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片野勧の衝撃レポート(29)太平洋戦争とフクシマ② 悲劇はなぜ繰り返されるの★「ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」➋

   

  

 

 片野勧の衝撃レポート(29

 

太平洋戦争とフクシマ②

≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー

★「ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」➋

 

片野勧(ジャーナリスト)

 

 

北朝鮮の核実験が問うもの

 

星埜さんにインタビューした4日後の2013年2月12日。北朝鮮は3度目の核実験を強行した。テレビ映像は北朝鮮市民の喜ぶ姿を流していた。派手なパレードやマスゲームも核実験を祝っているかのようだった。しかし、派手なマスゲームの陰で痩せ衰えた手と乾いた口で偽りの喝采を送っている国民もいたに違いない。

私は星埜さんに北朝鮮の核実験について尋ねた。「コメントするに値しません」と言いながら、こう答えた。

「いかなる国、いかなる立場であろうと、核を作ること、持つことは絶対に許されません。しかし、北朝鮮に対しては理性的な対応をしていかなければなりません。日本は被爆国として核が人間に与える恐ろしさと核兵器廃絶をしっかり訴えるべきです」

なぜ、北朝鮮は核実験をしたのか。民衆の涙を尻目に、「金王朝」の体制を護持しようとしているのか。翻って日本も68年前、敗戦が決定的であったにもかかわらず、天皇制護持のために核開発を急いだのと重なる。

 

北朝鮮が核実験を行った翌13日午前(日本時間)、オバマ米大統領は一般教書演説で、北朝鮮の核実験について「この種の挑発は、さらなる孤立を招くだけだ」と述べた。

終戦直前の1945年8月、米国は日本に対して「爆撃によって100万人は死ぬだろう」と警告していた。しかし、日本の軍部はその警告を拒否し、戦争を継続した。その結果、広島・長崎に原爆が投下され、多くの庶民が皆殺しにされたのは、先に書いたとおりである。

北朝鮮は日本の轍を踏んではならないが、日本もかつては同じ道をたどったことを忘れてはならない。これが歴史の教訓である。                                                                                                 

北朝鮮は2003年、核不拡散条約(NTP)からの脱退を宣言し、今や核を手放すことはないだろう。米国も大量の核弾頭を保有し、日本も実質的に米国の傘に入っている。そのために米国が核から手を引かない限り、北朝鮮も手を引かない。

核拡散のリスクは高まっている。核燃料のためのウラン濃縮やプルトニウム抽出の施設は軍事目的に転用できるからだ。初めは核兵器を開発する意図がなくとも、原子力の技術を蓄積していくうちに、核兵器を持とうとするのが一般的な考えだ。1991年に朝鮮半島で非核化宣言が出された当時、誰が今日の北朝鮮の状況を予測できただろうか。

その意味では核軍縮と脱原発は無関係ではない。しかし、残念ながら、原子力開発を進める世界的な流れは変わっていない。福島事故の教訓を伝えていくことが、日本の責務であり、それが現実的選択肢であろう。

 

再稼働より福島が最優先のはず

 

現在、国内の稼働原発はゼロである。しかし、東電は経営再建の切り札として2013年9月下旬、柏崎刈羽原発6、7号機(新潟県)の再稼働を申請。脱原発の針を逆戻りさせた。一体、日本は福島第1原発事故で何を学んだのだろうか。

福島原発の汚染水漏れや単純ミスが続発したことから原子力規制委員会(田中俊一委員長)は再稼働審査を棚上げする姿勢を見せていた。ところが、2カ月後の同年11月、田中委員長は審査をあっさりと認めてしまった。完全な方針転換である。再稼働に前のめりの政府や経済界の圧力に屈したのだろう。もっとも、田中委員長は当初から、「原子力ムラの住民」とみられていた人物で、この豹変ぶりに驚くことはない。

私は星埜さんに、東電の再稼働について問うてみた。

「とんでもないことです。福島の後始末もできないのに、別の原発を運転する資格はないはずです」

今、東電に課せられた使命は、一刻も早く汚染水問題の収束と廃炉作業に道筋をつけることである。

 

9条は日本人の心の居場所

 

B4サイズの大きさの封筒が私のところへ送られてきた。2013年11月15日――。差出人は山崎健一さん(68)。現在、福島第1原発から25キロの南相馬市原町区から川崎市高津区に避難している人だ。封筒を開けると、小冊子「東日本大震災から2年8カ月――報告『被災地・南相馬市から避難して』」が入っていた。

