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日本リーダーパワー史 ⑲ 明治国家の影の参謀・杉山茂丸は凄いよ

   

日本リーダーパワー史 ⑱ 明治国家の影の参謀・杉山茂丸
 
              
                    前坂 俊之
                 (ジャーナリスト)
 
民主党政権になって菅 直人さんが、国家戦略担当大臣として21世紀の世界の中の日本像、明治以来の日本の官僚制度の全面的な改革に取り組むということらしい。確かに、この国はノー天気なので、平和と安全は水と空気のようにいつでもあると考えている。総理大臣の多くが官僚の作文を棒読みすることが、日本の最高指導者の一番大切な仕事と考えているらしいが、明治には何人か国家戦略を真剣に考えて、武田信玄の軍師・山本勘助、豊臣秀吉の竹中半兵衛のような軍師・参謀役が確かに、いたのである。
昭和になって陸軍、海軍の参謀総長、軍令部総長らはいずれも愚昧な人物が連続し、今回の自民党の公共事業をはじめすべての国の事業でいったん始めるとそれをストップ、見直しできない暴走列車と同じように破滅に向かって「止められない、止められない、カッパエビセン!?」となってしまった。
ここで、明治国家の影の参謀、軍師を紹介する。今、必要な国家戦略立案の参謀を広く日本だけではなく、海外からも高額でヘッドハントしてみては、いかが・・・・
 
   明治国家の参謀・杉山茂丸
 
 杉山茂丸は明治、大正、昭和戦前に政財界の裏面で活躍した桁外れのスケールの怪物である。日清・日露戦争は杉山の舌先三寸と指先のさじ加減一つで、自在に操られた、といわれる。明治、大正の政治、外交、戦争の舞台裏には必ず彼の影があった。

 常識破りの発想と機略縦横、大胆不敵な行動力、その雄弁と構想の圧倒的なスケールの大きさから、世間では「茂丸」をもじって「法螺丸」「ホラ丸」と呼んだ。
雄弁、座談の巧さは当代随一であった。杉山は「怪人」「怪傑」「魔人」「政界の黒幕」「軍師」「天下の浪人」「国士」「懐刀」「参謀」「策士」「政治家の人形使い」など様々な呼び名がつけられた。
 朝日新聞副社長・下村海南は茂丸が亡くなった際の追悼文の中で、次のように書いている。
「その口舌は、座談においてまさしく蘇秦、張儀そこのけで、六尺に近い巨体を擁し、堂々、人を威圧する魁偉な容貌とどこまでも相手を魅力し、説服せねばやまぬ長広舌は、硬軟とりまぜて千紫万紅談論風発停止するところを知らず」(昭和十年七月二十七日付)
 その奇策縦横ぶりについても「元来、臍から瓢箪を出し、その瓢箪からまた駒を出す仙人的奇術に巧みな男」とも誓えた。しかし、杉山は自らを「もぐら」と称して、政治の表面に名をだすのを嫌い、もっぱら黒子に徹しての地下工作を専門としていた。

 彼が、歴史の正史に登場することは稀であったが、舞台裏で歴史の歯車を大きく回したことは間違いない。
 杉山は一八六四年(元治元)に筑前福岡に生まれた。父・三郎兵衛は黒田藩の諸藩応接役で長州征伐以来、高杉晋作と連絡をとり、東奔西走していた。
没落士族の子だった杉山は早くから自由民権思想を信奉し、ルソーの「民約論」に大きな感化を受けた。藩閥政府の打倒を念願し、一八八〇年(明治十三)に上京して政治運動に身を投じた。
 彼によれば、真の国士とは「四たい病」を退治した者であった。「長生きしたい、金をもうけたい、手柄を立てたい、名誉が得たい」の四つであり、「命はいつでも投げ出し、貧乏も平気で、縁の下の力持ちで、悪名ばかりをとる」。
これが杉山の目指した生き方であった。
 
   暗殺団の親玉に
 
 二十一歳となった杉山は「福岡藩に人物なし」と見限って、熊本の国士・佐々友房を訪ねた。佐々は西南戦争では西郷軍について戦い、捕まり懲役刑をくらい、熊本に引っ込んで教育家となっていた。
 見ず知らずの杉山は初対面の佐々にいきなり藩閥打倒を呼びかけ議論を吹っかけた。その上、ひどい貧乏暮らしの佐々に二百円の借金まで申し込んだ。

