『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』④『ヨーロッパ各国革命党の共闘、連合のためのパリ連合会議に成功する』
2015/02/28
『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』④
『ヨーロッパ各国革命党の共闘、連合のためのパリ連合会議に成功する』
前坂俊之(ジャーナリスト)
ー 革命党各派連合の困難性 -
これらの各党各派の連合をはかる際に、最も困難なのは、メリコフやバリスキーも憂慮したように、どうやって諸党派間の対立、葛藤、あつれき、嫉妬をとりのぞくべきかであった。
革命党と社会民主党とは互いに勢力拡大で対立、ポーランドの国民党とその社会党とは、イデオロギーにより常に反目、嫉視をやめず、またロシア人とポーランド人との間には、数百年来の敵対意識の深い溝があり、憎悪と強烈な怨恨が骨の髄までしみていた。
この間で仲介、斡旋につとめ、よくその感情的対立をうまく収めたのはシリヤクスの腕にほかならない。かれは一方ではフィンランド人として、主義、人種、地域競争等の渦外にあり、他方、むかしの虚無党時代からの元老として領袖たちのあいだに知友が多く、当時の革命社会党にも、そのライバルの社会民主党にも、親密であるばかりでなぐ、フィンラン憲法党にもロシアの自由党にもそれぞれ友人が多く各党連合のまとめ役としては、最適の人物であった。
連合会義の目的は、ロシア政府にたいし、各党各派がそれぞれの要求を提出することとし、できれば一連の檄文を発表し、デモを行うことを決議することであった。
これらの準備が着々と整い、その前途を祝して共にハンブルグを出発し、明治三十七年八月末にストックホルムに帰還した。
ふたたびロンドンへー
ストックホルムに帰ったその日に、ロンドン公使館の宇都宮大佐からの「来られるならば、できるだけ速く来られたし」との電報が届いた。そのまま旅装も解かず、ふたたびロンドンに向った。
ロンドンでは、宇都宮大佐がポーランド社会党首領のヨードコーほか数人の同党ロンドン支部員を集め、協議中であった。協議の結果、十月に開催予定のパリ会議は、とうてい好結果をおさめることができないから、出席しないというのが多数派の意見だった。
しかし、一党員は「ブンド党(ユダヤ社会党)員の中には今回、開催予定のパリ会議は、シリヤクスが明石大佐の依頼をうけて奔走したる結果である。われらは、この会合の趣旨を疑い、あえて出席を躊躇している」と述べた。
シリヤクスと明石大佐のあまりにも親密なる関係、一体的行動が疑惑をもって見られていたのである。しかし、ポーランド社会党の態度は、さきにヨードコーが、ハンブルグの招きに応じて、シリヤクスとの列席の会合で約束したこととは違うため、明石大佐は、宇都宮大佐も列席した席上で、次のように1発かました。
「私はシリヤクスに連合会議の開催をお願いしたものではない、シリヤクス自身がその企画者で、私はただこの運動を支援しようとおもっただけのことです。もし諸君が賛成しないならば、どうぞ、それはそれでよいのです。私はこれを貴党に強制しょうとは思いません。それどころか、私はこれに積極的に関与したくはありません。それぞれ各党の利害関係によって離合集散はご随意になさるがよろしい」
ヨードコーは、しばらく考え込んでいたが、やがて「党員の議論はまちまちであるけれども、自分はどうしてもこれを一致させ会議に出席させるようにします」と態度を明確にした。
パリ会議より全面攻撃へ―パリ連合会議と各党の態度-
明治三十七年(一九〇四年)十月、開催予定の第一回不平党連合会議に対し、各党の首領中、アルメニア党のメリコフ、ポーランド国民党のバリスキーのように、その結果を疑問視する向きが少くなかった。しかし、シリヤクスの熱心な斡旋の労によって、九月中旬までに大体が出席の通知してきた。ただし、この会合がシリヤクスが明石大佐の依頼によって企図したるものとみなしたポーランド系のブンド党とロシアの社会民主党は、ついに参加しなかった。
社会民主党が不参加の理由は二つあり、同党首領プレハーノフが出席勧誘の回答において次のように回答してきた。
① 自分は追放令のために、会場たるパリには入ることができない身分である(彼はさきにスイス会場説を唱えていたのである)
