『Z世代のための戦争報道論』★『ジャーナリストからみた日米戦争』★『太平洋戦争直前に日本人記者としてただ一人、ルーズべェルト米大統領の単独会見に成功した毎日新聞欧米部長(主筆)の楠山義太郎(90)氏から取材した』★『ジャーナリストは「言いたいこと」ではなく、「言わねばならぬこと」を書くことだ(「他山の石」の桐生悠々の弁』
/『ジャーナリストからみた日米戦争』記事再録再編集
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之
1・伝説の国際記者。楠山義太郎から取材した
1988年夏。私はインタビューがうまくいくかどうか、内心危ぶみながら、東京都世田谷区下北沢の閑静な住宅街を、その人の住所を探しながら歩いた。
戦前、国際記者として鳴らした元毎日新聞欧米部長、主筆の楠山義太郎氏氏に会うためであった。この時、楠山さんは90歳、日本の外信部記者の最長老であり、毎日新聞社内でも伝説的な国際記者として聞えていた。
楠山さんは15年戦争の発端となった1931(昭和6)年9月の満州事変で、国際連盟が派遣したリットン調査団の「満州事変は日本の侵略である」と結論づけた報告書をスッパ抜き、世紀のスクープをしたのをはじめ、太平洋戦争直前に日本人記者としてただ一人、ルーズべルト米大統領の単独会見にも成功した、戦前を代表する国際記者であった。
「新聞と15年戦争」のかかわりを取材していた私は、先輩記者を次々とたずね歩いていた。 会ってみて、私の危倶は吹き飛んだ。少し耳が遠い以外、元気いっぱいで、毎日『ニューヨーク・タイムズ』に目を通し、ジャーナリズム精神にあふれていた。驚くほど鮮明な記憶力で半世紀以上も前の出来事のディテールを証言した。
2・ヨーロッパからみた満州事変
日本は満州事変から満州建国をめぐって、国際的非難を浴び、国際連盟から脱退し〝世界の孤児″と化したことはよく知られている。当時、大阪毎日新聞ロンドン特派員だった楠山さんは、この孤立化から戦争へ発展する過程を身をもって取材した。「当時、ヨーロッパは平和でノンビリしていました。そこに突然、満州でイナズマが走り、ジュネーブの国際連盟で爆発した感じですね。政府は不拡大方針を出しましたが、関東軍が次々に戦線を拡大、ジュネーブで取材していて地元の新聞をみるのが怖かった。日本への批判や、〝悪口雑言″が載らない日がないほどでね」
「連盟では毎回、袋だたきにあい、脱退なんて言っているが、全会一致で国際社会から〝無頼漢″として追放されたんです。今のジャパンバッシングの比ではない。それを国内では〝桜の花の散るごとく″とかいって、バンザイで松岡洋右を歓迎した。全く唯我独尊の無知まる出しの孤児だったんだよ」とふりかえる。
3・真珠湾攻撃成功に沸き立つ毎日新聞編集局内
1941(昭和16)年12月8日。
真珠湾攻撃によって日本は太平洋戦争へと突入した。毎日新聞(当時の題字は『東京日日』)はこの開戦をスクープし、編集局内は熱気と歓声にわいていた。が、欧米を熟知していた楠山さんは内心、ショックを隠し切れなかった。編集局で幹部がそんな楠山さんに声をかけた。「みんな歓声を上げているのに、君一人うかぬ顔だね」。「米国と戦争をして勝てれば奇跡だ。軍事的にも、経済、社会的にもどこをみても勝ち目はない」楠山さんはズバリと言い切ったという。
当時の新聞の報道ぶりについて、楠山さんは痛恨の思いでこう語った。
「結局、国際感覚が全く欠如していたんです。軍部が強硬になっていく過程で、社内でも支那(中国)派が勢力を握り、英米派は冷や飯をくわされた。支那問題を連盟で論じていると、『欧米に支那のことがわかるか』と反発をくいましてね。私は『支那通の支那知らず』とことあるごとに言ったんだがね。とにかく、新聞を含めて、日本人全体が井の中の蛙になっていたんだね」