意気に感じた佐々は一銭も持ち合わせていなかったが、駆けずり回って翌日、百ハ十円を都合してきた。この金をテロ資金に充て、その抵当として杉山は「自分と政府高官の生首二つを差し出す」と約束をして上京した。
 杉山はすぐフランス革命のジャコバン党にならって『国を傷つけ民を惑わすものは、最終的には生首を掻き切ってしまう』を綱領とした「首浚(くびさらい)組」を組織した。その棟梁、暗殺団の親玉を自認して、薩長藩閥の巨頭たちをターゲットにしてつけ狙った。

 このため、杉山は警視庁から危険人物として追われる身となり、「迫害、追及をやめろ」と後藤象二郎からの紹介状を持って、まず総理大臣伊藤博文に不満を持っていた黒田清隆に面会を求めた。
黒田に会った杉山はいきなり「酒を飲んでおられますか」と聞いた。黒田は妻を酔って殺したとの噂があるほどの、大変な酒乱で聞こえおり、飲んでいるのかどうか念を押したのである。

 「私は貴下がごく正直で、精神の正しい御方で、私の申し上げることを聞いてくださる方と思って参りましたが、一方で酒を飲んで乱暴される御方とも聞いています。洒の力を借りねば乱暴できぬような卑怯な方と、真面目な話をするのは無駄でございます。元来、私も乱暴者でございますが、一滴も洒を飲みませぬ。故に、私の乱暴は始まったら止む時がございません。洒の力で始まる乱暴は酔いがさめると止まりますが、私のとは相撲になりませぬ」

杉山一流の恫喝をまじえながらの理詰めの弁舌で、「藩閥官僚は政権の詐欺師である」ととうとうと論じ立てた。
「後藤も面白い男を紹介したものじゃ。よろしい。今日は酒なしで話をしましょう」と黒田もいっぺんに杉山が気に入り、「迫害をやめるよう」に伊藤に取り継ぐことを約束した。
 それから、しばらくした一八八七年(明治二十)一月、杉山は山岡鉄舟の紹介状をもらって、伊藤を「首さらいの第一号」にしょうと出かけた。
 紹介状には「この田舎者は半端な政治思想にとらわれて閣下に怨恨をもっていますが、他日、国家のお役に立つと思いますので引見して説諭してください。ただし、凶器を所持しているのでお気をつけ下さい」とあった。

 伊藤は殺しにきた杉山に、護衛もつけず一人で面会した。杉山は凶器こそ持っていなかったが、荒ヒモを体に縛って、これで首を絞めて殺すつもりであった。
 ところが、初めて見た伊藤は想像以上に貧相で小柄な老人であり、これなら素手で縛り殺せると思った。杉山は九ヵ条の罪状を突きつけて糾したが、伊藤は恐れるどころか一つ一つていねいに答え、「君が私を殺して国事の汚点が晴れるなら結構だが、これは不可能だ。互いに命を大切にしてお国に尽くしたい」と懇々と諭した。

 杉山は自らの不明を恥じて、逆に伊藤の大度量に心服し政治に開眼するきっかけとなった。このあたりは坂本龍馬が勝海舟を暗殺しようとして、逆に弟子となったのと全く同じケースである。
 
③一人一党、無冠の政治家に
 
生涯の盟友となった玄洋社の頭山満に会ったのもこの年であった。頭山は三十二歳で、杉山より九歳上であったが、血気盛んな杉山に「才は沈才たるべし、勇は沈勇たるべし、孝は至孝たるべし。お互いに血気にはやって事の過ぎることだけは注意したい」と諭した。杉山は翻然として悟るところがあった。
 そして頭山とともに、絶対に刀を使えないように薬指を切り落としてテロをやめることを誓った。以後、国事に奔走することになる。

 しかし、頭山とは盟友関係にはあったが、杉山は玄洋社社員とはならなかった。生涯、子分をつくらず、杉山は「一人一党」 の一匹狼で行動した。
 杉山は頭山に事業をやるように勧め、自らは海軍の予備炭田や炭鉱の経営を始めた。その石炭の輸出をするため香港に何度も渡り、経済的な知識を吸収し、中国に対する列強の進出を目の当たりに見て国際感覚を養った。

