『人物・歴史の謎よもやま話』(1)-「2・26事件のクーデターで1度は殺された鈴木貫太郎が終戦内閣首相で復活、日本を土壇場で救った昭和の奇跡」★『夫人の一喝!でとどめを刺さなかった安藤輝三大尉』
「2・26事件のテロで1度死んだ鈴木貫太郎が終戦内閣首相
で日本を土壇場で救った奇跡の物語」
昭和十一年(一九三六) に起きた二・二六事件で鈴木貫太郎侍従長官邸は反乱軍兵士たちの襲撃を受けた。兵士たちは、「理由は何だ」と聞く鈴木の胸や心臓付近、頚などに四発の銃弾を浴びせた。
「とどめを……」と兵士の一人が叫び拳銃の銃口を頚部に押しあてたが、「それだけはやめて下さい」と側にいた夫人が必死で懇願し制止した。
指揮していた安藤輝三大尉は生き返るまいと思ったのか中止を指示し、血だらけで横たわる仮屍の鈴木に全員敬礼して引き上げた。
かけつけた医師がすべって転ぶほど部屋は血の海になり、鈴木の心臓も脈も一時的に止まってしまったが、奇跡的に一命だけは取り留めた。夫人の一言で九死に一生を得たのだが、もしこの時、鈴木が亡くなっておれば、昭和史は決定的に違ったものになっていたであろう。
それから九年後。この一度死んだ鈴木が大日本帝国の存亡をかけた土壇場に登場する。一億の日本民族の運命をかけた最後の瞬間をどう処理するか。
「戦争継続の玉砕か、終戦か」。
昭和二十年四月、戦時終戦内閣の総理大臣の大役が回ってきた。昭和天皇から「耳が聞こえなくてもよい。政治に経験がなくてもよいから、ぜひ引き受けてもらいたい」とさとされて鈴木は七十九歳の老齢でこの大任を背負うことになった。
この時期、和平や終戦は一切タブーであり、鈴木は和平を深く胸中に秘めて、態度には微塵も出さず「国民よ行け、わが屍を越えて」と訴え、全軍を収めることに全精力を集中した。
終戦の聖断を天皇が下すのに鈴木の決断力が大きかった。御前会議で天皇の終戦の聖断を引き出したのは天皇と鈴木の信頼関係によるものでだった。
ボツダム宣言受諾の通告は八月十四日午後十一時に連合国に発せられた。十五日正午に天皇の玉音放送による終戦の大詔が出され、内閣は総辞職した。
千葉県の関宿の田園に閑居する
大役を終え鈴木が帰宅した十五日午前四時ごろ、小石川丸山の私邸は兵士ら約百人の暴徒に襲われた。機関銃が乱射され、私邸も焼き打ちにあった。車で裏道を通って逃げたため、暴徒とかち合うことなく危機一髪で難を逃れた。
裸一貫、無一文となった鈴木は悪化する治安の中で、暴徒のさらなる襲撃を避けるため住居を三カ月の間に七度も転々と変えた。
二十年十一月、鈴木の故郷の千葉県関宿で、同町民からの強い誘いをうけて帰京して、ここで生活を始めた。
そこに、外務大臣となった吉田茂が訪ねてきた。平沼棋一郎枢密院議長が戦犯として逮捕されたため、その後任にと要請されたのである。
枢密院は天皇の国務を審議するところであり、憲法改正を論議するのも同院の役目であった。 当時、GHQは天皇の戦争責任、天皇制の存廃を厳しく問う姿勢をみせており、皇室の危機に対して、鈴木は枢密院議長を引き受けた。
吉田はどういう政治姿勢をとったらいいかと、尋ねると、 鈴木は「鯉はまな板にのせられてもびくとももしない。負けっぶりをよくしてもらいたい」と吉田に注文をつけた。
鈴木は二十一年(1946)六月、天皇の身の上に異変がないことを確かめて枢密院議長を辞任した。以後、再び関宿で一切の公職を離れて、たか夫人とともに静かな余生に戻った。
