『オンライン/「2015年終戦70 年講座』★『日本を代表する社会派ジャーナリスト・高杉晋吾氏が「植民地満州国の敗戦地獄」の少年体験を語る。
2021/08/20
2015/03/05
「終戦70 年」歴史ジャーナリズム)ージャーナリスト高杉晋吾氏が「植民地満州国の敗戦地獄」」での少年体験を語る(3/3)
-
2015年3月2日、日本を代表する社会派ジャーナリストの高杉 晋吾氏(82歳)と前坂俊之(ジャーナリスト、71歳)の間で「終戦70年、戦争体験・歴史認識を問い直す」をテーマに対談を行った。
以下は「この語りの部分」に該当する高杉晋吾氏の父の手記「満州国の思い出」からの転載する。
「大陸の冬(奉天、現在の瀋陽での1945年10月以降)は足早に来る。家では、他の室は皆、略奪されて、逃げ込んできた社員とその家族のために開放し、私たち親子二人が占めているのは六畳一間にすぎないが、最小限度の必需品以外は全部売りつくし、部屋においてある家財も売り払ってすくなく、がらんとしているし、電燈もつかず、炊く石炭もなく、薄暗い室内は寒々としてわびしいものだった。
私は、毎朝、相変わらず平安広場に仕入れに通っていた。早朝の人通りも少なく凍てついた路面に白い息を吐きながらコツコツと足音を立ててゆく。零下30度の冷気で、手足がピリピリと痛い。こうした日常の中にも、子供のことがいつでも気にかかった。鞍山被爆以来、早くも一年を経過して、健康を回復して、元気になったものの、母と姉を失い、兄は予科練に行ってしまい、ぶっきらぼうの父と二人っきり、温かい家庭は崩れてしまって、ただ生き抜くために働く私を運命をかこつこともなくてつだっている子供を気にかけながら、どうしてやることもできなかった。
幸いにも10月半ばを過ぎると、学校が再開され、午前中に時間だけ、寺子屋式の授業が行われるようになったので私の心は軽くなった。
ある朝、買い出しの帰途、平安通りを駅のほうから、異形の隊列が進んでくるのに出会った。足を止めて私の前をその行列は音もなくふらふらと青葉町のほうに曲がっていった。二百人ぐらいの列の大部分は女と子供、男と言えば50すぎる年配者だけで元気のものはみあたらなかった。
男女の別なくぼうぼうと延び乱れた頭髪、風雨にさらされ、泥土にまみれた顔と手足、空腹を通り越したやせ衰え、青黒い栄養失調の肌色の中に、両眼だけが大きく光って見えた。抱かれている幼児も、手をひかれている子供も幼い子供の愛らしさもなく、しなびている。そして着ているものはある者は汚れてよれよれになった布切れを乞食のように寄せ集めてまとっていたし、他のものは麻袋の三方に穴をあけて首と両腕を出して裸の両足を出して歩いていた。
この列の中に僅かに生きた人間の温かみを残すのは、女性たちが幼児を抱き、手を引いていることだった。そこに母性愛という人間らしさがわずかに残っていた。だがその母親も女性とよぶべくあまりにも不潔、でやせ衰えていた。これは幽界に行きかねて未だ浮き世をさまよう生ける屍の行列と言うほかはない。
「私はこの行列を見て、これは北満から逃れてきた開拓団のひとびとに違いないと考え、「どこから来たの?」とその列に声をかけてみたが、そんな疲れ果てた人間の形骸から答えが返ってくるはずがない。(中略)
そのころ、難民救済資金募集のガリ版刷りの回覧が、隣組を通じて回ってきた。それは日僑俘瀋陽総所」の名においてであった。「日僑俘瀋陽総所」というのは日本人居留民会奉天本部ともいうべきものなのだが、俘虜の俘という字が目障りであった。のちに我々は皆囚人のように、( 瀋陽日僑俘第○○号〕という札を胸部に下げさせられたが、ソ連人にも分かるように(Emigurant No―)とも書いてあった。
これは在満日本人全体の措置、方針について、ソ連具司令官と折衝する窓口としてなくてはならないものだったが、その設立は難民救済資金の募集が動機であった。旧満州の役人や関東軍の幹部は、もうほとんど、シベリアへ送られた後なので、民間人の元満州重工業総裁の高崎辰之助さんが中心になった。
ハルピンや新京等北方の都会には、早区から難問が流れ込んだのだ。そこから溢れ出たものが奉天や大連等の南部に移されてきたのだ。
◎「華美な女の衣服を募集,日僑俘総所の回覧版」
それから一二週間後、また回覧版が回ってきた。前回のは現金、衣服、 寝具であったが今度は[華美〔派手〕な女の衣装]の募集であった。とくに華美な、と注が付いている理由については,我々にはさして考えずにわかることである。
シベリア育ちのクマのように餓えたソ連兵。監獄から解放された凶暴な兵隊の横行は少しも収まっていない。
