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日本リーダーパワー史(189)『真珠湾攻撃(1941)から70年―この失敗から米CIAは生れた。<日米インテリジェンスの落差>(上)

   

日本リーダーパワー史(189)
 
国難リテラシー
 
『真珠湾攻撃(1941)から70年―この失敗から米CIAは生れ、日本は未だに情報統合本部がなく<3・11日本敗戦>を招いた』<日米インテリジェンスの落差>(上)
 
                前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
今年は『日米中』の三国関係にとって節目の年であることは、このシリーズで昨年から長期連載して考察している。「孫文による辛亥革命から100年目」が、この10月10日である。満州事変から80年がこの9月18日と間もなくやって来る。さらに、日米同盟が迷走する日米戦争の真珠湾攻撃から70年目が12月8日と目白押しである。
『日米中』の戦争歴史観、戦争認識が試される季節がこれから始まる。発足したばかりの戦争を知らない世代が中心の『野田素人どじょう内閣』はこの泥沼で複雑怪奇な国際外交の駆け引き、大魚の丸のみ、攻撃に対してドジョウのように敏捷に立ち回り、反撃できるかかどうかー残念ながら,そのインテリジェンスも歴史、外交知識も皆無だろうと危惧する。
今回は日米戦争の発端となった真珠湾攻撃の作戦立者・草鹿龍之介の証言と、アメリカ側の真珠湾攻撃に対する情報評価の両面を見て行く。
 
以下は昭和22年に書かれた草鹿龍之介の手記の一部である。(『帝国海軍 提督達の遺稿』(小柳資料)水交会、平成22年より)
 
 
 

 『草鹿龍之介第一航空艦隊参謀長の真珠湾攻撃計画』

 
 
 
昭和16年4月15日、第一航空隊が編成され、私はその参謀長に任命された。長官は南雲忠一中佐、先任参謀大石保中佐、航空参謀源田実中佐。
 
着任して間もなく(四月下旬頃か)私は鹿屋から飛行機で上京し軍令部に挨拶に行き、福留(繁)第一部長に会って「一体アメリカとはどうなるのか」と聞いた。彼は薄い一冊の書類を渡してこれを読めと言った。標題は「真珠湾攻撃計画」と云う意味のもの。その内容は真珠湾に関する米軍の状況の集録にすぎない。
「これをどうしようと云うのか」と反問すると「貴様の手で攻撃出来るように計画してくれ」とのことである。これがそもそも私が真珠湾攻撃作戦にタッチした第一歩であった。
福留君の私にみせた書類は山本長官の腹心たる大西瀧治郎少将の献策で、秘蔵弟子の源田実中佐の起案によるものと想像するが確かなことは知らない。私はその後、大西君に会って真珠湾攻撃のことを議論した。
 
私の主張
 
 私の主張は次のようなものであった。
 
「航空作戦は初動が大切である。初めに大勝利を得ればあとは押して行ける。日米開戦とならば全航空機はフィリピンとマレーに注げ、第1航空艦隊は全力を持って比島を叩け、第11航空艦隊は全部マレーに使え。兎に角、圧倒的兵力を使うことが必要だ。
 
そして一刻も早く南方資源地帯を確保せよ。真珠湾攻撃は敵の懐に飛び込むようなものだ。大戦争の第一歩から投機的の危険を冒すことはよろしくない」
 
 大西は、初めは中々言うことをきかなかったが、段々議論している間に「なるほどそうだ。南雲、塚原も反対らしい」と折れて来た。
 
それでは「山本長官に意見を具申しようじゃないか」と持ち出すと「俺には反対意見を言いずらいから、貴様言え」と言うので、ある日大西と共に旗艦に山本長官を尋ねて忌憚なくなく意見を述べた。長官は始終黙って聴いておられた。
長官は最後に、「僕がブリッジが好きだからと云ってそう投機的投機的と言うなヨ、君達の言うことも一理ある。」と言われた。
旗艦から帰るとき、私の肩を叩いて「草鹿君、君の言うことはよく解る。しかし、真珠湾攻撃は僕の信念だ。これが実現出来るよう全力を尽くしてくれ。その計画は君に一任する。希望があったら何でも言って来い。私の尽力はする。南雲長官にも君から伝えてくれ」と言われた。
 
