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日本風狂人伝⑧文壇の大御所を生んだ盗まれたマント

   

日本風狂人伝⑧
            2009,6,24
 
菊池寛・文壇の大御所を生んだ盗まれたマント
 
                                          前坂 俊之
 
(きくち・かん / 一八八八~一九四八)作家。第三次「新思潮」の時代に『父帰る』などを発表。『無名作家の日記』『恩讐の彼方に』や新聞小説『藤十郎の恋』で作家の地位を確立。この間、大正十二年に『文藝春秋』を創刊、文壇の大御所となる。
 
 出版社『文藝春秋社』を創設した菊池寛は、苦学して23歳で一高(現・東大)に入った。暗い青春を過ごした、陰鬱な顔つきから、たちまち〝憂鬱なる豚″という哲学的なニックネームをつけられた。
 
 また、ほとんどしゃべらなかったことから、「あいつはきくちかんではなく、くちきかん」とヤユされた。
 卒業後、明治期には「日本一の新聞」とうたわれた「時事新報」の記者となったが、この時は〝へそ″というニックネームをつけられた。
 菊池は無頓着で無精だった。顔も洗わず風呂も入らない。顔を洗う時でさえ、水道の蛇口の下に顔をもっていき、直接水をかけて、手ぬぐいを使わず、自然に乾くのを待っていた。
 
 食べたものを吐くのも、菊池の得意技の一つだった。
「なぜそんなに汚いことをするのか-」と聞かれると、
「だって、うまいのはノド三寸だろう。それ以上、何も消化力以上のものを胃に負担させて、病気の原因を後生大事にしまいこむことはないじゃないか」
 
 学生時代の菊池は、とにかく貧乏で、ないないづくし。マントも制服も靴もなく、友人のを借りて何とか間に合わせていた。一高の体育の時間に靴を借りようとしたが、借りられず、素足にスミを黒々と塗って、ハダシで運動場に出た。体操の先生はそれをみつけて「さあ、みんな靴を脱いでランニングをやるんだ」と号令をかけた。一斉に靴を脱いだが、菊池はどうしようもなく、モジモジしていると、
「菊池、なぜ靴を脱がんか」と先生がからかった。
「あのう、僕、心臓が悪いんです。ランニングできないんです」
 とシドロモドロで答えると、先生も生徒も大笑い。
 
 作家、菊池寛を生んだのは〝盗まれたマント″だった。
 菊池は一九一〇(明治四三)年九月に一高一部乙類(英文科)に入学、同級には芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、山本有三らがいた。当時の一高は全寮制で、全員が寄宿舎生活をしていたが、同級生にはのちに共産党の指導者となり、転向した佐野学がいた。
 佐野はどこか病的なところのある秀才で、菊池はその才気に庄倒され、尊敬していた。
 佐野が倉田百三の妹とデートに行く時、友人のマントを無断で持ち出し、さらに一文なしになった佐野は菊池に命じて、マントを質入れさせ、三円を借りた。
 ところが、友人が盗難届を出したため、質入れした菊池が嫌疑を受け、寮監督に調べを受けた。佐野が無断で持ち出したもので、犯人は佐野であったが、菊池は佐野をかばって「自分がやった」と申し出て、退学になった。菊池は京大英文科に転校してから、図書館に通いつめ、東京にいた頃の二、三倍の本を読破して、作家修行の基礎を作った。
 
 菊池が退学になった時、友人の父親である十五銀行副頭取の成瀬成恭がその境遇にいたく同情し、わが家に引き取り、学資も援助した。
 菊池が顔も洗わず、歯も磨かず、風呂も入らず、万年床、と聞いて肝をつぶした成瀬夫人は、引き取るに当たって三つの条件を出した。
1.朝起きたら、自分で床を上げること
  2.顔を洗うこと
  3.毎晩、風呂に入ること
 菊池は承諾したが、女中に「菊池さん、お風呂ですよ」と呼ばれて、入ったと思うと、もう出ており、まったくのカラスの行水であった。
 
 菊池は貧乏で本が買えなかったため、読んだ本はできるだけ暗記した。記憶力は人並み以上に優れていた。
 菊池は卒業後、「時事新報」の記者をしていたが、原稿が早く、締め切り時間に原稿が少ないと、菊池に頼めば何とかなる、と評判になった。
 ある時、政変があり、元老の松方正義が伊香保から上京する際、菊池が汽車に箱乗りしてインタビューした。松方は児島高徳の詩に託して、自らの心境を述べた。菊池はあまりメモをとらないタイプだが、この時は着ていた固いワイシャツに、エンピツで詩をメモした。
 翌日、松方の執事から、時事新報編集局長に電話があり「昨日の記者は誰か」と聞いてきた。松方は「児島高徳の詩を、あれだけ二言二句、正確に書けるとは、大した博学だ」と絶賛した。
 