➁、社会民主党は革命党などと異り、社会党の原則を守るがゆえに、革命的な手段をとることは、党の原理に違反するために出席することができない。
しかしこの社会民主党の不参加の真の理由は、革命党との対立からきていた。レーニンはこの社会民主党内の過激派であり、この連合運動にこそ加わらなかったが、政府攻撃に対しては革命的な協同一致を説き、プロレタリアートは武器をとるべきだと主張していた。
このようにして、ブンド党と社会民主党とは、ついにパリの連合会議に参加しなかったがその他の諸党、即ち自由党・革命党・フィンランド憲法党、ポーランド国民党・同社会党・ドロシャク党(アルメニア党)ゲォルギー党の各委員は、十月一日をもってパリに集合した。
会期五日間、シリヤクスは発起人であるとの理由で、議長に推挙された。この背後にあって、すべてを操縦する明石大佐のインテリジェンスは驚異に値する。
ー自由党参加問題に関して ー
この連合会議の開催にさいし、自由党を参加させるかどうかで、明石大佐とシリヤクスのあいだで意見が分かれた。
もともと自由党は一般に貴族、学者などの属する党派であり言論での戦いに重きを沖、ストライキや暴力などは用いるべきでないとしていた。しかし党内は、憲法派と進歩派の二つに分れ、前者は帝政ロシアを保持して、完全なる憲法を制定し、諸般の改革を行おうとしていた、一方、進歩派は民主主義を主張し、全国民の投票権を勝ち取ることを目的とし、急進派のうちには革命党のテロリズムにさえ加担する者もあった。
明石大佐は、一党内に激しい分派を有するものには、一様にその参加を求めるのは、危険きわまりないので、参加させないほうがよいと考えた。シリヤクスは、それは杞憂にすぎない。そんな危険があるとは思われないと主張して、結局、参加を求めることとなり、進歩派のみが、会議場をパリとする条件付きで、これに応じた。このパリ会場説は、社会民主党のスイス会場説と衝突することとなった。
参加した自由党は、強硬な意見を述べて、会場をあ然とさせた。かれらはまず、人民に対し総投票権をもたせねばならぬと主張、多種多様な反抗手段によってロシア政府を追い込み、各党の目的を達成すべきと訴えた。その代表者はロシア随一の名門でありモスクワ王朝の後裔たるドルゴルーキー公爵をはじめ、ミリューコフ博士、ストルーヴェのような錚々たる人々であった。
ー フィンランド党の分裂-
連合会議の結果は、はじめ各党間に多少の異見があったが、首脳者の、斡旋によって大体の一致を見て成功裡に進行した。
その革命方法についても、各地方それぞれ一団となって、めいめい得意の手段をもってすることに一致した。たとえば自由党は、その主義とする言論によって州部会を煽動し、政府を攻撃することとし、革命党や同系の諸党は、得意の非常手段に訴うることとし、コーカサス両党のように暗殺に熟練せるもの、ポーランド社会党のごとくデモの経験を豊富に有するものなど、その地方の諸党派が一致協力し、目的達成に当ることを決議をおこなった。
しかし、不本意なことはフィンランド党の分裂であった。同党首領はシリヤクスであり、この連合会議讃長にありながら自党を統一することができず、議論せ二派に分れた。
党の一首領たる旧元老院議官メッケリン一派は、この共同的デモ運動を行うという決議に同意せず、その真意は、ツァー政府の威力はなおきわめて大であり、いまいたずらに暴挙を企てるのは、かえってフィンランドの運命を危うくするおそれがある。そのため、兵器の充実をはかり、起てばかならず目的を達成しできる実力をたくわえるまでは、隠忍自重すべきという結論に達した。兵器の充実とは、まず五万丁の小銃を得たのちの決起とした。
メッケリン一派は、日々にロシア化されつつあるフィンランドの現状に対し、決して独立を欲しないのではないが、暴力をもってすることは国を誤まる危険ありと見、まず完全な自治制の獲得をなそうとしていた。
しかしシリヤクスのような過激派は、これに満足しえず、ここにかれらと分離して別に一党を組織し、フィンランド反抗過激党の名で乗ることになった。この党の精神は、その国民的観念において前者と異るところはないが、その運動方針として、ロシアの革命党の別働隊として協同的にその目的を達成するものであった。パリ連合会議以後のフィンランド党は、フィンランド憲法党と同反抗過激党との両派に分立することになる。
つづく
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