 香港で英国商社「シーワン」を知り、イギリスの産業革命や銀行制度、エ業資本などについて学んできた。当時、玄洋社の壮士や支那ゴロ、大陸浪人のほとんどが国家主義者で経済的な知識や国際的なセンスが皆無なのに対して、杉山は全く逆で国際経済、外交にも精通した珍しい政策通であった。しかも、一対一で膝詰め談判してくるその雄弁には比類ない迫力があった。

 伊藤とは暗殺の一件以来、親しくなり木戸御免となった。陸軍の巨頭・山県有朋とは川上操六(参謀総長、大将)の紹介で合った。口下手で人づきあいに慎重な山県は六尺近い巨体で人を威圧する容貌魁偉と、一度口を開けば相手を説得、魅了してやまないその弁舌には電気に撃たれたように、杉山の魔力のコロリとなった。それから山県の寓居には、週二回とひんぱんに通って情報を運ぶ杉山の姿があった。
 明治の政界を牛耳っていた伊藤、山県二大元老に出入り自由となり、杉山はほぼ十年で東京の政財界の巨頭連のキンタマをつかんでしまったのである。
児玉源太郎、桂太郎、後藤新平、金子堅太郎、松方正義、寺内正毅らの間をひんぱんに行き来して、連絡、情報を伝え、ある時は相談役、知恵袋となり、元老たちの間のコミュニケーション役を果たした。
 こうした元老、政府高官たちも、自分の耳となり手足、口となる秘書的な人物を必要としていた。電話はすでにあったが、会って話し合うコミュニケーションがあまり発達していなかった当時、杉山は政治家の影武者として自由な立場で政策遂行に協力したのである。

 いわば、彼は無冠の政治家であった。一方、金のほうでも財界でも藤田伝三郎、結城虎五郎らいつでも引き出せるスボンサーを数多く持っていた。
  
・④影の参謀役
 
杉山は日清戦争では山県から軍資金をもらって壮士を朝鮮に派遣し騒動を起こしたり、右翼の内田良平らを伊藤に紹介して、日韓併合を背後から推進しているが、日露戦争では児玉、桂と組んで「影の参謀役」として一層、暗躍した。

一八九八年(明治三十一)、伊藤内閣が総辞職した際、杉山は肝胆相照らす仲の当時台湾総督だった児玉源太郎中将と、二人だけで日露戦争を遂行するための秘密結社を結成した。
 その密約では、
 ①日本はロシアと戦争しなければ国家ならない。
 ②国論を一致するため、今の小党分裂の政党を合同させること。
 ③その政党の党首は伊藤とする。
 ④伊藤の新政党にもし山県公が反対すれば、山県公を引きずり降ろす。
 という内容で、これを取り決め、杉山は伊藤に面会してこの話を切り出した。伊藤は烈火のごとく怒った。
「日露戦争などもってのほか。むしろワシは日露同盟を提唱しようと思っておる」
と一喝されてしまった。山県に持ちかけると「国力、兵力の段違いのロシアと戦争など軽々しく言うな」とたしなめられ、井上馨からも「大馬鹿者の暴論じゃ」と罵倒された。

 以後、三年間、杉山らはこの件は一切他に口外せず、沈黙を守っていた。
伊藤は下野しており、二大政党の自由党、進歩党が絶えず反目して議会が混乱していたのに対して、自ら政党の組織作りを決意して動き始めた。杉山も伊藤の所を訪れ、政党作りをたきつけていった。しかし、金に淡白な伊藤には政治資金がなかった。

 チャンス到来とばかり、杉山はその資金のスポンサーを買って出たが、伊藤は「君の金は使うわけにいかぬ」と断った。
「閣下のご存命中はどんなことがあっても口外いたしません」と約束して、杉山は早速その足で、大磯から東京に帰り、翌朝、かつて事業に協力して大儲けさせたことのある実業家を訪ね、「至急、十万円を用立てて欲しい。伊藤の存命中はこの件は秘密にしておく」との条件付きで依頼した。今の金に換算すると、五億円近い大金である。