 
・真珠湾攻撃の研究
 
 私は早速、大石主席参謀、源田作戦参謀を呼んで研究を命じた。真珠湾攻撃の目的を達するにはどうしたらよいかいろいろ考えたが、先ず頭に浮かんで来たのは源義経の鴇越えの故事で「敵の守らざるを討たざるべからず」と思った。
 
それには第一に機密保持が大切である。日本本土上空からハワイまでは3000海里もある。その間、大部隊が敵味方乃至中立国の船舶に一回も遭遇しな
いと云うことは誰も保証は出来ない。また、ハワイには敵の大型機PBY2も飛行艇もいる。
何とか敵の目をかすめて奇襲を掛けなければならない。
 
 日本本土からハワイに至るには大体三つの航路がある。北よりの航路と中央航路と南よりの航路である。そこで、過去一五年間にわたって統計を調べてみて冬期には一隻も通ったことのない北緯四〇度附近の線を東進、ハワイ島の真北約800海里の地点に進出することを考えた。
 
幸いこの線はハワイ及びアリューシャン方面から600浬の飛行哨戒圏外を縫うことになる。それでハワイの真北六〇〇浬の地点からは、なるべく夜間を利用しまっしぐらに高速力にて南下し、ハワイ島から200海里圏内に殺到、飛行機を発進攻撃すると云う一応の案が出来た。
 
。しかし北方航路には一つの難点がある。この航路は冬季天候が最も不良で洋上補給の出来る日数は大体10パーセント位しかない。この難点があればこそ、従来通航船舶がなくて不意打ちが可能になるのであるが補給の能否は本作戦の絶対問題である。然し若干なとも補給可能の天候もあるのだから、これは極力訓練によって天候を克服しなければならないと決心した。
 
 
次は集合出撃地点を何処にすべきか。私がふと頭に浮かんだのは択捉島の単冠湾であった。この所ならば北辺の避地で人目に付かず、機動艦隊の集合地としては機密保持上申し分なく、これこれと思った。
 
アメリカの太平洋艦隊が攻撃当日真珠湾に在泊しておるか、ラハイナ錨地にいるか、訓練のためオアフ島周辺に出動しているかが問題である。しかし多くの場合、週末には休養のため真珠湾に帰港する習性のあることは解っていた。
 
 
ラハイナ泊地は潜水艦二隻を以て偵察し7月中にはその情況を報告することにした。出撃後のハワイ方面の敵情に関してはホノルル総領事の報告と、同方面の無線情報及びラジオ放送等の資料から軍令部で総合判断して気象通報と共に毎日通報してもらうことにした。
 
 
・攻撃要領
 
 敵艦隊に再起不能の大打撃を与えるのが眼目であるから勿論敵の空母、戦艦が主目標だ。同時に我が攻撃を阻止しようとするオアフ島の数ヵ所に散在する五〇〇機以上の敵の飛行基地を爆砕しなければならない。これがため、第一航空艦隊空母6隻の総飛行機360機の全力を使用する。敵の戦艦に対しては練度の高い第二第二航空戦隊の攻撃機を以て3000米以上の高度水平爆撃及び雷撃を併用する。敵の空母に対しては同じく第一、第二航空戦隊の攻撃機を以てする雷撃と爆撃機を以てする急降下爆撃を併用する。
 
