<裁判員研修ノート③>全告白『八海事件の真相(下)』<昭和戦後最大の死刑冤罪事件はこうして生まれた>③
この疑問から私はスタートした。そして、約六年たった今、依然としてこの疑問は解けてはいない。ただ、この間に冤罪の経緯を解くいくつかの手がかりだけは得られた。吉岡ノートはもちろん、その中の最も大きなものだが、今一つ見過ごせないものがある。吉岡は七回の裁判を通じて、その供述の信ぴょう性が真っ二つに分かれたが、一度も精神鑑定をされていない。弁護側からは何度か鑑定依頼が出されたが、検察側が強硬に反対、裁判所も一度も行わなかった。
吉岡はボーダーラインから軽愚に該当する。戦時中の教育空白期と重なっていることもあるが、本人が自分の無知を十分認識している。
嘘言癖についても、日常デタラメばかりを言っているのではなく、追いつめられた場合、自己防衛からウソで切り抜けるものだ。ウソをついて人を陥れるほどの才能はない。嘘言癖も当てはまらない。
ただ軽愚の特徴として、おだてにのりやすく、オッチョコチョイで、先走ったことをする。これが逆に、強く言われると、すぐ妥協し、環境によっては反社会的な行動をとることがある。集団生活になじまず、社会的には未熟である」としている。
この鑑定をみて、驚くのは一、二審の判決文中の吉岡分析とそっくりということだ。このような吉岡のいうところを裁判官はまともに受けとめたのではないか。そこに思わぬ陥穽があったのではないかと思う。
例えば、多数犯の一つの根拠に各裁判官は「吉岡や他の偽証者が自分の証言によって、友人が死刑になるという重大な状況でウソを言うとは思えない」という趣旨のことを書いている。この認識を甘いと思うのは私だけではあるまい。これはあくまで優等生的な思考で、絶体絶命に追いつめられた犯罪者の心理には適用できない。
ただ、ここで一つ注意しなければならないことがある。裁判官が吉岡を正常と見誤る点は確かにあるということだ。主犯とされAやIや各弁護士も「軽愚」には見えなかったと口をそろえる。
私も六年間付き合ってみて、常識に欠けた、性格異常的な面は感じたが、とても軽愚には思えなかった。逆に、自己の利益を執ように追求し、不利益な立場には絶対に立たないという自己防衛本能がわれわれの何倍も発達しているように思われた。
吉岡はノートの中で四審から公判に出廷する前に検事から証言を教えこまれ、予行演習をしたという重大な事実を書いている。この点、私はことがことだけに、吉岡の自己弁護と責任逃れの可能性もあるとして憤重に取り扱った。が、吉岡が獄中から持ち帰ったノート六冊に確かに学習した形跡は歴然と残っているのである。
「検事は公判前にはずっと一週間は続けてやって来た。大体、午後六時前ごろに来て午後九時までには終わる。新聞などは検事に頼み、見せてもらうようになっていたので八海事件に関する新聞、雑誌はどんなものでもみていた」(吉岡ノ-ト)
「私はまさかBがウソを言うとは思わなかった。警察なら拷問でウソを言わせるが、検事はそんな事はしない。その代わり、精神的な拷問(苦痛)でウソの自白をさせる。検事は『Bは君たちと六人でやることになっていたと言っているぞ』と言った。
検事は何度もしつこく聞いた。そんなことがウソであることは私が一番よく知っている。今さら、Bと口裏を合わせるのは不自然だと思い、知らないと言った。もし、口裏を合わせれば、弁護側から追及されることは火を見るように明らかだった」(同)
正木ひろし弁護士の『裁判官』を読んだり、映画『真昼の暗黒』を見た人々から、未決のAさんらに激励の手紙がたくさん寄せられた。吉岡にも手紙が届いた。しかし、吉岡は受刑者なので未知のペンフレンドとの文通が許されるはずがない。