 数日後、その実業家から金を受け取った杉山はその足で大磯の伊藤を訪ねた。
「お約束のものです。これに入れておきますから」
と机の下にあるワニ皮のカバンに現金十万円を入れて、すぐ引っ返した。
翌日、伊藤は秘書官に手紙をもたせてきて「拙宅の忘れ物を引き取ってくれ」と厳重な申し入れがあったが、杉山は「忘れ物などありませぬ」とはねつけ、以後再三の呼び出しにも応じず、行方をくらましてしまった。

 杉山は、金にきれいな伊藤がこの大金を使って必ず政党作りに動き出すとにらんでいたが、案の定、半年ほどして、伊藤は立憲政友会を組織することを発表した。

  杉山、児玉の秘密同盟に桂が加わったのは一九〇一年(明治三十四)六月の桂内闇が誕生する直前であった。ロシアに対抗するためには当時、世界で唯一つの超大国・イギリスを味方につける日英同盟が不可欠であり、三人はこの点でも意見が一致しており盟約を結んだのである。
 ところが、伊藤がその前に大きく立ち塞がっていた。「俺の目の黒いうちは決して日露戦争なぞ実現させぬぞ」と言明していた。伊藤は「日露協商」を何とか締結したいと考えており、「日英同盟」には真正面から反対していた。

 伊藤の腹をいち早くつかんだ杉山は、この難問を解決するために奇策を編み出した。日露戦争の戦死者の第一号にまず伊藤を祭り上げることであった。日英同盟は日本側の一方的な申し込みの場合には条件が悪くなる。英国側にも同盟のメリットを十分認識させる必要があった。
「天皇の信任の厚い伊藤が直接でかけて行ってロシアというヘソを押せば、必ず日英同盟という屁が出る」と杉山は桂ら二人に断言していたが、その目に狂いはなかった。

 杉山は自らの意図を隠して、伊藤にロシア行きを熱心に勧めた。桂、山県、児玉もこれをバックアップした。宮中より十五万円の下賜金があり、伊藤は勇躍、ロシアに出発することになった。杉山も米国に旅立って膳立てを進めた。
 一方、桂は秘密裏に日英同盟の交渉を急いでいた。明治三十四年十一月に伊藤がロシアを訪問して日露協商を協議中に日英同盟の成立が決定された。

 当時、大英帝国もシベリア、満州、ビルマ、インド、アフガニスタン、ペルシャなどの世界各地でロシアの脅威にさらされていた。世界にその存在さえもまだ知られていなかった東洋の一小国・日本と大英帝国が同盟を結んだことは、各国に大きな驚きを持って迎えられた。

 日英同盟は伊藤に煮え湯を飲まされ、面子が丸潰れであった。以後、元老であり、政友会を率いた伊藤は、海軍拡張によって日露戦争を着々と準備する桂内閣にことごとく反対の態度をとるようになる。

一九〇三年(明治三十六)四月二十一日、京都にある山県の別荘「無隣庵」で極秘に伊藤、山県、桂、小村寿太郎が集まって日露戦争の方針が決定され、ただちに天皇の裁可を得た。この時、杉山は児玉とともに別室に控えて会議の成り行きを見守っていた。
 日露戦争に備えた軍艦五万トンの補充費を巡って桂と伊藤は対立して、ついに桂は辞表を提出した。再び伊藤が立ちふさがったのであった。杉山は思案にくれていたが、歌舞伎座に見物に行った際、舞台から踊っていた主役が突然、天井につり上がって消えていくシーンをみて、ピンとひらめいた。

 早速、児玉と相談して、伊藤を枢密院議長に祭り上げ、政友会総裁もはずさせる案を山県や他の元老の間をかけ回って根回しした。伊藤に鈴をつける役目は杉山がやり、伊藤自身からも承諾書を取り付けた。

 天皇から伊藤に枢密院議長の勅語が出ると同時に桂の辞表は不可となり、桂は翌明治三十七年二月に開始された日露戦争に真正面から取り組むことができるようになった。
 
 ⑤・満鉄プラン
 
 伊藤が日露開戦と同時に、ルーズベルト米大統領とハーバード大学で同期生だった金子堅太郎を外交戦略の一環として派遣したことはよく知られているが、杉山がフランスに宮崎民蔵(宮崎東天の兄)を派遣してレーニンに会わせ、レーニンのメッセージを持って帰った宮崎の進言で、児玉と計って、明石元二郎大佐を秘密工作員としてヨーロッパに派遣したことはあまり知られていない。