封筒の表には2013年10月20日、80歳で亡くなったコラムニスト天野祐吉さんの顔写真と一緒に彼の軽妙洒脱、切れ味鋭い文章が添えられていた。

 

「よく『憲法が時代に合わなくなったから変えるべきだ』という人がいるけれど、憲法9条の考え方というのは時代に関係ない、時代を超越していると思っているんですよ」「僕にとっては、9条はある意味で自分の、日本人としてのアイデンティティみたいなもの。これが失われてしまったら、どこで日本人としての心の居場所を見つければいいんだろうかと思う」(雑誌『広告批評』)

山崎さんは「はらまち九条の会」の事務局長。今も避難先で会報誌『九条はらまち』を編集し、全国に散った会員約400人に送っている。その際、封筒の表紙の下の方に印刷された著名人の名言を添えて送るのだという。

たとえば、宮崎駿監督「憲法9条は守るべきです」。ドナルド・キーン(日本文学者)「どんなことがあっても戦争は避けるべきだ」。2012年、シリアで取材中、政府軍の銃撃により殺害されたジャーナリスト山本美香さん「紛争地の苦しみは日本ともつながっている」など。私に送られてきたのがコラムニスト天野祐吉さんの名言だったのである。

 

「3・11」その時、九州に旅行中だった

 

さっそく、私は山崎さんに会うために立川から南武線に乗った。2013年12月10日午前10時ちょっと過ぎ。JR武蔵溝ノ口駅にほど近いビル3階の喫茶店。

「大震災当日、妻と九州を旅行中で直接地震や津波、被曝に遭わなかったものですから、お話する資格もなく、また何の専門家でもありませんので……」と言いながら、静かに語り始めた。

 

「南相馬市にいた長女やその婿、兄弟、たくさんの教え子たちが被災しました。私は生まれも育ちも南相馬市で43年間、世界史・地理の高校教員でしたから、南相馬市などの窮状を少しでも伝えられればと思っています」

 

3・11。山崎さんは妻と九州一周ツアーに出かけ、熊本市付近で地震の連絡を受けた。この日は長崎市で1泊。翌12日夜、羽田空港にたどり着き、横浜市の息子宅へ。南相馬市に住んでいた長女は原発1号機が爆発し放射能を恐れて、自分の判断で12日深夜の11時、眠っている1歳1カ月の孫娘を車に乗せ、阿武隈山地を越えて60キロ西の二本松市の伯母宅に避難した。

 

さらに14日、長女と孫娘は新潟県長岡市の伯父の実家に避難。山崎さん夫妻も合流し、ここで4泊。18日、再び山崎さんらは横浜市の息子宅へ戻る。長野県松本市の友人からの避難の誘いで移動しようとしていた前日夜、一日違いで抽選で決まった「川崎市高津区の神奈川県の借り上げ住宅」に3月30日から山崎さんは妻、長女、孫娘の4人で入居。ここでの避難生活もまもなく3年になろうとしている。

長女の夫(婿)は南相馬市の消防士。地震直後の津波警告のため海岸線を巡回していたが、途中、「真っ黒い山のような」大津波をバックミラーで見ながら必死に逃げて九死に一生を得た。

その後も娘婿は高い放射線量の中、不完全でお粗末な装備のまま、不眠不休で被災者の救助や遺体の捜索活動に当たった。しかし、2011年8月の検査の結果、「体内被曝」していることが判明。それを知った時の山崎さんの証言。

「娘婿の数値は高くないとはいえ、本当に心配です。なぜ? 私は30年前、広島・長崎の被爆者を調査した時、大半の方が亡くなっていました。ほとんどの人がガンでした。放射線を浴びると後々まで影響することを知っていたからです」

山崎さんは社会科の高校教師をしていた1983年、教員仲間と福島県相馬双葉地区に住む広島・長崎の被爆者から聞き取り調査をした。その時の被曝の恐ろしさが脳裏に浮かんだのだろう。屋内退避区域内の南相馬市の自宅から離れて暮らすことに躊躇(ためら)いはなかったという。

「だって、1歳の孫娘のことを考えたら、逃げるしかありませんから」

山崎さんの穏やかな口調には、孫娘への尽きせぬ思いがにじんでいた。

 

時が止まったままの駐輪場

 

山崎さんは「九条の会」を通じて知り合った川崎の人たちと「被災体験や南相馬の現状」について話し、被災地見学会も5回開催した。3回目の2012年11月7日、「川崎市たかつ九条の会」20名をマイクロバスで案内し、福島の被災地を回った。

