び出したり戦死したりなどするためではない。戦争の記事など書く必要はない。それより戦争の後始末が大変だ。上海へ行ったら、支那の幣制改革をやったリースロスの下で働いたエドワード・カーンという人がいる。その人に会って戦後の復興策を取材しろ・・・・・・」という。私は二度びっくりした。
カーン氏に会って来意を告げ、上海復興についての意見を求めたところ、支那の幣制統一が蒋介石政権の強化に大いに役立ったことなどひとくだり述べたあと 戦争は勝っても負けても双方にとってロスだ。早く止めなければならぬ。さあ大変だ、そんなことを書いたら直ぐ憲兵隊に引っ張られるだろう。しかし取材した以上記事にしないわけにはいかない。とにかく一本の原稿にまとめて本社に送った。一過ばかり経って送られてきた新聞を開いたら「戦争は双方に
損」という見出しで、私が書いた記事が四段で載っている。その筋の呼び出しが今日か明日かとひやひやしていたが結局なにもなかった。
山本元帥が信念の人だったことは有名だ。その証になる二つの事例を挙げたい。一つは三国同盟反対のことだ。山本はアメリカ駐在武官として二度もアメリカに駐在し、アメリカの軍備はもとよりその国の資源、工業力、国民感情などをよく知っており、米内は米内で第一次世界大戦とその後のロシア革命に至る欧州各国の情況を具さに見ており、独、伊は頼りになる相手でないことは百も承知だった。日、独、伊防共協定は昭和一一年一月広田弘毅内閣の時調印された。その後大島浩武官とリッペントロップとの間で、有事の際の軍事援助まで規定しようとする議論がなされたが、防共協定から相互援助に至る全過程において、わが海軍の態度は初めから消極的だった。
航空本位をとなえー大艦巨砲主義に反対
もう一つの信念の発露は航空第一主義の戦略の主張である。ワシントン、ロンドン両海軍條約の満期失効に続いて起こる問題は建艦競争であった。わが国でも軍令部から施政本部に対し一八インチ砲塔の新戦艦、大和、武蔵級建艦の研究が要求されたのは昭和9年11月、この建艦を高等技術会議で決定したのは同一一年七月であった。これに対し猛然と反対したのは、当時航空本部長だった山本五十六中将だった。
山本の航空第一主義の戦略思想はいつごろ生じたのか、山本は大正八年には米国の国情研究のため、また大正一四年には駐米大使館付武官として、二度にわたってアメリカに駐在した。当時は第一次世界大戦の終了後で、欧米では戦略思想が海戦主義から航空本位のものに変わりつつあり、特に英、米、仏、独が中心をなしていた。この欧米戦略思想の変化が山本に影響したことは否めない。
日本将来の国防は航空第一主義でなければならぬことを力説したのである。将来の海上決戦は、従来のような観舷式的な軍艦をならべた戦いではなく、航空戦だというのが彼の主張だった。 山本は大正一三年一二月霞ケ浦航空隊の副長兼教頭に就任した。ここで彼は実技的な海軍航空と取り組むことになった。技術畑出身でない彼が科学的な研究を続けるにはかなりの苦心があったに相違ない。
大佐で副長兼教頭の彼は下士官、兵と一しょに机を並べて教青を受けた。運用術、機銃の操作、通信その他全般にわたって教育を受けた。無類の頑張り産と、何事でも徹底的に研究しつくさねぼやまぬ性向とで、霞ケ浦航空隊在勤
一年有半は山本にとって貴重な経験の連続だったようだ。
その証拠には支那事変の勃発後は内地の基地から南支那海を渡って中国本土を攻撃するいわゆる渡洋爆撃すら可能になったのである。
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