楠山さんは90年1月に亡くなり、今はもういない。「これは僕が後輩の記者たちに残す遺言だよ」と熱っぽく語り続けた楠山さんの姿が今も思い出される。楠山さんは国際連盟脱退当時とインタビューした1988年当時の時代の類似性を強調した。
「大ざっぱに対比して、当時は軍が武器や兵隊を使って領土を拡張した。今はかつてのような軍部の存在はないが、それに代って企業が商品を武器に世界の市場をせっけんしている。軍部は統帥権を神聖不可侵なものとしたが、今は企業の利潤追求がこれにとってかわっており、摩擦の元凶となっている。
当時は軍事大国というオゴリで国際世論に耳を貸さなかった。今は経済大国のオゴリが強くなっている。戦前も戦後も一貫して変らぬこのエキスパンショニズム(拡張主義)がこわいね」
「当時、満蒙はわが国の生命線と言ったが、今の日本の生命線は自由貿易だよ。これがくずれれば日本は危ないよ」
その後の日米関係の対立激化、国際的な孤立化をみるにつけ、楠山さんのこの指摘はズシリと胸に響いてくる。
4,40年ごとに日米関係は友好・対立・衝突を繰り返した。
さて、1991年は日米戦争に突入した真珠湾攻撃からちょうど半世紀目にあたる。日米関係を長い歴史の中でみると、友好から対立、衝突の歴史をほぼ40年ごとに繰り返してきた。その原因は両国間のパーセプションギャップ、コミュニケーション・ギャップが拡大、誤断が抜きさしならぬ対立を生み、日本は孤立化し、破局を迎えた。その中で新聞が果たした役割や責任も決して小さくない。
楠山さんが日米関係を考える上で、〝歴史の教訓〟にすべきとして、引き合いに出したのは1924(大正13)年7月1日に施行された排日条項を含む「外国移民制限法」である。これが日米を引き裂き、真珠湾攻撃の一つの引き金になったといわれる。徳富蘇峰はこの日を〝国辱の日″とせよと叫び、国民は激昂した。英米指向からこれを転機に大アジア主義が台頭しナショナリズムが昂揚した。現在の日米摩擦の原型がここにみられる。
米国はもともと移民の国であり、日本人移民も20世紀に入り増加し、1920(大正9)年までに約21万人にのぼり、その間の中国人移民約4万3000人の5倍に達した。日本人移民は主に米国西海岸に移住し、1919年当時、カリフォルニア州の最多の外国人は日本人であり、全米本土9万人のうち約8万人が西海岸に住んでいた。
日本人移民はなぜ嫌われ、激しい排斥運動が起きたのか。そこには文化的、経済的な深刻な摩擦が横たわっていた。
① 日本人移民たちは白人労働者の賃金の半分で人一倍熱心でていねいな仕事をした。その優秀な労働力が白人労働者を失業へと追い込み、反発とウラミを買ったのである。
② 移民という観念がなく、故郷に錦を飾るという出稼ぎ労働者が大部分だったため、単身赴任で、安息日も教会にもいかずガムシャラに働く。地域に全くとけこまない。そうした日本人の働き蜂の国民性に加え、立小便などのマナーの低さがひんしゅくを買った。
③ さらに思わぬ反発を引きおこしたのが〝写真結婚″である。米国の女性団体からは「人身売買」「女性への侮辱」と激しく批判され、排日の原因となったのである。
5・なぜ、日本人は激しい批判、排斥を受けたのか
1905(明治38)年にサンフランシスコにアジア人排斥協会(後に日韓人排斥協会)ができたが、同協会は次の理由をあげた。(1)
1 日本人は長時間の低級労働に甘んじて白人労働者に対抗する。
2 日本人の生活程度は劣等で、米国人は競争にたえることができない。
3 日本人は獲得した金銭を故国に送り、米国経済に貢献しない。
4 日本人は故国から日常消耗品を買い、米国製品を買わない。
5 日本人は愛国心強く、米国人との同化の素養を欠く。
日本人移民を日本製品に置きかえてみればまるで現在の貿易摩擦と同じである。地域にとけこまず、集団的に固まる体質は今も地域へのボランティア活動を一切せず、寄付が少なすぎると批判されている日本企業や日本人ビジネスマンと同じである。日本企業による海外の不動産の洪水のような投資、買収が批判されているが、これも70年前に問題となった。
