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『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐/水野広徳の思想的大転換➀』-『第1次世界大戦でフランス・連合軍とドイツ軍が対峠,70万人以上の戦死者を出した西部戦線随一の激戦地ベルダンを訪れた』

   

 日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳

  2009/02/10  

前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)

① 水野がアメリカの伝単ビラに登場

日本の敗戦がいよいよ差し迫ってきた一九四五年(昭和20)五月中旬、東京をはじめ全国各地に米軍機から、ある伝単ビラが大量にばらまかれた。それには次のように書かれていた。
「大正十四年四月の中央公論に水野広範氏は次のように掲げた。
『われ等は米国人の米国魂を買い被ることは愚かなるとともにこれを侮ることは大なる誤りである。米国の兵力を研究するに当り、その人的要素は彼我同等のものとして、考慮するにあらざれば、英国人に対したるドイツ人の誤算を繰返へすであろうことを恐れる』

軍部指導者は水野氏の注意された間違いを繰返したのである。彼等は今では誤算を自覚している。この強欲非道的軍部指導者を打倒するには米国が日本本土を衝かなければならないのであろうか。祖国を救え!」

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米軍がまいた水野の文章の電単

 文中の水野広範とは水野広徳のことであった。水野が大正十四年四月号の『中央公論』で発表した「米国海軍と日本」の文章の一節を引きながら、日本国民へ警告を発していた。

水野広徳が二十年前に警告した日米戦争はついに日本の破滅という予告通りの悲惨な結果となり、その最後の土壇場で、敵側の米軍機から降伏勧告のビラとなってまかれたのである。何たる歴史の皮肉であろうか。水野はこれからわずか半年後に、疎開先の愛媛県越智郡の瀬戸内海の小島で七十一歳の生涯を閉じた。
日米非戦論を唱え、日米戦えば日本は必ず敗れると結果を見事に予見し、軍縮、平和主義者として大正、昭和戦前の困難な時代に一貫して節を曲げなかった水野は、米国では注目されながら、日本では不遇のうちに死を遂げた。

② 戦記「此一戦」の著者の水野の真骨頂は後半生に

水野広徳(一八七五―一九四五)は明治の日露戦争での日本海海戦を記録した海戦記「此一戦」の著者として知られる。この本は当時一大ベストセラーとなったが、その後、水野は第一次世界大戦後のヨーロッパ視察によって軍国主義者から一転して平和主義者になり、大正・昭和前期にかけて高まってきた「日米戦争」に対して、「日米戦うべからず」と唱えた後半生の部分はあまり知られていない。水野の真骨頂は実はこの後半生にある。

水野のように、海軍軍人として大佐にまで登りつめた人物が反戦・平和主義者になった例はない。しかも、海軍と決別し、筆一本の評論家生活に入った水野は当時の論壇の中心であった「中央公論」「改造」の常連執筆者として、軍縮論のキャンペーンの先頭に立って、大正・昭和戦前期にわが国の軍事評論家の第一人者として活躍した。
そればかりではない。大正中期から昭和初期にかけて軍国主義、ファシズムのうねりが一挙に昂まって来るなかで、単に軍事評論だけではなく、反戦・平和主義者として時代の病理を的確に見抜き、多方面にわたって鋭い批評、評論活動をつづけた思想家、評論家としても傑出した存在であった。
一九三一年(昭和六)の満州事変前後からきびしい言論統制になり、水野もそれまでの軍事、政治、外交の評論から-部、戦記や軍談などに韜晦し、時局への批判や痛嘆の本音は手紙や日記の中で書いたり、狂歌に託しているが、節は曲げず太平洋戦争直前にはついに執筆禁止となってしまった。
戦時下においても、反戦・平和を貫いており、「日米非戦論」を唱えた数少ない抵抗の言論、知識人としても評価に値するものと思う。

ルモンドの報じる『ベルダンの戦い、死体累々の惨状』

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③ 水野の思想的転換の地・ベルダンを訪ねた

パリから北東へ約二百キロの北フランスにべルタンという町がある。約四年間にわたった第一次世界大戦でフランス・連合軍とドイツ軍が対峠し、両軍合わせて七十万人以上の戦死者を出した西部戦線随一の激戦地であり、天王山となった町である。大戦終結半年後に、この地を視察した水野は近代戦のすさまじい破壊力、勝敗に関係なく戦争による国民の悲惨さを目のあたりにして、大きな衝撃を受けた。
「その凶暴なる破壊、残忍なる殺りくの跡をみて、僕は人道的良心より、戦争を否認せざるを得なかつた」水野は戦争を国家発展の最良の手段と考えていた軍国主義思想を打ちくだかれ、一転して、平和主義者へと一八〇度転換したのである。

