前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

知的巨人の百歳学(149)-失明を克服し世界一の『大漢和辞典』(全13巻)編纂に生涯を尽くした漢学者/諸橋徹次(99歳)

      2019/03/31

『大漢和辞典』(全13巻)編纂に生涯を尽くした諸橋徹次(99歳)

諸橋轍次(もろはしてつじ)は、わが国を代表する世界的漢学者である。最晩年に至るまで書斎を離れることなく、学問一筋に生き、その名を不朽にとどめた。晩年の号は「侠我以老人」(いつがいろうじん・天の神は、自分をのんびりさせるために老境をもたらす、の意)。

「大漢和辞典」は字数五十二万余語を収め漢字辞典としては中国の「康煕字典」(こうきじてん)」、「侃文韻府」を上回り、国語、英語で字数を上回るのはわずかに米国の「新ウェブスター」(五十五万語)のみであった。

諸橋が大修館書店から『大漢和辞典』編纂の依頼を受けたのが一九二五(大正十四)年。完成には実に十八年にわたる長い歳月を要して、初版第一巻が発行されたのは一九四三(昭和18)年で、諸橋はすでに還暦(六十歳)のなっていた。ところが、第二巻を印刷中の昭和二〇年三月、米軍のB29 の東京大空襲により、印刷用の版すべてが灰燼に帰してしまった。

同年十月、諸橋は東京高等師範・東京文理科大学を退官。時に六十三歳。しかし、手塩にかけた門弟の戦死や自身の右目の失明、空襲による『大漢和辞典』の校正刷りの焼失など次々と不幸に襲われ、気の萎えた諸橋は「わが天命なり」と慨嘆し、あきらめかけていた。

諸橋自身、「左眼もほとんど文字が見えない状態に陥った。心はあせっても整理は遅々として進まない」(初版第一巻刊刊行時の序文)と『大漢和辞典』の持続は不可能と思われた。

そんな失意の底で、山梨県にある都留文科短期大学の初代学長に就任してほしいとのの懇請があった。諸橋は一時は固辞したが、承諾。同大の建学精神を『詩経』小雅の「菁菁者莪」の詩に基づいて、「菁菁(せいが)育才」と決めた。「莪」は、和名「つのよもぎ」という植物、「菁菁」は青々と同じで、植物が勢い良いく生い茂る様子を形容した言葉であり、「菁莪育才」の四字には、「つのよもぎが勢いよく成長するように学生が成長して欲しい」との願いを込めた。人材を教育することを楽しみ、高い識見と広い視野に立つ教育者および有為な社会人の育成を教育を建学の理念としたのである。

これと並行し、諸橋はライフワークの『大漢和辞典』の完成に向けてわずかに残っていた薄くて、目に見えないような校正版を元に執念で再編集に着手、弟子に漢字のつくり、へんを読ませて校正を続けて何とか完成にこぎつけた。

一九五五(昭和30)十一月に第一巻を出し、以後、三~六カ月に一冊の割合で予定どおり発刊、六五年五月に『索引』が完成して『大漢和辞典』(全十三巻)がついに完結した。このとき、諸橋はすでに七十二歳になっていたが、その後も修訂作業を続け、百歳近くになって、『大漢和辞典』の修訂版を刊行した。そのときに語ったのが次の言葉である。

  • 「学問の大道を歩む限り、読むべきものを読み、学ぶべきものを学んでから、本格的な研究に入らなければならぬ。漢文学ではそれがもっとも大切である」と

諸橋の座右の銘は「行不由径」(行くに径(こみち)由らず/急がず、あわてず公明正大な大道を闊歩せよ)[との意。『大漢和辞典』という息の長い超大作を見事に完成させた根底には、「行くに径に由らず」、すなわち一歩一歩、着実に公明正大な大道を歩む信念があったからだろう。

一九六四年(昭和39)三月、八十二歳の春、第一回卒業生を見送ると、惜しまれながら同大学も退任した。翌年、『大漢和辞典』(全十三巻)の完成によって文化勲章を受章した。

この世界的な大学者は日常生活はまるでダメで、ガスや電気の栓一つつけられなかった、という。記憶力抜群と思いきや、全く逆で〝物忘れの天才〟だった。

諸橋は研究の合間に散歩をするのが趣味だったがある時、散歩に行く途中でたまたま顔見知りの人に会った。ニコニコしてあいさつするので、こちらも答えた。その人は一緒に歩きながら、さかんに時候のあいさつや世間話をする。諸橋は何者か思い出せない。相づちを打ちながら、とうとう家の前まで来て、言わないでもいいのに「ここで失礼しますが、お宅はどちらでしたか」とたずねると、「私はお隣りですよ」とその人はゲラゲラ笑い出した。

下駄、帽子、ネクタイ、羽織まで間違えて、人のものを持ち帰ることはしばしば。先輩教授宅に届けものを持参して、降りの家に誤って持っていったり、嘉納治五郎を訪れた時、用件をすませて表に出るとどうも頭が寒い。帽子を忘れた。とって返すと、先生はまだ玄関におり「どうした」「イヤ、帽子を忘れまして」と言うと、先生は笑いながら「君、手に持っているじゃないか」などの思わず吹き出しそうなエピソードを残している。