吉岡は検事に頼みこみ、特別待遇として文通を認めてもらった。もちつ、もたれつのなれ合いの関係の一端がここにもみられる。五人共犯の偽証を通すことで、刑務所や検事からいろんな面で優遇されたのである。
相手は中学三年の女の子で、最初、吉岡はさびしさと退屈まぎれに返事を書いた。期待していなかった返事がきた。病弱で文通好きな女の子だった。
好奇心の旺盛なあどけない女の子。一方、死刑台から偽証によって生還した三十歳の吉岡。奇妙といえば、これほど奇妙な取合せはあるまい。しかし、これが八年間も続き、吉岡にとって誰よりも大切な人になったのである。
灰色のコンクリート、鉄格子、囚人服、暗い表情の受刑者たち。吉岡の生活とはまるで対照的なみずみずしい少女の世界に吉岡は急速に魅せられていく。母親を幼時に失い、男兄弟の中で育った吉岡が女性のやさしさにどんなに飢えていたか。〝お兄様″と呼ばれた吉岡は『五人共犯』のウソをつづった手紙を出してはいたが、そのうち、うちとけた調子の手紙をせっせと書いて、返事を楽しみにするようになった。
吉岡の心の中で少女の存在は裁判官、検事、弁護士の比ではない。しだいに、かけがえのない存在になっていく。そして、文通を止められることを何よりも恐れた。それが逆に検察や刑務所につけ込まれることになり、文通の中止をいく度もにおわされる。この少女との文通が吉岡にとって唯一の心の灯となり、徐々に良心を目ざめさしていくのである。
吉岡も長い年月で徐々にAらへの罪の意識は薄らいだとはいえ、無罪判決で肩の荷をすっかりおろした。ここで、片がついておれば八海事件も戦後、数多くあった他の冤罪事件と同じような事件として終わったであろう。
(5)法廷なれで度胸が一層つく
何もやっていないので、真実さえ見抜いてもらえればよいという意識がどうしても強く、権力の恐ろしさに対しての観点が弱い。無罪さえ克ち取ればよいという考えでいったん無罪になると運動は急速にしぼんで行く。これが逆に権力側のつけ込むスキを与え、長期裁判のドロ沼が続いた」
一方、吉岡はどうか。歳月がAさんらへの罪悪感を洗い流し、四審などではかつて見られなかったほど堂々とした態度を吉岡にとらせるようになる。なれで法廷度胸が一層ついたのである。ウソをついているとはとても思えないほどの演技力を身につけた。
事件を一番よく知っているのは自分だと、気にいらぬ態度の検事の調べを拒否するほどの〝大物〟になる。協力する代わりに検事に対して条件まで出した。
四十年八月三十日、広島高裁、河相格治裁判長は再びA氏に死刑、I氏は懲役十二年、M、N両氏には同十二年の誤判を下した。
四十九年十二月、私は裁判官を退官し、弁護士になっていた河相氏を広島県深安郡神辺町の自宅に訪ね、判決の理由を聞いた。河相氏は単独ではできない心証を形成した三つの理由を上げた。
無実で苦しんでいるA君たちを助けるためには、本当をいわなくては不可能です。でも、あなたといつまでも文通をしていたのでは、迷惑をかけることになる。あなたが大下五子のように、事件にまき込まれてしまう。私はそれが一番恐ろしかったのです。あなたとの文通がとだえてから、私は何度も挫折しそうになったが、あなたのやさしい言葉を思い出し、その言葉が、弱い私服どんなにささえとなったことでしょう。あなたを知らなかったら、私は今日もウソをいって、多くの人を苦しめ、また自分も苦しんでいるでしょう」(吉岡ノート26 冊目)
上申書は広島高裁、高検に出されたのを皮切りに、四十三年三月初旬までに計約十七通が最高裁、最高検、担当弁護士に断続的に出された。
刑務所側は吉岡が上申書を出すたびに取り下げるように圧力をかけ、暴力をふるい、懲罰まで加えていたのである。
他の受刑者にわからないように隣の房は空にして、房の前にわざわざサクをかけてきびしく監視した。他の受刑者を使って原田弁諸士に連結するのを阻止する手段であった」(同)