 
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水野の思想的転換をひき起こしたベルタンの地を自分の目で確かめたいーそう思った私は一九九五年五月末、一週間にわたり北フランスの西部戦線を回ってみた。ベルダンに入るとに巨大な戦勝モニュメントがそびえ、町のあちこちに記念碑が立ち並んでいる。特に、激戦地となった北約十キロの丘陵地帯には戦争記念博物館や基地、要塞跡が保存されていた。
博物館の中央には、当時の塹壕や戦場の模様がそのまま展示されていた。
昼夜をわかたぬ砲弾の雨によって、塹壕は破壊され、地面はまるで月面のように穴ぼこだらけとなっている。その上に、焼けただれた樹木や幹、飛び散った鉄カブト、ガスマスク、武器の破片、戦車の残がい、鉄条網の断片、スクラップなどがあちこちに散乱し、当時の戦場のすさまじさを再現していた。
すぐ横にある基地には、フランスの連合軍の兵士たち約五万人近くの十字架が緑の芝の中に整然と並んでいた。当時、フランス軍の司令部のあったドーモン要塞もすぐ近くにある。地下数十メートルにわたって内部を堅固にかためた一大要塞である。
この要塞は周囲三六〇度がふかんでき、見渡せる丘陵と平原の高台にある。両軍はこの要塞をめぐって激しい攻防をくり広げ、両軍の兵士は「肉ひき機」にかけられたように屍の山を築いた。
水野が一九一九年(大正八)年六月に訪れたベルタン高地は大戦終結半年後とはいえ、ドイツ軍の連日の猛爆によって焼けただれ、全山一枝の緑も残されておらず、日を妨げる一本の樹木も、身を隠す一塊の地物もなかった。
ドイツ軍はフランス軍の機銃掃射によって全滅につぐ全滅。一方、フランス軍はドイツ軍の大砲や砲弾によって打ち上げられた土砂のため、全隊生きながら塹壕に埋められ、研ぎすまされた銃剣の先のみがスズキの穂のように地上に突き出ていた、という鬼気迫る光景が続いていた。ドイツ軍は約五十万人の犠牲者を出したといい、屍で全山埋め尽くされ、軍服姿のまま白骨化した遺体が散乱していた。

 

④軍国主義者から平和主義者へ180 度の転換

破壊し尽くされ“ポンペイ”のさながらのベルタン市街と、全山黒く焼けただれ十字架の墓標と土饅頭が延々と並ぶ無人の草原に立った水野は、戦争と人間の道徳と生命的価値について深く考えこんだ。

「彼等とて決して死にたくて死んだのではあるまい。唯国家の為〈命令の為}という一念の下に、子を捨て、妻を捨て、親を捨てて、はては己の命まで捨てたのである。彼等は国家要求によって否応なしに命を取り上げられたのである」
「弱い国民からは、そのかけ替えのない生命さえ奪いながら、強い国民からはその有り余れる富すら奪い得ない国家、それが最高の道徳と言い得るであろうか」水野の心は大きく揺れ動いた。

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戦争を正義とし、国家発展の手段と考えていた軍国主義はこれほど多数の国民の犠牲の上に、正義として成り立ち得るのか。戦争は果たして国民のため、国家のためになるものなのか。
「この極めて簡単で明白な、又、極めて平凡な問題が恰かも天の啓示でもあるが如く、電光の様に僕の脳裏に閃いた。僕は鉄槌を以て打砕かれ、利刀を以て胸を突刺された様な鋭く烈しい衝動を感じた」
水野のそれまでの思想は音を立ててくずれていった。戦争否定、軍備撒廃、平和こそすべての礎ではないのか。約一千万人という第一次世界大戦の犠牲者の屍と破壊を凝視して水野は生まれ返ったのである。
私はベルグン丘陵を三六〇度ふかんする高地に立って、人っ子一人いない平原をしばらく見つめながら、その時の水野の心に思いをはせ、その思想的な転換が理解できた思いであった。

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