JR常磐線小高駅駐輪場を案内した時、山崎さんは息を呑んだ。そこには高校生の自転車が数百台、震災当日のまま置き去りにされていた。3・11から時間は止まったままになっていた。

山崎さんはそのことを全国の人たちに伝えるため、朝日新聞の「声」欄(2012/12・13付)に投稿した。

「あの日の朝、ここに自転車を置き、笑顔で登校した生徒たち。震災直後に電車は不通になり、戻ることもできず、どうなったのか。現在、どこでどうしているのだろう。元気にしているのだろうか。私たちは涙が止まらなかった」

甚大な原発事故は大人だけでなく、子どもたちの将来にも大きな影を落とす――。元高校教員の山崎さんの心は痛んでいる。

 

福島原発事故を主題にした美術展

 

原発事故によって汚染されたフクシマを見つめ、またフクシマから現代社会を見つめ返す――。福島第1原発事故を主題にした「蝕―津波」「壊―原発」「萌―復興」の三連作を軸に、戦争や社会の歪みを表現する美術展が行われているというので、私は埼玉県東松山市の「原爆の図」を常設展示している丸木美術館を訪ねた。2012年6月29日。「池田龍雄展」――。

同展のチラシにはこう書かれていた。

ヒロシマに原爆が炸裂し、核の魔力で数万の命が奪われたとき、一人の詩人が叫んだ。

「人間を返せ!」

だか、その声は何処に届いたのか。

フクシマで原発が破裂し、核が暴れだし、人間が虫けらのように追い払われている。土が奪われ、暮らしが壊され、作物も牛も鶏も犬猫さえも見棄てられた。だから、われわれは詩人に代わって再び、声高に叫ばなければならない。

「人間を返せ!」

「暮らしを返せ!」

「すべての命を返せ!」

 

17歳の時、特攻隊員で敗戦

 

1928年、佐賀県に生まれた池田龍雄さん(85)は15歳で海軍航空隊に志願入隊した。国のために命を捧げるのが名誉だと信じて疑わなかった。だが、出撃しないまま特攻隊員として17歳で敗戦を迎えた。特攻隊員のときは、家族へ遺書を書き、声を押し殺して泣いたこともあったという。

霞ヶ浦の隊門から故郷の伊万里の家までの「復員」の旅は3泊4日かかった。満員列車が広島に近づいた頃、ようやく長い夜が明けかけた。

「ヒロシマ―、ヒロシマ―」という声に窓から身を乗り出して見ると、コンクリートのホームはあったが、駅舎は跡形もない。その向こうの街並みもない。代わりに人間の焦げるような異臭が車内まで流れ込んできた。

隊内のチラシには「広島に敵新型爆弾投下」とだけ書かれていた。「新型爆弾」とはこのことか、とわが眼を疑ったが、見渡す限り黒焦げの荒野、異様な死の世界だった。これがたった一発の爆弾の仕業とは……。

そのあと、広島は向こう20年間、放射能のため草木も生えないだろうと聞かされた。しかし、20年も経ずに世界の「ヒロシマ」となって、フェニックスの如く蘇ろうとは……。そして原子爆弾がその後、何千倍、何万倍と増え続けようとは……。

 

戦友への悼みと理不尽な権威

 

池田さんは戦後、師範学校の教師を目指したが、軍国主義者と見なされ、GHQ(連合国軍総司令部)の方針で教師になれなかった。既成の権威や秩序に縛られずに、自由な表現の世界に生きようと決意し、多摩造形芸術専門学校(現・多摩美術大学)へ入学した。

やがて岡本太郎や花田清輝らの研究会に参加し、アバンギャルド(前衛)芸術運動の道へ。朝鮮戦争が勃発し、警察予備隊(後に自衛隊となる)が創設された1950年代――。池田さんは絵画によるルポルタージュの可能性を探り、炭鉱、内灘・立川などの基地闘争、水爆実験などをテーマにした作品を次々と発表し、注目を集めた。

非業な死を遂げた戦友への悼みと、戦中戦後の理不尽な権威が横行する社会への疑問を胸に、戦争や人間の精神世界を表現し続けている池田さんは抽象的、超現実的な筆致で津波、原発、復興を表現した作品を前に、こう語る。

「原発と原爆は文字面も兄弟みたい。危険であったことは分かっていた。なのに、今でも、なくては困るという人がいる」

池田さんは原発で働く労働者の姿に、無責任な大本営体制のもとで末端兵士として死にかけた自らの戦争体験を重ねている様子だった。(かたの・すすむ)

 

 

片野 勧

1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。

 

                               続く

 

 

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