「時事新報」の記者をしていた頃の話。親友の芥川龍之介、久米正雄と三人で湯島天神に行った際、易者に手相をみてもらった。占いなどバカにしていた芥川は断り、菊池と久米の二人がみてもらった。
 菊池の手相は「三〇歳をこえて成功し、人々の上に立ち、金銭にも恵まれる」と占い師は断言した。これには菊池本人もビックリ、三人とも「バカバカしい、そんなことはあり得ない」と笑った。
 当時、芥川は『羅生門』『鼻』を発表して文壇にデビューし、久米も『父の死』『梨の花』などで注目され、新人作家として脚光を浴びていた。
 菊池は二人に大きく水をあけられ、作家になる自信がなく仕方なく「時事新報」の記者をしていたのである。
 
 ところが、一〇年後にはこの易者の予言通り、菊池は『恩讐の彼方に』で作家の地位を固め、『父帰る』で劇作家として大成功をおさめた。
一九二三(大正二一)年には「文藝春秋」を創刊して、文壇の大御所となった。
 手相見を笑った久米はあとになって「あの占いは大当たりだったな」と感心したが、それ以上に驚いたのは菊池だった。
 
 菊池は自身のずんぐりむっくりした醜男ぶりに、コンプレックスを持っていた。トルストイの自伝を読み、トルストイが醜い顔にコンプレックスを持っていたことを知って、いっそう親近感を覚えた。
 菊池は文学をやり抜くためには、金持ちの娘か、職業婦人と結婚して、衣食住や生活を安定させる以外にないと思い、郷里に手紙を出して、そのような嫁を探してくれと頼んだ。
 
 郷里では秀才の誉れ高く、文士として菊池の名前が通っており、大勢の候補者の中から奥村包子を選んだ。見合いもせず、写真をみただけで結婚することになったのだが、もし見合いをすると、自分をいやがりはしないか、と心配するほど、菊池は容貌に自信がなかった。
 時に、菊池は三〇歳、大正六年のこと。
 
一九三六(昭和十一)年夏のこと、山本有三のところに菊池がブラッと遊びにきた。菊池は「明日までに小説を書かなければならないんだが、書くものがなくて困っている」と打ちあけた。
 山本がちょうど読んでいた古典の中の話を紹介すると、菊池が興味を示し題名を聞いた。「『沙石集』だよ」と山本が答えると、菊池はその本を借りていき、翌日再びあらわれて「書いたよ」と告げ、その本を返した。
 山本が雑誌に出たものを読んでみると、より複雑なストーリーに仕立て上げ、見事にまとめていた。山本は菊池の筆の速さとうまさに感心した。
 
 ある時、芥川龍之介がエロ画を手に入れ、得意になって菊池にみせ「値段を当てろ」と言った。菊池がわからないと答えると、一五〇円だと、悦に入っていた。
 菊池は今東光にこうもらした。
「芥川もバカだよ。あんなものに一五〇円も出すくらいなら、ほんものの女を一五〇円で買ったほうがいいよ」
 
 菊池は文壇の大御所となり、次々に女に手を出した。女好きがいっこうにやまなかった昭和五年五月、新たなスキャンダルが起きた。
 広津和郎が「婦人公論」に小説『女給』を連載しはじめた。新聞広告は派手に「文壇の大御所、モデルとして登場!」と宣伝した。
 内容は菊池と女給・杉田キクエの関係を小説にしたものだった。
腹を立てた菊池は中央公論社の社長・嶋中雄作あてに抗議文を送りつけ「僕の見た彼女」と題して釈明文の掲載を依頼した。ところが、婦人公論は題名を勝手に「僕と小夜子との関係」にかえて掲載した。
 カンカンに怒った菊池は中公へ乗り込み、婦人公論編集長にかみついた。
「なぜ勝手に題名をかえた」
「そのほうが話としては、効果的だと思って」
「無礼ではないか、執筆者に無断で」
 とエスカレート、編集長をポカポカ殴り、新聞の社会面にデカデカと載った。中央公論社は菊池を暴行罪で告訴、菊池も名誉棄損で訴える、という騒ぎに発展した。
 

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