「トランプ米大統領の関税国難来る!ー石破首相は伊藤博文元老の国難突破力を学べ①』―「日露戦争開戦と同時に伊藤博文はルーズベルト米大統領と「ハーバード大の同窓生・金子堅太郎(農商相)を米国に派遣、 ル大統領を味方につける大統領工作に成功した。世界外交史に輝くインテリジェンス外交』
2025/04/18
2025/04/08/「世界・日本リーダーパワー史」(1567)
石破首相は4月7日夜、トランプ大統領と電話会談。日本は世界最大の対米投資国で、追加関税を見直すよう訴えた。これに対し、トランプ大統領は「厳しくも公正な枠組みが設定されつつある」とソーシャルメディアに投稿した。
「石破氏は交渉のためにトップチームを派遣する。日本は貿易で米国を非常に不公平に扱ってきた。われわれの車は受け入れないのに、われわれは日本車を何百万台も受け入れている。農産物についても同様で他にも多々ある。すべてを変える必要があるが、特に中国に関してだ」と主張した。
ベッセント財務長官は日米首脳の電話会談を受けて、グリア通商代表部(USTR)代表とともに日本との交渉を開始するよう、トランプ大統領から指示されたと明らかにした。
ベッセント氏はその後、米国と関税交渉を求める約70カ国・地域の中で、日本は優先的なステータスを得る可能性が高いと指摘。日本は協議を早く開始することで優位に立つだろうと、FOXビジネスで述べた。
一方、石破首相は8日には米側との交渉を担う担当閣僚に腹心の赤沢亮正経済再生担当相を充てることを決めた。赤沢氏はベッセント米財務長官との協議で、関税措置の見直しを粘り強く働き掛ける方針だ。
林芳正官房長官は記者会見で、赤沢氏の起用は「所管分野の状況、本人の手腕や経験などを踏まえ首相が判断した」と説明。米側との交渉に関しては「あらゆる選択肢の中で何が最も効果的かを考えながら取り組む」と述べた。
『1904年(明治37)/2/4日、日露戦争を決定する御前会議が開催』★『明治天皇は苦悩のあまり、10日ほど前から食事の量が三分の一に減り、眠れぬ日が続いた』★『万一わが軍に利あらざれば、畏れながら陛下におかれましても、重大なるご覚悟が必要のときです。このままロシアの侵圧を許せば、わが国の存立も重大な危機に陥る(伊藤博文奏上)』
『オンライン講座/日本興亡史の研究 ⑭ 』
前坂俊之(ジャーナリスト)
開戦時期決定に関する陸軍統帥部の努力
日露両国の交渉は、根本的な主張の食い違いがあり、平和解決の望みは少なく、36年12月末に至っても解決出来なかった。
この間、参謀本部は政戦両面で速かに開戦を決行する方針だったが、政府当局の真意は国論の統一と戦争準備がまだ整っていないことと、日露交渉に尚一抹の希望をつないでいたため、時期尚早として参謀本部の方針を受け入れなかった。
両国の交渉はロシア側が遅延をかさねて、回答せず37年1月12日、参謀本部の戦争準備をすでに完成し、海軍当局も1月20日を以って戦備を完了すべきと通告して来た。
1月中旬、某新聞記者が児玉次長に『戦争開始時期』を質問してきた。児玉次長は直ちに二本の指を上げて答えたので、記者は一月二十日だろうと解釈してこの間答を翌日新聞紙の漫語欄に掲載した。次長の答えは、海軍の戦争準備が19日に完成することにより、陸軍の動員下令は翌20日のつもりであった。
この危機における一日の遷延は、わが国の千歳の不利あると同時にロシアに大きな利益をもたらす。ところが、海軍は19日になって準備がいまだ成っていないといい、1月25日に延ばすといい、さらには1月中を要すとまで前言を翻し、開戦の期日を何度も先延ばした。
19日、参謀本部の食堂は憤慨に満ち満ちた。某参謀本部員の1人が『明20日の回向院の大相撲(春興行)の総見を見に行こう』と提案して、全員で同意、児玉次長以下の部員一同で大相撲の参謀本部総見を行ったの。これはロシアに対して,戦意がないこと示すカムフラージュと同時に、海軍に対する不満の表明でもあった。
