百歳学入門(152)元祖ス-ローライフの達人/「超俗の画家」熊谷守一(97歳)② ひどい窮乏生活の中で、3人のわが子を次々に失う。 しかし、病児を医者にかけるために絵を描き、 絵を売ることはできなかったのです。
2016/07/20
百歳学入門(152)
元祖ス-ローライフの達人・「超俗の画家」の熊谷守一(97歳)②
ひどい窮乏生活の中で、3人のわが子を次々に失った。
しかし、熊谷さんは病児を医者にかけるために絵を描き、
絵を売ることはとてもできなかったのです。
http://www.morikazu-museum-tsukechi.jp/biography/
村山 祐太郎 天童市名誉市民
http://www.city.tendo.yamagata.jp/tourism/kanko/murayama.html
村山祐太郎氏は、明治38年(1905年)、山形県天童町≪現、天童市)老野森の生まれ。 村山は東京京橋で自転車店で住込みで奉公し、大正12年(1922年)関東大地震発生の、2年後に小さな自転車店を開店し、事業家としてスタートした。
その後、鈴木金属工業株式会社を創設、日本では初めてとなるピアノ線の生産を始め、ピアノ線の国産化に成功,PC鋼線、ステンレス線など製品を生み出し産業人、経済人である。
絵が大好きで37歳のときに出会った熊谷守一画伯からは親しく指導を仰ぎ、画伯が亡くなるまで交友を深めて大きな影響を受けた。
平成2年9月、85歳で亡くなったが、天童市に熊谷守一画伯の作品24点の寄贈している。
その2人について書いた『天真のふたり・熊谷守一と村山祐太郎の世界-』田口 栄一著 星雲社発売、平成2年刊)という本がある。
村山さんからみた熊谷の実像がビビットにとらえられている。
------------------
『村山さんは、しばしば庭で写生中の熊谷さんの姿を見掛け、実に丹念にスケッチするのに目をみはった。
小さい池に鯉を飼っていて、毎日泳ぐ姿を観察しては克明に生態をとらえている。この池は、庭に防空壕を作ろうとして深く掘ったら、雨のあと水が湧いてきたもので、近くの石神井川で捕った小魚を入れて泳がせていたのが始まりだという。
また、庭にゴザを敷き、寝ころんで飽きずに蟻を観察し、蟻は左の二番目の足から動き出す、などということまで確かめていたというのである。
花でも鳥でも虫でも木でも水でも、もちろん人間や動物でも、実によく観察して、動いているのか、止まっているのか、どちらに行こうとしているのか、そのこまかい生態や心理まで、はっきりと描き出す。
写生のイロハを知らない村山さんも、その熱心さにはびっくりして、いつしか日々の苦労を忘れ、心の痛みも薄らぐ思いで見守っていた。
生涯を通じて、無欲さとか、童心のような純粋さとか、物や金に対する無関心さと言い、そうした話を聞くにつれ、神聖と言いたいくらいの思いであった』
『なにかの折に、村山さんは秀子夫人から昔話を聞いたことがある。「その頃、二科会におりましたが、会員の方にはお金にご不自由のない方が多うございましょう。
ですから主人は〝おれとは肌が合わぬ″とか申しまして、画壇の方々とのお付き合いはほとんどありませんでした。しいて言えば山下新太郎さん、有島生馬さんぐらいだったでしょうか。それもごくたまに会って語るくらいです」
見かねた二科会の画友たちが、二科の研究所の指導を委ねた。「研究所へ教えに行くようになってから、周囲の方々があんまりだとお思いになったのか、車代ということで月々三十円下さいました。そのお陰で家賃がやっと払えたのを覚えております』
『生まれた子らの体が弱く、ひどい窮乏生活の中で、昭和三年、次男陽さん(3歳)を、昭和七年、三女茜さん(1歳)を、戦後の昭和22年に長女高さん(22歳)を、次々に失ったのである。
生活の資を得る目的で絵を描けない熊谷さんは、また病児を医者にかけるために絵を描き、絵を売ることができなかった。それはあまりにも悲しいことだが、最も辛かったのは熊谷さん自身であったろう』
『昭和三年二月、次男陽さんが肺炎で急逝したとき、花に埋もれたわが子の遺体を夢中で描き続けた。能谷さんはそのときのことを多く語っていないので、本心はわからないが、悲嘆を紛らわすためにひたすら描くことに集中したのだと思う。
後に、「幼くして死んだあの子(陽さん)のことを考えると、四十年も過ぎた今になっても、胸のしめつけられる思いがします。このときは、まくら元で死んだ子供の顔を油でかきました」 (前出自伝) と語っている。
「しかも熊谷さんは、さらに二人の子供を亡くしている。三女で一番末の茜さんは、生まれて二十日日頃から熱を出しっ放しで一年半で肺炎で死に、長女高さんは、戦争中の学徒勤労動員で軍の工場で働いた過労がもとで胸を病み、三年ほど寝たきりで、昭和22年に22歳の若さで他界したのである。