自警団で防げるものではない。女性が断髪して、男装をしてみても、それで彼らの目をごまかしえたのはわずかの間であった。女性の災禍は少しも減っていなかった。華美な衣装、何未の女性、ソ連の将兵の結びつきは容易に考えられ、我々は暗い気持ちでそのことを話あった。
青葉町の裏通りに赤レンガ作りの倉庫があった。ここでもしばしば建物の側の陽だまりに集まって日向ぼっこをする姿が見えた。有刺鉄線の外側から人びとが好奇の目を放っていても、中の人は何の反応も示していない。難民は自らをみじめと思い、恥ずかしいなどと思う必要もないし、そんなことを思ってもいられない。無関心が一番よい。見世物にするならするがよい。こう語っている姿である。
私はある日、たまらない気持ちで倉庫の入り口に立って中をのぞいてみた。百坪もあろうかという広さに、一面藁屑が分厚く強いて有り、百五―六十人の難民が思い思いに寝ころんでいた。
関連記事
-
-
<クイズ>-世界で最ももてたイケメンの日本人はだれでしょうか③トミーの愛称の立石斧次郎
<クイズ>-世界で最ももてたイケメンの日本人はだれでしょうか③ 活 …
-
-
日本リーダーパワー史(751)ー歴史の復習問題『世界史の視点から見ないと日本人、日本史はわからない』●『 真田丸で人気の真田幸村や徳川家康よりも、世界史で最高に評価された 空前絶後の名将は「児玉源太郎」なのである。』『世界史の中の『日露戦争』ー <まとめ>日露戦争勝利の立役者―児玉源太郎伝(8回連載)
日本リーダーパワー史(751) 『歴史の復習問題『世界史の視点から見ないと日 …
-
-
終戦70年・日本敗戦史(67)大東亜戦争開戦日の「朝日新聞紙面」米英両国に宣戦布告〔昭和16年12月9日朝日新聞(夕刊)
終戦70年・日本敗戦史(67) 大東亜戦争開戦日の「朝日新聞紙面」 米英両国 …
-
-
『ナツひとりー届かなかった手紙』の解説ーー100周年を迎えたブラジル日系移民の歴史
『ナツひとりー届かなかった手紙』新橋演舞場2007年11月、公演のプログラム解説 …
-
-
石田勇治 東京大学大学院教授の「ドイツの戦後和解」(ナチズムの克服)の講演動画(120分)
石田勇治 東京大学大学院教授の「ドイツの戦後和解」(ナチズムの克服) の講演動画 …
-
-
日本の最先端技術「見える化」チャンネルー村沢義久氏の『水素電池に未来なし、トヨタは生き残れるか」「時代は太陽光発電と電気自動車へーカギを握るのは蓄電池」(30分)
日本の最先端技術「見える化」チャンネル ENEX2019(第43回地球環境とエネ …
-
-
日本一の三名園「岡山後楽園」の桜は満開で「桜祭り」が開催された(23年3月31日に撮影)★『後楽園・旭川・岡山城』の三拍子そろった『歴史文化景観スペース』は世界の都市の美的景観に引けを取らない』
岡山プラザホテル8階から撮影、後楽園上に岡山城がそびえる。 日本の三名園「岡山 …
-
-
「第1回ウェアラブルEXPO」-アドバンスト・メディアが音声認識・音声対話専用の「バッジ型ウェアラブルデバイス」を開発
日本の最先端技術見える化チャンネル ア …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(335)-「日本の深刻化する高齢者問題―大阪を中心にその貧困率、年金破綻と生活保護、介護殺人、日本の格差/高齢者/若者/総貧困列島化を考える」(上)
2016年(平成28)3月24日 講演会全記録 「大阪の高齢者問題―貧困率 …
-
-
葛飾北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をまねして『江の島沖の富嶽』★『逗子なぎさ橋珈琲テラスから富士山を眺めながらのスマホで撮影」(25 /12/06/am700)』
「逗子なぎさ橋珈琲テラスから富士山を眺めながらの講座」(25 /12/06/am …
- PREV
- 『地球環境破壊(SDGs)と戦った日本人講座』★『約110年前に足尾鉱毒事件(公害)と戦かった田中正造②』★「辛酸入佳境」、孤立無援の中で、キリスト教に入信 『谷中村滅亡史』(1907年)の最後の日まで戦った』
- NEXT
- 『地球環境破壊(SDGs)と戦った日本人講座』★『約110年前に足尾鉱毒事件(公害)と戦かった田中正造①』★『鉱毒で何の罪もない人が毒のために殺され、その救済を訴えると、凶徒という名で牢屋へほう込まれる。政府は人民に軍を起こせと言うのか。(古河市兵衛)こんな国賊、国家の田畑を悪くした大ドロボウ野郎!」と国会で「亡国論」の激烈な演説を行い、議場は大混乱した。』★『ただ今日は、明治政府が安閑として、太平楽を唱えて、日本はいつまでも太平無事でいるような心持をしている。これが心得がちがうということだ』