当時、日本人移民の大半は農民で、カリフォルニアで抜群の能力を発拝し、白人が開拓できなかった荒地を次々に農地にかえ、勤勉に働いて得た金で農地や土地、住宅、商店などの不動産を買いあさった。これに白人労働者が怒り、カリフォルニア州で1913(大正2)年八月に〝排日土地法″(正式には「外国人土地法」)が成立した。
内容は米国市民になり得ない外国人(日本人らをさす)の土地所有の禁止、借地期限を制限したもので、実質上〝帰化不能外国人″のレッテルをはられた日本人をしめ出そうという法律であった。
ただし、この法律にも2世は生まれながらにして米国市民であり、土地所有できるため、土地を子供の名義にする〝抜け穴″があったが、これも一切禁じて、日本人農民を土地から一切排除するきびしい「イトマン法」がカリフォルニア州議会で1920(大正9)年11月に可決され、全米各州に広がった。
一連の〝排日土地法″に日本政府はきびしく抗議し、世論は憤激し日米開戦の危機も伝えられたが、第一次世界大戦の勃発(1914年)などでガス抜きされる。
1922(大正11)年、米最高裁は日本人移民から出された帰化権について「白人とアフリカ人以外に帰化権はない」との判決を下した。
6・排日土地法とは・・
再び、排日の火の手の上がった。「日本人同士の異常な団結で米国との経済競争に勝ち米国民の脅威と化した」として、下院議員のジョンソンから移民制限法案が下院に提出されたのである。
排日土地法はカリフォルニア州議会であったが、今度は米国議会である。日本側はまさか友好国の米国がそこまでやるまいと考えながらも外務省は危倶し、埴原正直駐米大使はシューズ国務長官にあてて「移民法が成立すれば重大なる結果(Grave Consequences)をまねく」との手紙を出した。
問題の移民法には「帰化不能外国人は移民を禁止する」という条項があり、これが〝排日条項〃として問題となったのだが、1924 年4 月に期待に反して上下院議会をすんなり通過した。
7・新聞は一斉に米国撃つべし」
新聞は一斉に憤激し「米国撃つべし」の世論が沸とうした。まさか通るはずもないと思っていたものが通ったからである。『朝日』『毎日』『読売』など新聞15社は連名で「米国に反省を求める宣言」を掲載した。
「排日案の不正不義なる次第は明白である。両国民の間に存せる伝統的な友好が深大なる創痍を受くる」(1924=大正13 年4月21 日)全国各地で新聞社主催の反米大会が開かれた。同法が施行された7月1日は〝米禍記念日〃として「この屈辱を忘れるな」と日本人は胸に深く刻み込み米国
をうらんだ。反米感情がうねりとなって広がったのである。
なぜ、移民法は通ったのか。
そこには両国間の完全なスレ違い、コミュニケーション・ギャップが存在していた。
① 埴原大使の「重大なる結果」という言葉が戦争に当たるとして米議会で大問題となり、予想外の通過となったのである。外交交渉における言葉のはずみの恐ろしさである。
② 排日土地法の対応も含め、日本側は国民的名誉、国家の威厳の問題と受け止めたのに対し、米国は単なる経済問題、国内問題として処理し、人種的偏見ではないと主張した。このため、日本側はプライドをひどく傷つけられ、屈辱感を味わったが、米国には加害者意識はなかった。
③ 米国は日本人移民を他国の移民と同じように扱っただけだが、特別待遇に慣れていた日本はその甘えが通用しなくなった時、憤激した。
ワシントン会議(1921 年)で世界の5 大強国の一つとして米国に協力したのに、という大国意識、優越感が日本にあったが、その鼻をへし折られ、中国人、韓国人と同じに扱われたというショックがあった。欧米への劣等感の裏返しのアジア蔑視が見事に切り裂かれたのである。
8 排日移民法は日本側の過剰反応!