 
昭和一六年の春、鹿島爆撃場でドイツ製150粍鋼板に対する99式80番毒爆弾の貫徹実験が行われた。その結果、4000m高度から投下すれば完全に貫徹することが確かめられた。なお、軍令部第三部の調査によって米艦の甲板の厚さや鋼鉄の種類が解っていた。
浅深実験は昭和14年頃から始められていたが、16年の半ば頃までには未だ満足な成果は得られなかった。そこで、八月下旬から九月中旬まで和田航空技術廠長を委員長とする大規模の研究実験が行われ、空中水中両用の安定器の採用により大体において沈度12mに収めることが出来た。これによって浅く且つ狭い真珠湾における雷撃法の見通しがついた。
 
これに基いて浅海用の魚雷100本の大至急改造が請求された。然し、各母艦が所属軍港で臨戦準備をして出港するまでには全部は出来上がらず、未完成の分は加賀が11月18日まで出港を延ばして佐世保で積み単冠湾に直航して此所で各艦に魚雷を配給したような始末であった。
 
 
・訓練
 
真珠湾攻撃計画は源田参謀が精魂を傾けてこれに没頭したが、訓練の方は一括して新たに着任した赤城飛行隊長測田美津雄中佐に委せた。
 
源田、測田の両中佐は同期生で,ふんけいの間柄であったからよく呼吸が合ってシックリ行った。各母艦の飛行隊を全部取り上げて、淵田指揮官一人に全教育を委ねたのであるから、司令官や艦長からいろいろ苦情が出たが教育訓練の能率を挙げるためには止むを得なかった。飛行機隊の総合訓練は8月の末から始めた。本作戦に就いては源田中佐から測田中佐に窃かに伝えられたが他には一切知らせなかった。
 
真珠湾はクラーク山脈、ワイアナ山脈に囲まれた狭い湾であるから、これに応ずるためにはまた特殊の訓練が必要である。鹿児島基地の攻撃隊の如きは城山上空で一列となり、岩崎谷に差しかかると急に高度を上げて谷間を縫い山の端を出ると急に旋回して海岸に出て高度を20mまで下げげて魚雷発射の擬襲をやる。こんな訓練を反覆するので搭乗員は何のためかサッパリ解らないと云った表情であった。
 
 
11月2日、3日、最後の仕上げとして真珠湾の空襲計画に基づき教練飛行が実施された。その前日にこれが真珠湾攻撃の予行であることが始めて搭乗員に知らされた。全母艦は佐伯湾の南方約二五〇海里の海上から第一次攻撃隊を発信させ、続いて第二次攻撃隊を佐伯湾在泊中の連合艦隊に対して空襲を実施した。
ハワイ攻撃に対する万全の訓練が完了した。

・洋上給油

 軍令部では六隻乃至八隻の一万トン級給油船を配属させることに一応決定したが一体その船が今どこにいるやら解らない。12月の期日は追々逼る。気が気でない。10月に中旬になって漸く旭東丸と健洋丸の二隻が配属され補給訓練を始めた。
従来これ等大型艦の補給は給油船を前にする縦曳法によっていたが風涛の高い海上ではうまく行かずに行き悩んでいた。しかし研究の結果、従来の縦曳とは逆に給油船を曳航して行う逆曳法によれば相当の荒天でも補給の可能のことが解って愁眉を開くことが出来た。
 

・出撃の準備

 真珠湾攻撃計画は11月3日軍令部によって正式に承認され11月7日発令、攻撃日を12月8日と予定された。各艦は夫々、所属軍港に帰って臨戦準備その他の出撃準備をした。ここでも一番心配したのは機密保持の問題である。

 これまでの艦は南方の用意ばかりしているのに今度は厳寒の用意だ。搭載物件で大凡の行動範囲が感付かれる。これでは 頭匿して尻匿さず」と云うことになる。それで私は司令部の三長(艦隊機関長、艦隊軍医長、艦隊主計長) には特に大事を打ち明けて協力を切望した。