この大相撲の最後取組には常陸山と荒岩との一戦があった。小柄の荒岩が大兵の常陸山を放り投げ、見物席から大喝采が上がり、しばらく止まなかった。参謀本部の面々から見ると、小男の日本が大男のロシアを倒した縁起のいい吉兆とうつり、帰途、部員は居酒屋に立寄り痛飲を重ねて深夜に及んだ。
陸軍省の部員がこれを聞き、同じく翌21日に大相撲総見を計画するものがあったが、寺内陸相より「この時局多難の際に、相撲見物とは何事ぞ!」と一喝され、参謀本部の前日の行動批判にまで及んだ。児玉と寺内の肝ッ玉、器量の違いがここに表れている。
「和戦決定の責任は政略(政治家)の任にして軍部(軍人)の任にあらず」とドイツの戦略家・フルーメはいう。
これは「戦争は政治の一手段なり」とのクラウゼビッツの戦略論の本質だが、平和か戦争かの決定は軍事上の判断を重要視するべからずを忘れた思考である。
日本政府が1月13日、ロシア政府に再考を促して以来、1月末に至ってもなお回答はこず、回答すべき時期をも明示しなかったが、その一方で、ロシアの極東での兵員動員は着々と進められ、一日を猶予を許さぬものがあった。
参謀本部の諜報によると「ロシア参謀本部長及び陸軍大臣は作戦計画を立案し上奏裁可を得、又,皇帝は極東総督に全権を委し、同総督は戦争を決心したものの、黒海にある増加艦隊の来港を待ち、シベリア第三軍団の編成が終り、旅順の船渠竣工するまで戦争開始を遷延する意図がある」。
このため大山総長は、開戦を遅延することはいたずらに敵の術中に陥ることになると、2月1日、ロシア軍に関する情況判断を上奏し、内閣に通報し、『今や一に戦略上の利害に基き、わが行動を決定して速かに先制の利を獲得すべきこと』を主張した。
ついに賽(さい)は投げられた。
明治37(1904)年2月4日、日露開戦を決定する御前会議が開かれた。その日、空が白みはじめたころ、明治天皇は、最も信頼していた枢密院議長・伊藤博文に、急遽参内を命じた。
明治天皇は、白羽二重の寝衣のままで、普段、誰も入室を許されない私室「常の御殿」で、憔悴し切った表情で伊藤を待ちかねていた。天皇は苦悩のあまり、10日ほど前から食事の量が三分の一に減り、眠れぬ日が続いていた。この日も終夜眠れず、夜の明けるのを待ちかねてのお召しだった。
駆けつけた伊藤に、「……本日重大事について、元老会議があるが、あらかじめ卿の意見を聞いておきたい」との御下問があった。御前に平伏した伊藤は、「国難がいよいよ切迫してまいりました。万一わが軍に利あらざれば、畏れながら陛下におかれましても、重大なるご覚悟が必要のときがくるやにしれませぬ。このままロシアの外力の侵圧を許せば、わが国の存立も、また重大なる危機に陥ります。
幸いにわが忠誠な国民が十年間、臥薪嘗胆してきた成果を十分に発揮するならば、決して恐れるに足りません。今日はもはや断固たる御覚悟をなさるべき時機と考えます」と奉答した。
2月4日午後1時40分から開かれた御前会議は夕刻まで続き、ついに開戦が決定した。
明治天皇の御決断の瞬間は、森厳、凄烈空気が会場を圧した。しばらくの聞、沈黙が続いたが、伊藤博文が、「これから尻ばしょりで、ほっかぶりをし、握り飯をもって、数十年前の書生に返ったつもりで、御奉公するつもりでございます」と、おどけたしぐさで言うと、天皇ほか、山県有朋、桂太郎、山本権兵衛、小村寿太郎児玉源太郎、大山巌といった会議の面々は大笑いして、場の雰囲気は一気になごんだ。
会議終了後、奥に入った天皇はしばらく無言なままだったが、お側の者に、「いよいよロシアと国交を断絶することになった。不本意であるが、やむを得ない」とポッリともらした。明治天皇はこの日、何も食べずに過ごした。
以上は前坂俊之『明治37年のインテリジェンス戦争』(祥伝社 49-50P)
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