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片野勧の衝撃レポート⑯『太平洋戦争<戦災>と<3・11>ー震災特別攻撃隊(特攻)とフクシマ(上)』

   

 片野勧の衝撃レポート

 

太平洋戦争<戦災>と<311>震災⑯

『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』


特別攻撃隊(特攻)とフクシマ(上)

片野勧(ジャーナリスト)


俳誌「はららご」を主宰

 

少女期戦争老いて震災浅蜊汁

  

この句を作った俳人の声は、きれいに透き通っていた。福島県南相馬市の居宅。八牧美喜子さん(84)は約束の時間に待っていてくれた。2012年11月25日午前11時。張りのある声で言い切った。まず、原発事故の「責任」の所在を問う私の質問に対して、こう答えた。

 

「40年前でしょうか、原発が近くにできるというので、医師会や薬剤師会は大反対しました。わが家は薬局でしたので、もちろん反対運動に参加しました。しかし、まさかこんな事故が起こるなんて、考えてもみませんでした。

絶対安全と言われていましたから。東電は技術に自信を持って、まあ大丈夫だくらいに思っていたんじゃないですか。それと、その安全神話づくりに協力した政治家、官僚、マスコミの責任も大きい。この事実をごまかしてはいけません」

 

八牧さんは平成4年(1992)に創刊された季刊俳誌「はららご」を主宰。全国に多くの会員がいる。「人間万事塞翁が馬」――粘り強い東北人の特質をたたえ、気力のある作品を発表し続ける俳人。句作を通じ、地方の有り様と風物、人間を見つめてきた。八牧さんは高度成長期の終わりに、こんな句を残している。

 

子の減りてかまくらに子のひとりなる

 

 らく秋田県横手市を訪れた時の句だと思われるが、「かまくら」は400年以上の歴史を持つ。いかにも雪を楽しむ雪国ならではの光景である。

 

「昔は大勢の子供たちが『かまくら』の中に入って、甘酒、御餅、豆餅、いぶりがっこなどを食べていましたが、今は子供一人が中に入ればいい方です。少子高齢化の未来は荒涼たる地球になるだろうということです」

 

震災による死者は15,880人、行方不明者は2,700人(2013年1月30日現在)。未来に楽しいことがいっぱいいたはずの子供たち。子供たちのためにもっと生きなければならないと必死に働いていた親たち。それが突然、命を絶たれたのである。

私は酷い死に方ですね。殺戮死のようなものですね、と問いかけてみた。

 

「津波は天災とはいえ、人間の尊厳を奪い去りましたから、確かに殺戮死かもしれませんね」

殺戮死をもたらした当事者は戦争の場合は人間であり、今回は津波と原発ということになるのだろう。

震災直後、町を出ると、すぐ田の中に津波によって横たわる船の異様な情景。放射能で窓を開けられず、夏なのにマスク姿の人々。公園にゆくと、瓦礫の山……。戦争でも大きな衝撃を受けたが、今回の津波、原発事故もそれと同じくらいの恐怖だったと、八牧さんは言う。

 

宮城県・笹谷峠で迎えた終戦

 

昭和20年(1945)8月15日。八牧さんが、敗戦を知ったのは宮城県の山奥、笹谷峠の村だった。満16歳。同齢の友は勤労奉仕に通学していたが、病弱な八牧さんは祖母と、仙台空襲に焼け出された幼い従弟たちと疎開して1カ月目だった。

 

裏の河原に行くと、夏の日は燦々と照り、川水はいつものように流れていた。

「アメリカ兵が占領に来れば、娘たちはいじめを受けるかもしれない」

八牧さんは怖くて死のうと思った。蝉の声が聞こえた。川のせせらぎの音も聞こえた。しかし、「死」――それは戦時中に感じた「死」とは違っていた。戦時の死はみな一緒であり、国難に殉ずるという意識があったが、今は戦いに敗れ、誰のためにもならない死ではないのか。そう思うと、涙がとめどなく流れた。

 

しかし、占領は順調に進み、死ななければならない事態は避けられた。しかし、それからの人生は怒涛の如き日々だった。今まで教えられたことはすべて偽りと知らされ、愕然とする。

「でも、いくらあの時代を否定されても、あの時代を信じ、懸命に生きて死んだ人を否定、非難することはできません」

 

特攻隊員との交流

 

八牧さんが育った町、原町(現・南相馬市)には戦時中、陸軍航空隊があった。昭和19年(1944)夏、戦況は悪化し、航空兵は次々と戦地に赴き、秋には特攻隊員として征った。

 