日本では〝排日移民法″という名で一貫して報道されたが、もともと、このような名称そのものが過剰反応であった。正式名称は「1924年移民法」で、どこにも日本人を特定する文句はなかった。
排日条項とされた部分のいわゆる「帰化不能外人」には確かに日本人をさす面が強いが、「白人とアフリカ人」以外はすべて入っており、外務省や新聞が「排日条項」「排日移民法」として最初から報道したため、全文排日の法律という受け止め万が一人歩きし日本人を余計に刺激した。
結局、両国の認識のズレ、受けとめ方の落差を報道が大きく増幅し、とりかえしのつかない結果を生んだのである。
約70 年前の悪夢のような出来事と現在の状況を単純には同一視できないが、日米関係がますます悪化している中で、米国議会では目下、日本企業をターゲットにした対日の投資、金融、資産凍結などの法案が目白押しなのである。
かつての日本人移民のように、日系企業がアメリカ産業の脅威となっているというジャパン・フォビア(日本恐怖症)がますます増えているのだ。
さて、そのような移民法から7年後に起きたのが満州事変である。90年8月のイラクのクウェート侵攻による湾岸危機をみるにつけ、約60年前の満州事変による中国侵略、カイライ国家の満州国建設、国際連盟脱退による〝世界の孤児″と化した日本の姿がオーバーラップしてくる。
当時、日本で吹き荒れた極端な排外熱や日本主義のナショナリズムはフセインの掲げる〝イスラムの大義″と同種のものである。
9・朝日は右翼に恫喝され転向する
この日本の破滅のきっかけとなった満州事変から国際連盟脱退に至る過程では、政府の不拡大方針を軍部が無視して暴走し、事態を一層こじらせ、政府はそのシリぬぐいから既成事実の追認へと追いこまれていった。
この間、新聞はどのような役割を果たしたのか。チェックするどころか、軍部の暴走を即容認し、軍部と二人三脚で世論をあおり、軍部におもねりながら進んだのである。
戦後、新聞は自らの戦争責任についてはほとんどふれず、戦前の報道についてはとかく、言論統制や検閲の厳しさばかりを強調しがちである。しかし、満州事変から2・26事件あたりまでは、書く気さえあれば、その後ほどがんじがらめの統制ではなかった。言論の勇気の欠如こそが問題なのだ。
事変前までは厳しい軍部批判を展開していた『大阪朝日』も事変勃発とともに「木に竹をついだ」ような転換が行われた。当初、大阪朝日編集局は整理部を中心に事変反対の空気がみなぎっていたが、事変約一カ月後に開かれた重役会は「日本国民として軍部を支持し国論を統一することは当然」として軍部や軍事行動に対しては絶対に非難、批判を下さないよう決定したのである。
これに対して、整理部の反対が依然として続き、会社側は大異動して事変反対の空気を一掃した。なぜ、軍部に対する姿勢の180 度の転換が起こったのか。在郷軍人会などからの不買運動による部数の落ち込みと同時に、右翼の総本山、黒竜会の内田良平による恫喝、脅迫が態度変更の要因になったのではないか、ということが最近の研究で明らかになっている。(2)
事変から約2ヵ月、日本新聞協会は国際連盟や各国に対し、「(同事変)は日本の自衛権行使であり、国運を賭してもこの死活問題に邁進せねばならない」との勇ましい声明書を出し、新聞界は上げて支持に回った。
10・国際連盟脱退を新聞は共同宣言
当時の新聞の国際性がどのようなものであったか。
国際連盟で一致して採択されたリットン報告書が1932(昭和7)年10月に公表された時、各社は猛烈に反発し最大級の悪罵が並んだ。ヒステリックでセンセーショナルという当時の新聞の〝病気″が社説にも示されていた。
『東京朝日』-「錯覚、曲弁、認識不足」
『東京日日』『大阪毎日』-「夢を説く報告書 - 誇大妄想も甚し」
『読売』-「よしのズイから天覗き」
『報知』-「非礼誕匿たる調査報告」
国際連盟脱退のキャンペーンをいち早くはったのは『東京日日』だが、『朝日』、『読売』らもこれに追随した。同年12月19 日、全国132の新聞は連盟脱退への共同宣言を第一面に掲載した。