「(高は)亡くなる少し前のある日、ちょっと起き上がったついでに、なにを思ったのか家にあった黒板のすみっこに、
ついと白墨で『南無阿弥陀仏』と書きました。この字はなんとなく消すに忍びず、今もそのままにしてあります」と自伝に記している」
能谷さんは過去のそうした出来事を、村山さんには多くを語らなかったが、自伝の中で次のようにふれている。
妻からは何べんも、「絵をかいて下さい」といわれました。たとえいいできでなくとも、作品さえできればなんとか金に代えられるというのです。
妻ばかりではない。まわりの人からもいろいろ責め立てられました。妻の姉なども、「熊谷さんは、あんなに子供をかわいがっているのに、どうして子供のために絵をかいて金をかせごうという気にならないのでしょう」といっていたそうです。
たしかに、それは言われる通りなのです。しかし、あのころはとても売る絵はかけなかったのです』
『戦中戦後の食糧難の時代も、食糧の買い出しなどはせず、「金がなくて食べるものが手に入らなければ、おなかを空かしていればよい」と構えていて、秀子夫人は「これでは皆んなが干乾しになってしまうわ」と嘆いていた。
これを見かねて、もともと歌人で画商をやっていた人が、絵と交換で米とかいろいろな品を届けたようである。村山さんもそれを聞くと黙ってはいられなかった。山形から米やみそ、しよう油などをかき集めて、こっそり届けたりした』
という2人の心からの交友は続いた。
関連記事
-
-
『オープン講座/金子堅太郎の人物評』★『山口愛川著「 波蘭立志-大臣」(内外出版協会 1928 年)より。
『山口愛川著「 波蘭立志-大臣」(内外出版協会 1928 年)より。金子堅 太郎 …
-
-
日本リーダーパワー史(792)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェンス』➉『朝鮮半島危機には児玉源太郎のインテリジェンスに学べ』★『クロパトキンの日本敵前視察には包み隠さず、一切合切すべてみせろ』と指示。
日本リーダーパワー史(792)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリーダ …
-
-
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変①』-『ドイツ、ロシア、フランス、イギリスらの中国侵略に民衆が立ち上がった義和団事件が勃発』★『連合軍の要請で出兵した日本軍が大活躍、北清事変勝利の原動力となった』
明治150年歴史の再検証 『世界史を変えた北清事変①』 義和団事件の発生 18 …
-
-
日本リーダーパワー史(441)★「勝利への秘策はあるか,2014年W杯 ブラジル大会をザッケローニ監督に聞く(12/16)」
日本リーダーパワー史(441) ◎「勝利への秘策はある …
-
-
★「本日は発売(2023年6月9日)「文芸春秋7月号」<100年の恋の物語のベストワンラブストーリーは・・>山本五十六提督の悲恋のラブレター』★『1941年12月8日、日米開戦、真珠湾攻撃の日、山本五十六が1日千秋の思いで待っていたのは愛人・河合千代子からのラブレターであった』
2010/06/30/日本リーダーパワー史(60) 真珠湾攻撃と山本五十六『提督 …
-
-
日本リーダーパワー史(270)歴代宰相で最も人気のある初代総理大臣・伊藤博文の人間性とエピソードについて
日本リーダーパワー史(270) 歴代宰 …
-
-
知的巨人の百歳学(103)-長崎原爆に被災地に「平和祈念塔」を創った彫刻家・北村西望(102歳)の『たゆまざる 歩み恐ろし カタツムリ』★『日々継続、毎日毎日積み重ねていくと、カタツムリのように1年、2年、10年、50年で巨大なものができる』
「わたしは天才ではないから、人より五倍も十倍もかかるのです」 「いい仕事をするに …
-
-
日本リーダーパワー史(454)「明治の国父・伊藤博文の国難突破のグローバル リーダーシップに安倍首相は学べ②」⑥
日本リーダーパワー史(454) …
- PREV
- 日中北朝鮮150年戦争史(12) 日清戦争の発端ー陸奥宗光の『蹇々録』で読む。日本最強の陸奥外交力⑤ 近代中国思想界の重鎮・梁啓超は『朝鮮亡国の原因は 李朝宮廷、政治、社会の三点にあり、朝鮮を滅ぼしたのほ朝鮮人自身である」と。「朝鮮の外交顧問・ドーハム・スティーブンス 暗殺事件〈1908年〉」
- NEXT
- チャイナ/メルトダウン(922)『南シナ海、中国の主張認めず=「九段線」に法的根拠なし-初の司法判断・仲裁裁判所』★『中國が一貫して日本軍国主義の暴走と非難してきた謀略の満州事変と国際連盟の反対を押し切った『満州国建国』と同じ失敗パターン!、習近平の『核心的利益政策』という名の独善的『共産党独裁帝国主義は国際的な孤立を招くだろう。