昭和四十三年十月二十五日、最高裁第二小法廷(奥野健一裁判長)が阿藤氏らに無罪判決を下したのは事件発生以来、実に十七年九ヶ月ぶりであった
「八海事件の真相」(上)http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=275
「八海事件の真相」(中)http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=307
関連記事
-
-
高杉晋吾レポート⑱ルポ ダム難民②超集中豪雨の時代のダム災害②森林保水、河川整備、住民力こそが洪水防止力
高杉晋吾レポート⑱ ルポ ダム難民② 超集中豪雨の時代のダム災害② …
-
-
『Z世代のための日中韓外交史講座』⑰』★『憲政の神様・尾崎咢堂の語る「対中国・韓国論』★『尾崎行雄の「支那(中国)滅亡論(下)」(1901年(明治34)11月「中央公論」掲載)『清国に政治的能力なし。なぜ税関の役人はすべて外国人なのか、日本人なのか?中国人はいない不思議の国?』
2013/07/12 日本リーダーパワー史( …
-
-
『オンライン太平洋戦争講座/ガダルカナル戦の研究』★『敗戦直後の1946年に「敗因を衝くー軍閥専横の実相』で陸軍の内幕を暴露して東京裁判でも検事側証人に立った陸軍反逆児・田中隆吉の証言⑤『ガダルカナルの惨敗、悲劇ー敵を知らず、己れを知らず』』
2015/05/25 終戦70年・日本敗戦史(85)記事 …
-
-
速報(474) ビデオ緊急座談会(60分)●「2020 年東京オリンピック開催を『新生日本』 のスタートダッシュにせよ。
速報(474)『日本のメルトダウン』 ビデオ …
-
-
『オンライン/75年目の終戦記念日/講座』★『1945年終戦最後の宰相ー鈴木貫太郎(78歳)の国難突破力が「戦後日本を救った」』★『その長寿逆転突破力とインテリジェンスを学ぶ』
2015/08/05 日本リーダーパワー史(5 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(269)★日本が真の民主国家(自由平等、男女平等)になれない理由は—日本の前近代的な政治閥、官僚閥のルーツはー「日本の秘密結社としての 陸軍は山県有朋の長州閥(山口閥)が作った」,
2012/05/03日本リーダーパワー史(256)記事再録 『明治の巨大国家プロ …
-
-
オンライン/新型コロナパンデミックの研究』-『米大統領選挙とサイバー戦争』★『強いものが生き残るのではなく、状況に適応したものが生き残る。『適者生存の原則』(ダーウイーンの法則)を見るまでもなく、米国のオープンソース・オープンシステムには復元力、状況適応力、自由多様性の組み込みソフトが内蔵されているが、3千年の歴史を自尊する中国の旧弊な秘密主義システム(中華思想)にはそれがない』(6月15日)
米大統領選挙と「サイバー戦争」 前坂 俊之(ジャーナリスト) …
-
-
速報(413)『日本のメルトダウン』●『初心者を相手にする「核のポーカー」は危ない』『アベノミクスは日本救うか波及に正念場』
速報(413)『日本のメルトダウン』 &n …
-
-
速報(233)『ソ二―はよみがえることができるか』『自動車産業は「農業化」したー輸出は半減、国は補助金頼み』ほか
速報(233)『日本のメルトダウン』 ●『ソ二―はよ …
-
-
世界、日本メルトダウン(1017)ー「トランプ操縦の『エアホースワン』は離陸後2週間、目的地も定まらず、ダッチロールを繰り返す」★『仏大統領選 ルペン氏が首位 左派アモン氏低迷 世論調査』→『トランプ大火災は「パリは燃えているか」(第2次世界大戦中のヒトラーの言葉)となるのか!
世界、日本メルトダウン(1017) トランプ操縦の『エアホースワン』は離陸後 …