片野勧の衝撃レポート(80)原発と国家―封印された核の真実⑬(1988~96) 「もんじゅ」は世界に誇れる知恵ではない(上) ■チェルノブイリ以降も日本は原発に依存
片野勧の衝撃レポート(80)
原発と国家――
封印された核の真実⑬(1988~96)
「もんじゅ」は世界に誇れる知恵ではない(上)
■チェルノブイリ以降も日本は原発に依存
1986年のチェルノブイリ原発(現ウクライナ)事故以降、世界中が原発の凍結、廃炉、建設延期の動きをとる中で、日本ではせいぜい10年とはいえ、原子力への依存度を高めていく。
東海村の商業炉が稼働した1966年から90年代末まで、原発数は一直線の右肩上がりで増え続けた。2度の石油危機もバブル崩壊も関係なく、一直線。2000年代に入ると、原発のシェアは3割をキープした。
「原発なくしてエネルギーの安定供給なし」――
を貫き通してきたのは、なぜか。
現代の科学技術は巨大な産業と結びついて、自己増殖していく。原発も例外ではない。「原発のための原発」が作られていく。
その原動力は政界、官界、財界の「鉄のトライアングル」に学界、メディアを加えた五角形の「ペンタゴン」体制だった。そこに利権構造が生まれてきたのだ。そのために原子力は右肩上がりで突き進んできたのが日本の原子力政策。国策による計画経済の図式である。
では、誰が、この巨大なペンタゴン体制へのレールを敷いたのか。チェルノブイリ原発事故以降、世界にばら撒かれた放射能は大地や食べ物を汚染し、人々を悩まし続けているのに、なぜ、再稼働するのか。
チェルノブイリ級(レベル7)の事故が日本で起こった。
福島第1原発事故である。その「3・11」フクシマから5年余。いまだに故郷に戻れない人々が十数万人もいるというのに、なぜ、原発を輸出しようとするのか。
技術的にも経済的にも見通しが立たない「核燃料サイクル」を、なぜ進めようとするのか。福島第1原発事故を契機に広く注目されるようになった「核燃料サイクル」とは、原発の使用済みウラン燃料から、プルトニウムなどを取り出して再利用する一連の仕組みのことをいう。
いま、この瞬間もたまり続ける使用済み核燃料の処理について、なぜ、議論されないのか……。
玉ねぎの皮をむくように、ひとつひとつの疑問を剥がしていくと、最後に行きつくのが、権力というドロドロした岩盤のような欠片(かけら)だ。
原子力の平和利用と核兵器開発――。
日本では軍事の核と平和利用の核とをまったく別のものと考えるのが一般的だ。しかし、それはコインの裏表のように、背中合わせの関係にある。
だから原子力は政治の風向き次第で平和利用にもなり、軍事転用にもなる。 日本にはウラン資源はほとんど存在しないし、地球の地殻中に存在しているウラン資源も貧弱である。
高速増殖炉が原子力推進派の思惑通りに建設できると資源量は60倍になると、彼らは言う。しかし、そうなったところで、せいぜい石炭に匹敵する程度。
そのために50年代前半から資源小国である日本は国策として位置づけ、多額の税金を投入して原発開発を進めてきたのである。
その実現を担ったのが動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現・日本原子力研究開発機構)である。
いわば、国の研究機関、特殊法人として、その費用の大半は国が負担してきた。優秀な技術者を集めた2千人を上回る職員を擁し、協力会社の人員は3千人以上。
国内の研究機関としては最大級の規模を誇る「マンモス国策企業」だ。
その動燃の使命として位置づけられてきたのが、発電と同時に、原発の燃料となるプルトニウムを生み出す高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)である。
しかし、世界を見渡してみると、高速技術開発の難しさや危険性、非経済性から実用化を断念している国は多い。
なのに、世界で唯一の被曝国・日本が高速増殖炉の実用化を目指すのは、なせなのか
。今、ウランが50年、持つと言われているのは、世界全体のエネルギー消費の中で、原子力が占めている割合が1割程度しかないためである。
もし、世界のエネルギーをウランだけで支えるなら、10年と持たない。また、仮に究極埋蔵量がすべて使え、高速増殖炉が完璧に実現して資源量が60倍になったところで、せいぜい1000年である。
日本はエネルギー資源がないので原子力を安全に利用していくというのが、当時からの政府の主張だった。しかし、世界の眼は違う。「日本はプルトニウムを溜め込んで、いったい何に使うつもりなのか。
まさか核兵器を?」と疑惑を持たれたのである。しかし、案の定、高速増殖炉「もんじゅ」は技術的つまずきをきっかけに隘賂に入っていく。
1985年10月の建設工事着工から約10年を経た95年8月、ようやく発電開始にこぎつけたものの、そのわずか4カ月後の12月8日、もんじゅはナトリウム漏れ事故を起こす。