  • 生まれ故郷に一千万円を寄付

1968年(昭和43)、諸橋は、生まれ故郷の新潟県下田村に蔵書3000余冊と百万円を寄贈。また昭和49年、九十二歳を迎えた諸橋は、村のために使ってほしいと一千万円の浄財を寄せた。村では「諸橋奨学基金」を創設し、その運用益から毎年、十数名の高校生に奨学金を給付した。

1982年(同57)六月四日、諸橋の百歳の誕生日を祝って、下田村の皆川村長がお祝いに参上した折、諸橋はベッドから起き上がり、弱々しかったが、はっきりした口調で、「下田は年々発展している由、まことにうれしい。もう一度、行きたいと思うのだが・・。夢に出て来るのは、今も古里のことだけだ」と語った。

そして、臨終間近の諸橋は、「私の心は、すでに古里の庭月にある。私の心からの願いは、両親と一緒に眠りたい。ただ、それだけだ」と家族にしっかりした口調で語ったという。諸橋は同年十二月八日午前九時、家族に看取られながら永眠した。

 - 人物研究, 健康長寿, 現代史研究 , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本リーダーパワー史(951)-「ジャパンサッカー『新旧交代の大変身』★『パスは未来(前)へ出せ、過去(後)でも、現在(横)でもなく・』(ベンゲル監督)★『老兵死なず、ただ消え去るのみ、未来のために』(マッカーサー元帥)

日本リーダーパワー史(951) ジャパンサッカー大変身―「「パスは未来(前)へ出 …

『オンライン/ベンチャービジネス講座』★『日本一の戦略的経営者・出光佐三(95歳)の長寿逆転突破力、独創突破力はスゴイよ②』★『眼が悪かった佐三は大学時代にも、読書はあまりしなかった。「その代わり、おれは思索するんだ」「本はよく買ってきては<積読(つんどく)>そして<放っ読(ほっとく)」だよと大笑いしていた』

  出光佐三は1885年(明治18)8月、福岡県宗像郡赤間町(現・宗像 …

no image
速報(476)【日本一よくわかる動画授業40分】 『少子超高齢化社会の年金・医療・介護の現実と未来』(宮武剛教授)」

 速報(476)   ●【日本一よくわかる動画授業40分】 …

no image
日本メルトダウン(1003)―『トランプ「IT会談」全詳細/官邸ホットラインはティール主導で』●『「世界で最も影響力のある人物」ランキング プーチン大統領が4年連続の首位』★『世界のIT長者 日本からZOZO前澤社長が資産2,600億円で初ランクイン』●『東京23区「平均年収ランキング」圧倒的1位は902万円の……』●『東京23区「平均年収ランキング」圧倒的1位は902万円の』★『「英語力ランキング」日本30位で韓国下回る 政府の教育支出が低すぎ?』●『「世界人材調査」日本は61カ国中26位(語学力ワースト2位)、韓国総合31位、中国40位』

     日本メルトダウン(1003) トランプ「IT会談」全詳細 官邸ホットラ …

no image
日本史の復習問題/『明治維新最大の改革・廃藩置県を一言で了承、断固 実行した 西郷隆盛の超リーダーシップ③』『 西郷の大決心を以て事に当たったからこそ、廃藩置県の一大事を断固として乗り切ることができた。西郷こそは民主主義者である』(福沢諭吉)

2016年11月3日 /日本リーダーパワー史(249)   山口藩知事 …

no image
世界/日本リーダーパワー史(893)米朝会談前に米国大波乱、トランプ乱心でティラーソン国務長官、マクマスター大統領補佐官らを「お前はクビだ」と解任、そしてベテラン外交官はだれもいなくなった!

 世界/日本リーダーパワー史(893)   「アメリカは民主主義国でル …

no image
日本最高の弁護士は誰だ!ー冤罪と人権擁護の戦いに生涯をかけた正義の弁護士・正木ひろしだよ

                                     &nb …

no image
世界/日本リーダーパワー史(894 )ー『米朝会談前に米国大波乱、トランプの狂気、乱心で「お前はクビだ」を連発、国務省内の重要ポストは空っぽに、そしてベテラン外交官はだれもいなくなった。やばいよ!②」

 世界/日本リーダーパワー史(894) トランプ政権の北朝鮮専門家、広報部長、ス …

no image
日本メルトダウン脱出法(882)『米、監視対象に日本初指定=為替介入をけん制』●『恐怖と怒り招いた日銀マイナス金利、4月会合打つ手なし-早川元理事』●『広島宣言に「誤訳」を忍び込ませた外務省―英語では「非人間的」とは書かれていない(古森義久)』●『日本の「報道の自由」は香港や韓国より下なのかー国連を利用して「醜い日本人」を世界に売り込む活動家(池田信夫)』

 日本メルトダウン脱出法(882)   米、監視対象に日本初指定=為替介入をけん …

★(再録)日中関係がギグシャクしている今だからこそ、もう1度 振り返りたいー『中國革命/孫文を熱血支援した 日本人革命家たち①(1回→15回連載)犬養毅、宮崎滔天、平山周、頭山満、梅屋庄吉、秋山定輔ら

 (再録)日中関係ギグシャクしている今こそ、 振り返りたい『辛亥革命/孫文を熱血 …