 11月半ば岩国航空隊で連合艦隊の各艦隊長主なる幕僚の最後の打合せがあり、別れの宴会があった。宇垣参謀長は真剣な表情で「君のところに全幅頼っているのだから是非共うまくやってくれ」と言って手を堅く握った。私はグンと胸にこたえた。その前、軍令部で福留に会ったときは「至難の作戦だがシツカリやってくれ。もし成功して帰ったら全員二段進級だ。頒徳碑も建ててやる」と冗談交じりに励ましてくれたことも思い出し、全軍の要望を荷って先陣を承わる重責に感奮した。

・単冠湾に集合


一旦母港に帰って出撃準備をした各艦は11月23日までに単冠湾に集合を命ぜられた。旗艦赤城は11月17日夜、誰一人見送る人もない中を単独,佐伯湾出港、窃かに単冠湾に向かった。今まで発信量の多かったのが急に激減しては怪しまれるのでここでも機密保持に気を使ってあたかも在泊しているかの如く陸上や在泊艦船に頼んでわざと電波を出してもらった。
 
赤城は迂回航路をとり途中訓練を行いながら21日単冠湾に入港した。そして22日加賀の入港を最後に30隻を越える機動部隊の精鋭が勢揃いを終わった。
二三日には艦長司令以上を集めて最後の打合せ会議を行い南雲長官から激励の訓示があり、私は詳細に亘って注意事項を述べ終わって勝栗とスルメで作戦の
成功を祈り陛下の万歳を三唱して乾杯した。

 士官始め乗員の大部のものはこの日始めて真珠湾攻撃の壮挙を知り男子の本懐これにすぎずと雀躍したのであった。真珠湾攻撃の前段はどうやら無難にここまで漕ぎつけたが、出撃後、起こり得べきいろいろな場合を想定して更に思いを凝らしていた。
 
出撃後敵の潜水艦や飛行機に発見されて我が企図を暴露するような場合には、空襲決行二日以前ならば攻撃を断念して引き返すことになっていたが、若し空襲予定日の前日以後であれば空襲を決行するか或いは断念して引き返すべきかは、そのときの情況に応じて機動部隊指揮官の判断に委ねられていた。

 若し商船に遭遇した場合には直ちに臨検の上無線の使用を禁止しこれを監視する。また、事前に真珠湾の敵情が全然得られない場合には空襲予定の前々日に利根、筑摩を分派し前日中に飛行偵察を実施する腹案であった。

 十月下旬、実況調査のため特派された大洋丸は概ね北方予定航路を東航しハワイに寄港して二月中旬横浜に帰ったが、同船便乗士官の某少佐は比叡に便乗七て単冠湾に来たり、有力な情報を伝えた。それによれば、北方航路で水上機を使用し得る日数は約八十%で艦船の洋上補給可能の日数は相当大、途中艦船や商船には一隻も遭わず、飛行機も認めなかったがハワイの北方五十海里
 
 
 十月下旬、実況調査のため特派された大洋丸は概ね北方予定航路を東航しハワイに寄港して二月中旬横浜に帰ったが、同船便乗士官の某少佐は比叡に便乗七て単冠湾に来たり、有力な情報を伝えた。
それによれば、北方航路で水上機を使用し得る日数は約八十%で艦船の洋上補給可能の日数は相当大、途中艦船や商船には一隻も遭わず、飛行機も認めなかったがハワイの北方五十海里附近で飛行艇に発見された。
 
真珠湾ロには防潜網が張られて監視艇が警戒しており飛行艇による哨戒も毎日行われているとのことであった。これで兼ねて気にしていた洋上補給のことは幾分楽観出来たが、一番気になるのは日米交渉妥結の場合「機動部隊引き返せ」の電報を聞き漏らしやせぬかと云うことであった。何しろ必ず決行すると云うのではなく蛇の半殺しのような状態で出て行くのであるから何となく気持ちが晴々しない。
11月26日午前8時、機動部隊は単冠湾を出撃していよいよ出撃の壮途に上った。
 
                    つづく
 


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