「いやしくも満州国の厳然たる存在を危うくする解決策は断じて受諾せず」と日本の言論機関の名で声明した。脱退論の主張は「留って外侮を受けるな、むしろ孤立・国威を輝かせ、昭和日本の行くべき道也」として、当時一番恐れられた経済封鎖や制裁措置は双方に損をし、日本の海軍力で経済封鎖は不可能だと全く近視眼的な見方をしていたのである。
そんな中で、唯一、「脱退は誰でもできる。脱退しないのが外交」と最後まで勇気をもって国際的孤立に反対の論陣を張ったのが、『時事新報』であったことは記憶に値する。
この時代をふりかえって、伊藤正徳・時事新報編集局長は「なぜ、新聞が最もその力をふるうべき時にふるわなかったのか」自責の念をこめて書いている。
11・新聞人の勇気の欠如が一番問題
その最大のものは新聞人の勇気の欠如であり、二番目は言論に対する抑圧である、と。「新聞人が勇気を欠いたことは争うを得ない。一般にみて必要以上に遠慮し、回避したことは争われ得ないようだ。刃物の刃にふれることを警戒して手出しをせず、無為に傍観した例は乏しくない。
言論生命のために、1社の運命を一論に賭するの進攻的勇気はあえて求めないにしても、防御の筆陣を包囲的に展開する程度なら、当然新聞人に要求されてしかるべきであろう」
戦前の言論屈服について、和田洋一同志社大名誉教授は「ジャーナリズムの戦いは5・15事件で90%終わり、2・26事件で99%終わった」と総括しているが、言論界へのトドメとなった二・二六事件では東京の朝日新聞社などが反乱軍に襲撃されたため、新聞はテロに脅え、完全に萎縮してしまった。
ところが、こうした中でもごく少数だが勇気をもって書いた記者がいた。先にも述べたが『時事新報』社説部長の近藤操は毎日「今日やられるか」と覚悟しながら、2・26 事件から約10ヵ月間にわたって厳しい軍部批判、粛軍論の社説を書き続けた。ところが、戒厳司令部からの注意は一度しかなく、全く拍子抜けした、と戦後の回想録で記している。
12・各紙が筆をそろえて批判すれば軍部も抑制できた
近藤はこうした体験から「各紙が筆をそろえて批判、直言したならば軍部や革新官僚に対する抑制効果は必ずあったに違いない。非常時でもやれば出来たことであった。しかるに新聞は萎縮し、その言論責任を果たさなかった」と。
戦前の亡国の歴史を担ったのは、ジャーナリズムの使命の自覚と勇気の欠如、国際感覚のなさであったことを新聞人は決して忘れてはならない。確かに、今、戦前の軍部のような存在や厳しい言論統制はないとはいえ、新聞は何者にも脅えず、遠慮をせず国民の知る権利に十分応えていると胸をはっていえるだろうか。
天皇タブー、昭和天皇の病気から亡くなるまでの報道でみられた自主規制、萎縮ぶりは戦前の言論人の勇気の欠如と同じ現象ではないのか。
半世紀以上、日本を取材してきたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランは著書の中で、楠山さんと同じ危倶の念を表明している。
戦前、軍部の暴走を抑えきれなかった政治家は現在、猛烈な競争心に燃える実業家の野心を抑え切れるだろうか、と。
「成功の勢に乗った企業、実業家の野放図な競争がブレーキをかけられなければ外国市場に耐えがたい打撃を与え、再び重大な紛争を生じさせないか」(3)この危惧はすでに現実のものと化している。
結局、日本の近代化の歴史をふりかえると、江戸時代は藩に、明治から大正、戦前は国に、戦後は会社にと〝忠誠″を誓う対象は違っても、常に滅私奉公する軍人や企業戦士であり、市民としての意識や自覚は結局生まれず、真の民主主義の確立はいまだに出来上がっていないといえるだろう。
戦前の軍事大国、戦後の経済大国は個人や国民の〝滅私奉公″という犠牲の上に成り立っており、国や企業の繁栄は決して国民の豊かさやしあわせに直結しなかった。
