前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

終戦70年・日本敗戦史(79)戦後70年―決して忘れてはならない蒋介石の寛大さに感謝―

      2015/05/27

終戦70年・日本敗戦史(79)

戦後70年―決して忘れてはならない敵国の寛大さに感謝―

「戦後日本が一早く経済復興ができた理由は以下のおかげなのだ」②

  • 中華民国・蒋介石は「徳をもって怨みに報いる」と宣言、日本への報復禁止②戦争賠償の放棄③占領軍派遣を中止。
  • マッカーサーの米国一国支配の日本占領政策によって、ドイツ、朝鮮のような分断国家になることを免れた。
  • ソ連はあくまで北海道占領、日本分断を企てたが、マッカーサー、蒋介石が共産化を一致して阻止した。

0023aea9d7cb0f6e838217前坂俊之(ジャーナリスト)

満州事変、日中戦争はすべて中国本土で戦われた戦争である。また、日清戦争も日露戦争も朝鮮、満州、中国の他国の領土に日本軍が出かけて戦争した対外戦争であったことを日本人はすっかり忘れている。あくまで、対岸の火事であり、自宅が丸焼けにはならなったので、その痛み、苦しみは体験していない、わかっていないのである。

つまり、太平洋戦争の末期に、本土空襲を受けた時点で初めて多くの日本人(兵士以外)は殺し、殺され、焼かれ空爆される戦争の真の実態、恐ろしさを直接体験したのである。この民族、国家の戦争直接体験の深い歴史ギャップを前提にして、考ええねばならない。

日中間の対立が激化した現在、中国を侵略した事実、犠牲者の数、財産の損失についてさまざまな異論、虚説がネット上で流布しているが、当事者の蒋介石はその数についてこう書いている。

中国の被害、損害は天文学的な数字にのぼる。

 「日本軍が侵略した区域は、東北四省をはじめ、河北省から広東、広西まで二十二省にのぼり、爆撃などの被害を受けなかったのは新疆、チベット、外蒙(外蒙古)など辺境地域だけであった。

この間、戦闘は大会戦22回を含めて3万8931回に達し、331万1419人の将兵が死傷した。非戦闘員の死傷も842万人を超え、さらに一家離散、飢餓などの被害者を加えれば、その数は膨大なものとなる。

一方、公私有財産の直接的損失は、掌握できたものだけで、略奪された銀行の金銀、破壊された産業施設、交通施設などを、1937(昭和12)年6月現在の米国ドルで換算して、三百十三億三千十三万六千ドルに達する。同じ年の日本政府の一般会計歳出は、七億七千万ドルであり、その全額をもって賠償に当てても半世紀近い年月を必要とするほど巨大なものであった。」<「蔣介石秘録⑭日本降伏」(サンケイ新聞社、1982年刊,203-204P)>

当時の日本の国家予算の実に40倍以上と見積もっている。

戦争の世界史をみると、戦勝国が敗戦国に対して、過酷な復讐戦を加えるケースは枚挙にいとわない。ところが、蒋介石は直ちにラジオ放送で「不念旧悪」と「与人為善」を国民に訴えた。

「1945年8月、日本が無条件投降を宣言したとき、私(蒋介石)はただちにラジオ放送で演説を発表し、中華民族が伝統とする至高至貴の徳性は「不念旧悪」と「与人為善」であり、決して日本人民を敵とせず、また敵人のかつての暴行にたいして報復を加えないことを説明した。これによって敵軍と偽軍(江兆銘政権の軍)は安心して投降し、共産党に煽動と誘惑の機会を与えることがなかったのである。

また、日本が投降の条款を順調に執行しおえたのも、もとより、われわれの平時の威信が著しかったことによるが、同時に、われわれの態度の誠実さに感じたためである』(一九四六年十二月三十一日、今年の総反省)「蔣介石秘録⑭日本降伏」202P)

約二百十三万人の日本人民を強制労働や報復的措置をとることなく、

終戦後10ヵ月で日本に送還した(シベリア抑留したソ連とは大違い)

 