それも世界最大級の事故。動燃や政府は「事故は絶対に起こらない」と言明し続けてきただけに、衝撃は大きかった。以来、もんじゅの運転再開のメドは立っていない。
■人形峠のウラン残土放置事件
20年以上も前に掘り出されたウラン鉱石の残土が、一般人が近寄れるところに放置されていた。しかも、国の基準を上回る放射線を出し続けていた――。こ
のショッキングな事件が発覚したのは1988年8月。(以下、今西憲之編『原子力ムラの陰謀』<朝日新聞出版>を参照させていただく)
舞台となったのは山陰地方と山陽地方を隔てるように横断する中国山地の奥地、岡山県と鳥取県の県境に位置する人形峠だ。1955年11月、国内で初めて原発の燃料となる天然ウランの鉱床が発見され、翌年10月から採掘がはじまった。
母体は動燃の前身である原子燃料公社。農家が多かった地元住民も、こぞってウラン鉱山で労働者として働いた。放射能の危険性が、まだ社会に浸透していなかった時代。人形峠は「日本一のウラン鉱床」として脚光を浴び、県外からも大勢の観光客が押し寄せた。しかし、ブームはほどなく終息に向かう。
それは採掘されたウランの品質が採算ベースに合わず、実用化には不向きであることが判明。鳥取県東郷町(現・湯梨浜町)方面(かたも)地区の採掘は1963年に終了。
また東郷鉱山の神倉鉱山は1967年を最後に採掘は終えたという。これで日本は国産ウランを事実上、放棄。現在、ウラン資源はオーストラリアやカナダ、アフリカ諸国などから100%輸入に頼っているのである。
しかし、閉山の町が再び、注目されたのがウラン残土だった。人形峠の鉱山跡地に、坑道を掘った際に掘り出された土(ウラン残土)が坑口近くに野積みされたまま、放置されていたのである。
残土の総量は、実に45万立方メートルにも達していた。うち約1万6千立方メートルを占めた方面地区では、閉山後、がんを発症したり、体調を崩す人が続出していた。
「原子力開発という国策に貢献したのに、後始末もしないのか」――方面地区の住民は憤り、動燃に全面撤去を求めた。
これに対して、動燃側は「捨石から出ているのは自然の放射能で害はない」として危険性を認めず、現状のまま撤去しない方針を打ち出した。動燃はウラン残土を「捨石」と呼び、なんとか地区内に置いたまま処分したことにしてごまかすつもりだったらしい。
一方、方面地区の住民は強力な反対運動を展開した。動燃は反対運動をしている彼らに狙いを定めて「工作」を企てた。区長や有力者を隣町の温泉に招き、飲ませ食わせの接待漬け。時には「1千万円出すから、もう黙っていてくれ」と言われた人も。
そればかりではない。国が出資する特殊法人で、その職員は公務員に準ずる立場であるはず。しかし、動燃は地元住民の「思想・行動」を徹底的に調べ上げていたのである。
とりわけ、反対派住民に対する記述は詳しく、入念に書かれていた。これが、いわゆる「西村ファイル」と呼ばれるもので、「思想・素性調査」リストである。
たとえば、反対運動の中心であるEさんに対する「工作方法」は「本人を孤立させ相手にしないことが効果的」などと書かれていた。いわば“村八分”作戦といってもいい。
動燃の調査は、世帯主だけでなく、その家族関係にまで及んでいた。家族の勤務先や家庭事情まで徹底的に洗われていたのだ。
はぐらかし、ごまかし、隠ぺい、思想工作……。こうした動燃の姑息な手段を住民は信頼するはずもなく、問題はますますエスカレートしていった。
■今、人形峠で何が起こっているのか
私は、原子力工学の専門家で、この方面地区の残土問題に深くかかわっていた人に会うために、朝9時に立川市の自宅を車で出発し、松本に向かった。その人は約束の時間きっかりに待っていた。
2016年5月2日午後1時――。京都大学原子炉実験所に勤めていた小出裕章さん(67)は、41年間勤めた同実験所を昨年3月、定年退官。それを機に信州へ移住してきたという。
「やあ、いらっしゃい。遠いところ、よくお出で下さいました」。やさしい口調と気さくな物腰――。権力を相手に原子力発電所をなくす闘いを続ける「こわもて像」をイメージしていた不明に恥じ入った。
小出さんは一貫して住民側の立場に立ち、原子力の危険性を訴え続けている原子力研究者である。しかし、もともとは地質学者になりたかったという。「核の平和利用」のキャンペーンに呑み込まれ、1968年、原子力の平和利用に夢を抱いて東北大学工学部原子核工学科に入学。
しかし、いち早くその詐術と危険性に気づき、1970年、女川での反原発集会への参加を機に、原発を止めさせるために原子力の研究を続けることを決意。1974年、東北大学大学院工学研究科修士課程修了(原子核工学)。その後、京都大学原子炉実験所に勤務。