「海辺に立つと、長い藻のゆらぐ間に海に散っていった人々が、目をつむり横たわっている幻影が浮かぶのですよ」

太平洋の荒波は変化に富み、紺青の色が明るくしてくれる。その幻影は戦時下、南の島に“いのち”を散らし沈んでいる航空兵の面影だったのだろう。

航空兵との交流もあった。八牧さんは、航空兵との交流を綴った本を平成8年(1996)8月15日、出版した。『いのち―戦時下の一少女の日記』(白帝社)である。以下、その本を参照させていただく。

八牧さんは食糧不足の時でも航空兵にご馳走をつくり、もてなした。あるとき、彼らは夜を徹して踊り明かした。

♪郡上のなあ 八幡出てゆくときは ヤンレセ雨も降らぬに袖しぼる…

 

哀愁を込めた、この盆唄の歌詞(郡上節)にどんな悲話が秘められているかは分からない。一度、八牧さんはこの町(郡上)を訪ねて、聞いてみたいと思ったが、果たせなかった。「しかし」と八牧さんは語る。

 

「その歌は、太平洋戦争末期、原町の飛行場に来ていた多治見出身の航空兵が唄っていた盆唄です。しみじみと胸に染み、今も思い出されます」

すでに、そのころ日本は敗戦の色濃く、航空兵は皆、特攻隊要員として死を覚悟していた。「雨も降らぬに袖しぼる」――。彼らはふるさとを出て来た日、降らぬ雨に瞳を濡らしていたのだろう。

 

生命を賭けた若い航空兵たち

 

特攻――。再び還ることのできない出撃を前に、特攻隊員たちは真心のこもった手紙を書き残した。両親への感謝、幼い弟妹への気遣い、この国への思い……。隊員たちの無垢な思いがあふれていた。

次の句は昭和43年(1968)の作。

 

生く限り秘む文古び鳥雲に

 

八牧さんは原町飛行場で厳しい訓練に明け暮れていた若い航空兵たちと交流を深め、その時々のお手紙を桐の手箱に納めて箪笥に秘めていた。彼らは昭和19年(1944)秋、特攻隊員として戦地に馳せ参じた。ある人は満州へ、ある人はフィリピン沖へ。

どの人も自分たちが亡き後も新聞、映画に戦果を称えられて、いつまでも人々の胸に生き続けると信じて征った。「新聞を見ててくださいよ」と口々に言った言葉が、八牧さんの脳裏にありありと刻まれていた。彼らの、ある手紙。

「一切の情を排して、明日突入。長い間色々有難うございました。では元気で征って参ります」

彼らは凛々しく自分を誇り、国を愛し、わが命とひきかえに敵艦攻撃の使命に燃えていた。もちろん、迷いも哀歓もなかったわけではない。特攻隊員を見送りに行った時の、近所のおばさんとの会話。

 

「ねえ美喜ちゃん、あんなに男の人が涙を流しているの見た事なかった。顔に帽子をのせて飛行場の草の上に寝てたけど、帽子の下から涙が流れて流れてね。可愛そうだったよ」

比島へ発つ人を見送る15歳の少女(八牧さん)の悲しみと愛情が伝わってくる。

しかし、8・15。敗戦を迎えて世論は一変した。特攻隊員は異常な人間であるかのように言われ始めた。生命を賭けて日本を守ろうとしたのに、国民から罵られようとは……。なぜ、生命を賭けた行為が罪悪とまで言われなければならないのか。

 

満州で特攻命令を受けて、敗戦でかろうじて生き残った主人に頼んだ。

「この手紙は私が生涯、大事に持ち続けます。死んだら私の柩に納めて一緒に焼いてください」

そして、作った句が「生く限り……」である。

 

20歳前後で生命を終えた若者の記録を残してあげたい。残った書簡、日記、生存者の証言をまとめて鎮魂の書としたい――。

昭和46年(1971)8月15日。終戦から26年後、原町飛行場の見下ろす丘の上に、航空兵たちの魂の拠り所、慰霊碑が完成、除幕された。その慰霊碑建立から5年後に出た小冊子『秋燕日記』。

秋の燕が南に去るように昭和19年秋から比島へと次々と去っていった若者たちを惜しんでつけた題である。秋の燕は春には古巣に戻ってくる。しかし、南へ去った航空隊編隊はついに戻ってこなかった。

 

阿武隈の山霧にぬれ秋燕

 

この句は昭和51年(1976)9月の作。

「自らの使命に悔いはなかったとしても、別離の情は深かったに違いありません。多感な青年たちを思うと、本当に可愛そうで、可愛そうで……」

八牧さんは原町の航空隊戦死者の碑を守ることを生涯の仕事にしたいと語った。

 

 

                                 つづく 

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