長春(新京)=現瀋陽 の日本人居留民捕虜収容所では次の掲示が出された。

「日僑の兄弟に檄す」の公告。「罪は諸君にない。われらの友愛を土産に、母国上陸第一歩より日本改造、中国親善の実現に努力してほしい。日本再建の重責は諸君の双肩にかかっている。日本軍閥を打倒し、民主日本を建設してこそ、中日の提携、ひいては東亜の安全と平和は保証される」との趣旨がしたためられていた。

「中国全土で投降を受けいれた日本の軍民は、約二百十三万人にのぼった。中国は彼らにたいして強制労働などの報復的措置をとることなく、終戦十カ月後の1946年6月までに、一部の戦犯をのぞく全員を日本に送還させた」(同書202P)

『投降受け入れ作業が幸い予定の目標を達成できたことは、すこぶる欣快である。共産党と投降接受を争ったときの状況をいま回顧すると、ワナや謀略があいついで仕掛けられ、まことにきわどい情勢であった。しかし、ついに困難を突破して、任務を完成することができた』のである。(同上)

 - 戦争報道

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
終戦70年・日本敗戦史(130―1)「1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議と統帥権干犯問題」政党政治を終局させ、軍部独裁から戦争への道をスピードアップさせる転換点となった。

終戦70年・日本敗戦史(130―1) <世田谷市民大学2015> 戦後70年   …

no image
日本リーダーパワー史(678)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(57) 『福島安正大佐のインテリジェンスが10年後に『日英同盟』(核心は軍事協定)締結へつながった。

日本リーダーパワー史(678) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(57) 『福 …

『Z世代への昭和史・国難突破力講座』★『戦後政治の礎を築いた大宰相・吉田茂首相のインテリジェンスと胆力・ユーモア』★『マッカーサーと昭和天皇の会談が13回、 吉田は合計75回も面会した』●『大往生(89歳)の秘けは「カスミを食うこと、いや人を食うことだな」

  2016/02/11 /日本リーダーパワー史(666) 昭和の大宰 …

『オンライン講座/真珠湾攻撃から80年目⑨』★『ルーズベルト米大統領は、真珠湾攻撃の国家リスク管理の失敗を教訓に情報機関(CIA)の設置を命じた』★『一方、日本は未だに情報統合本部がな<3・11日本敗戦>を招いた』★『さらに2021年、新型コロナ/デジタル/経済敗戦を喫して、後進国に転落中だ』

『オンライン/真珠湾攻撃(1941)から80年目講座➂』  

no image
終戦70年・日本敗戦史(127)『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳』①

終戦70年・日本敗戦史(127) <世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月 …

日本リーダーパワー史(687)『北朝鮮行動学のルーツ②』ー150年前の「第一回米朝戦争」ともいうべき 1866(慶応2)年9月、米商船「ジェネラル・シャーマン号」の焼き討ち事件(20人惨殺)の顛末を見ていく。<事大主義と小中華思想、中華思想=エスノセントリズム (自民族中心主義)のギャップ、対立が原因>

日本リーダーパワー史(687) 『北朝鮮行動学のルーツ(下)』ー150年前の「第 …

『オンライン/明治維新講義』★『 初代総理大臣で日本最初の英国留学生の伊藤博文による『明治維新を起こした英国密航でロンドン大学の教授の家に下宿したこと』★『 なぜ、ワシは攘夷論から開国論へ転換したのかーロンドンでタイムズ紙で下関戦争が始まると知り『日本が亡びる』と驚いて、帰国してきた経緯を話そう』・・>

    2011/07/03 &nbsp …

『おとなの世界ぶらぶら写真日記』★『死海(Dead Sea)、30 年ぶりの浮遊体験』ー平均1年、1mのペースで湖面が低下している。

   2016/03/09  &nbsp …

「今、日本が最も必要とする人物史研究➂」★『日本の007は一体だれか』★『日露戦争での戦略情報の開祖」福島安正中佐➂』★明石元二郎の「明石謀略」は裏で英国諜報局が指導しており、福島安正、宇都宮太郎(英国駐在武官)がバックアップした。

日本リーダーパワー史(553)記事再録                前坂 俊之 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(98)記事再録/ 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(31)<川上参謀総長からロシアに派遣された田中義一大尉(後に陸相、首相)はペテルスブルグで活躍<ダンスを習いギリシャ正教に入信して情報収集に当たる>②

   2016/01/14/日本リーダーパワー史(638) …