天気のよい日にはモンペ姿に杖を持って、鈴木は田園をよく散歩していたが、日本で最高ポストについていた人とは思えぬ温厚な老人となっていた。
深刻な食料不足を何とか解消しようと付近の農民を集めて、知り合いの農業専門家を呼んで勉強会なども主催していた。
昭和二十三年になると、体力も落ちて散歩の回数もへり、気持ちのよい日は机に向かって「洗心」と揮毫して、訪ねて来る人にわけていた、という。
同年三月に入ると、先の短いことを悟ったのか、自分と夫人の戒名をいち早く作った。1948年(昭和23)4月17日、八十二歳で亡くなった。
関連記事
-
-
★「サーフィンの聖地・鎌倉稲村崎の2年前(2017年)サーフィン動画一挙再録』/『台風18号の波はどうか、胸くらいかな(9/15)』★★『稲村ヶ崎ビッグサーフィン/上級テクニック学習動画(20分ぶっちぎり)ー台風15号接近中の稲村ヶ崎海岸』
2017/09/19 …
-
-
片野勧の衝撃レポート(80)原発と国家―封印された核の真実⑬(1988~96) 「もんじゅ」は世界に誇れる知恵ではない(上) ■チェルノブイリ以降も日本は原発に依存
片野勧の衝撃レポート(80) 原発と国家―― 封印された核の真実⑬(1988~9 …
-
-
『60,70歳のための<笑う女性百寿者>の健康長寿名言集①』★『世界一の女性長寿者はフランス人のジャンヌ・カルマン(122歳)さん』★『その食事は野菜が嫌いで「赤ワイン」と「チョコレート」が大好き。この2つを生涯欠かさず食べ、1週間に1㎏近いチョコレートを食べていた。』
ジャンヌ・カルマン(1875年2月21日ー1997年8月4日、122歳) ところ …
-
-
日本リーダーパワー史(760)―『北朝鮮の金正男暗殺事件がまた起きた』● 『北朝鮮』(旧李朝)の歴史は血で血を洗う権力闘争、粛清の歴史である』★『 日清戦争勃発は親日派の「朝鮮独立党」首領の金玉均暗殺が発火点となった』
日本リーダーパワー史(760) 北朝鮮の金正男暗殺事件がまた起きた。 『北朝鮮 …
-
-
百歳学入門(55)作家・宇野千代(98歳)『生きて行く私』長寿10訓ー何歳になってもヨーイドン。ヨーイドン教の教祖なのよ。
百歳学入門(55) 作家・宇野千代(98歳)『生きて行く …
-
-
百歳学入門(98)「60、70 はなたれ小僧、はなたれ娘」<鎌倉アホ仙人「材木座海中温泉」入浴の巻 (8/16)
<百歳学入門(98)> 「60、70 はなたれ小僧、は …
-
-
『Z世代のための日本戦争学入門③』★『平和時に戦争反対を唱えるのはやさしい。戦争時に平和を唱えて戦った軍人はいるか」★『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳②」『海軍軍人になり、日本海海戦で活躍、「此一戦」の執筆が空前のベストセラーとなる』★『 日米戦争仮想記「次の一戦」で、匿名がバレて左遷』★『第一次世界大戦終了後の欧州視察へ、思想的大転換を遂げて軍備撤廃論者となる②』
2019/12/29 リーダーシップの日本近現代興亡史』(226)再編集 前坂 …
-
-
記事再録/『世界史の中の日露戦争』㉚『開戦1ゕ月前の『米ニューヨーク・タイムズ]』(1903(明治36)/12/31)の報道』-『朝鮮分割論』(日本はロシアに対する「緩衝地帯」として朝鮮を必要としている。半島全体が日露のいずれかの支配に帰さなければならない。分割は問題外だ)
2017/01/09 『世界史の中の日露戦争』㉚『開戦1ゕ月前の『米 …