それどころか、経済大国という美名のもとに、リバイアサンと化した〝企業″、会社主義の恐ろしいほどのまんえんが行きつくところまで行き、海外では摩擦の激化、国内では豊かさを奪い、「サラリーマンが一生働いても家一軒買えない」という異常な事態を生んでしまった。
日本の政治、経済、行政の歪んだシステム全体が問われており、より公正で民主的な改革が今こそ求められているといえよう。
13・ジャーナリストの本分は「言わねばならぬこと」を言い切ること
戦後の新聞の民主化のスタートは『朝日』の「自らを罪するの弁」(1945 年8月23 日)での戦争責任についての国民への謝罪であり、その上での「国民と共に起たん」(同11月7 日)での宣言であった。二度と再び、戦争へのペンをとらないという痛恨の覚悟であり、他の新聞も同じ決意で歩調を合わせた。
それから46 年。湾岸危機に関連して、自衛隊の海外派兵や憲法論議が大きくクローズアップされているが、もう一度、この「国民と共に起たん」の原点にかえり、中でも「生活者、消費者とともに起たん」との精神で再出発をすべきではないだろうか。
明治以来の日本のジャーナリズムには外側から冷静、客観的に自らをふりかえる目が養われなかった。15 年戦争にいたる過程やその戦争下で日本の侵略の姿を朝鮮や中国の目で見詰め直すという姿勢はなく、今もそうした姿勢は希薄である。
逆に戦前への回帰の方が強いが、戦争責任も含めてその姿勢を反省することが、国際化、隣国と友好を結ぶための第一歩であろう。戦後の西ドイツと日本の姿勢がよく比較されるが、戦争責任を自ら徹底して追及した西ドイツはヨーロッパ各国に真の友人、パートナーとして迎えられて いる。
これに対し、過去の誤りを十分反省しない日本は今もアジア各国との真の友好関係を築き上げていない。 政府や一部自民党だけではなく、戦争責任を自覚せず、追及してこなかった新聞の〝歴史健忘症″もその原因なのである。
「日本は経済的にうまくいっている世界で唯一の共産国」というのはある外国人記者の日本へのジョークである。
政権交代がなく、鉄壁の官僚機構が国民を統治し、おとなしい国民が一糸乱れず効率的な経済活動に励む日本をヤユしたものだが、ヨーロッパ各国の日本のイメージは象徴的である。
外務省の1989 年の調査では、日本を経済大国とみる人は英、イタリア、西ドイツで80%以上にのぼるのに対して、民主的、平和的な国というイメージは何とたった1%から5%しかないのである。「平和で民主的な国家」という日本人の意識とは大きな落差がある。
ますますボーダレス社会になる中で、さいわい日本の新聞にはかつての盲目的な愛国心や排外熱ナショナリズムは高まっていないが、この免疫ができていない戦前の病気がいつ再発しないとも限らない。
戦前、「関東防空大演習を笑う」で信濃毎日新聞社を追われ、個人雑誌『他山の石』で言論抵抗を続けた桐生悠々は立憲下の国民として、ジャーナリストとして「言いたいこと」ではなく、「言わねばならぬこと」を言い切ったために職を奪われてしまった。ジャーナリストの本分は勇気をもって、この「言わねばならぬこと」を言い切ることではないだろうか。(終)
以上は
<前坂俊之著『言論死して国ついに亡ぶ』社会思想社刊 1991 年11 月の194-207P>の転載です。
<注>
(1)『国辱-虚実の「排日」移民法の軌跡』吉田忠雄 経済往来社1982 年7 月、121-1
22P、排日移民法の経過については、本書と吉田教授の談話によっている。
(2)『辛亥革命から満州事変へ一大阪朝日新聞と近代中国』後藤孝夫 みすず書房 1987 年9
月 389-390P
(3)『アジア特電一九三七 -一九八五』ロベール・ギラン平凡社 1988年6 月 567-
568P<前坂俊之著『言論死して国ついに亡ぶ』社会思想社刊 1991 年11 月刊より>
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