――人形峠のウラン残土の調査に通い続けられたそうですが……。小出さんはこうつぶやいた。 「1988年、ウラン残土が放置されていたことが発覚した後、それからしばらく通い続けました。その時、私はウランが破滅的な被害を及ぼすということを知りました。また、私は長年、原子力の危険性を訴え、原子力をなくすための研究を続けてきました。
その私にして、足元にウラン鉱石の残土の問題があることに気づき、自分の愚かさを痛感しました」
――今、人形峠で何が起こっているのですか。
「ウラン鉱石を掘り出して、金儲けになりそうなものは製錬所に持って行ってウランを取り出します。しかし、金儲けにならないものは捨石、私らは残土といっていますけれども、山や谷に投げ捨てていたのです。45万立方メートルの鉱山から掘り出された鉱石からウランの総量は約10年間操業して、たったの85トンでした」
90年、動燃は方面地区に対して、放射線量の高いウラン残土3千立方メートルの撤去を約束したものの、撤去先をめぐって周辺自治体と紛糾した。小出さんは言う。
「動燃は人形峠事業所の敷地内に持ち込んで処理することを計画しましたが、事業所のある岡山県は県議会でも取り上げ、『鳥取県のものは地元で処理してほしい』と、『核のゴミ』の持ち込みを許可しなかったのです」
動燃が人形峠周辺で坑口を掘った箇所は賃貸契約だったが、その契約も解除され、民有地になった。「しかし……」。小出さんは当時を振り返った。 「動燃はもう一度、民有地を借りて、そこに柵を囲って自分たちで管理しようとしました。しかし、鳥取県側の方面地区の住民たちはイヤだと言って反発。放射能のゴミが捨てられていたことに我慢がならず、賃貸契約も結ばない。
『ともかく、帰ってくれ』というのが彼らの言い分でした」 自分たちの村は自分たちで守るのは、当たり前の要求だ。ウラン残土は長年、方面地区に放置されたまま、年月だけが過ぎた。
事態がようやく動いたのは99年、後に改革派知事として名を知られることになる片山善博氏(元・総務大臣、現・慶応大学教授)が鳥取県知事に就任してからのことだ。
「訴訟費用や手続きなどで全面的に支援する」――。片山氏は方面地区の住民たちに意見を聞いた後、住民側が動燃を相手どって訴訟を起こすことについて、異例の表明に踏み切ったのである。
■残土の撤去を命ずる――最高裁
政治のバックアップを受けた住民らは2000年、ウラン残土の撤去を求め、旧動燃を相手取り、鳥取地裁に提訴した。1、2審ともに住民側が勝訴。2004年、最高裁で残土の撤去を命じる判決が確定した。
動燃は住民の信頼を得ることなく、敗北したのである。
結局、放射線量の高い3千立方メートルのうち、よりひどい290立方メートルの残土は米国ユタ州の先住民居留地に移された。残りは2008年からレンガ加工し、2011年6月完了。その数約145万個を県外に運び出したのである。
現在、国内でウラン採掘は行われていない。従って、新たな残土問題は起こらないかもしれない。しかし、「核のゴミ」の問題は、今まさに我々が直面している喫緊の課題である。
ウラン残土の問題は決して“過去の話”ではない。原発が稼働する限り、大量の放射性廃棄物(小出さんは放射性廃物と呼んでいる)が発生する。日本の原発が、これまでに生み出した使用済み核燃料は1万4千トンと言われている。この放射性廃物の処分をどうするのか。
方面地区の住民が撤去を求め、旧動燃を相手に訴えを起こしてから26年経ったが、ウラン残土問題を解決できなかった「原子力ムラ」。ウラン残土をめぐる小出さんの証言。
――人形峠で、どういう調査をされたのですか?
「私の役割は地元から捨石を持ち帰って、それを詳細に科学的に分析すること。それも単なる捨石ではなく、放射性物質を含むものだと裏付けることでした。堆積場で測定できたのは方面地区だけ。あとは柵に囲われていましたから、住民にお願いして周辺の土砂を採取してもらいました」
――実際に測定した、その数値はどうでしてか? 「ウラン鉱石として放射線管理区域に指定しなければならないほどの数値でした。とりわけ、方面地区という集落は高い数値でしたが、野ざらしにされていました」
■今も続いているウラン残土問題
ウラン残土は合計45万立方メートル。方面地区にあった1万6千立方メートルのうち、3千立方メートルは撤去された。残りは野ざらしのまま。しかし、これでいいはずはないと小出さんは主張する。
「原発がなければ、ウランを掘る必要はなかったのです。もちろん、被曝もなかったはずです。今、日本のウランは100%、海外からの輸入です。ウラン238の半減期は約45億年。汚染は半永久的に続く。
ウランは最悪の放射性物質です。残土問題は今も続いています」 “核のゴミ”人形峠の調査を振り返って、小出さんはこう語った。
つづく
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