 このころ杉山はレーニンらをイギリス、ドイツ、ポーランドの協力で、レニングラードへ密封列車で送り込むエ作にも係わった。日露戦争の終結にあたり、日露講和条約についても満州軍総参謀長となっていた児玉が絶好のタイミングで帰国して決めたことになっているが、この裏で杉山が重要な役割を果たしていた。

 児玉は満州に渡る際、杉山に「どんな情報でも逐一自分に知らせてほしい。仔細な情報こそ戦略上、役立つものだ」と依頼していた。

 一九〇五年(明治三十八)三月、杉山のところに知り合いの米国商社員・モールスとその友人で「ニューヨーク・タイムス」秘密通信員・ナップが訪ねてきて、驚くべき話をした。
モールスがあるドイツ人、オランダ人から聞いたとこでは、奉天の勝利以後の日本軍の戦略について、その占領計画、軍費、兵力動員などの具体的数字が盛り込まれた作戦計画がドイツ参謀本部に漏れているというのであった。
 「米国が日本を援助するにしても、すでに日本軍は戦争能力の底をついているのではないか」。
この話が事実かどうか、モールスは確かめるため、山県参謀総長に近い杉山にナップを同道した、というのであった。

 杉山は「その返事は自分が調査して知らせる」といって帰ってもらった。この重大情報をすぐ四千字近い暗号電報にして奉天の児玉あてに打電した。その最後には「ことの真偽はいざ知らず、こうした情報が外国に漏れるような事態は帝国にとって大問題。帝国の軍機はその統率を失った。速やかに全部の軍功を犠牲にしても日露講和の時機と思う」と書いた。

 極秘電報を打ち終えると、すでに午前三時近くになっていたが、その足で山県宅を訪れて伝えた。驚いた山県は即座に参謀本部の部下を電話でたたき起こしてナップがつかんでいた数字を確認した。漏れていたのは事実であった。

山県も「今が戦いの潮時である」と、決意を杉山に告げ、その足で桂のところに向かった。杉山が自宅に帰ってしばらくすると、柱から呼び出しがあった。山県にした説明を桂にも繰り返して、杉山は「勝った今が絶好の時期です。間髪を入れず日本から講和を申し込むのです」と強調した。

「どこに申し込むのじゃ」「米国です」「なぜ、米国に申し込むのじゃ」「米国は日本の勝利が決まれば、世話を焼きたくてたまらないのです。その事情は金子堅太郎がよく存じております」
 杉山はビスマルク、ナポレオンの戦略、故事を引きながら、今が潮時です、と桂を説得した。数日後、児玉から桂あてに電報が届いた。
「軍状報告のため上京したいので勅許をいただきたい」

 三月末、児玉は秘密裏に帰国して四月八日に御前会議が開かれた。 五月、日本海海戦勝利。六月、米国大統領ルーズベルトが日露両国に講和を勧告した。満州軍の各軍司令官を奉天に招集して講和を伝えるべく、七月十四日、山県は東京を出発した。その一行には村田淳陸軍少将らの陸軍軍人の中で唯一人、民間人として杉山が加わっていた。

 暗号電報の一件など日露講和への過程で決定的な役割を果たしたことは、最高機密の満州行きに山県と参謀本部の軍人ばかりのなかで、杉山一人がその知恵袋として同行している点をみればわかる。

この時、同行した堀内文次郎中将は「黒白」(大正十四年三月号)に秘話を紹介している。
「山県公以外に杉山が乗船することは誰も知らず、全員あ然とする中で、ノコノコと乗ってきた杉山は山県公のケビンに入ったきり出て来ない。何が話し合われているのかまったくわからない。

 奉天に着くや各人の割り当ての部屋があるのに、杉山は児玉総参謀長の宿舎に泊り込んだ。参謀本部の部下でも容易に入ることの出来ない中で、二人の苦心の策が南満州鉄道であった」
 杉山の活動について堀内は、児玉、山県、寺内の存命中は「政治、外交、軍事の秘密金庫であった」とも語っている。

 杉山は満州軍総司令部の奥の一室に自由に出入りして、児玉の寝室で一緒に枕を並べて寝起きしていた。今後の満州計画を練っていた杉山に帰国直前になって、児玉は極秘の茶色の四つの大封筒を渡した。
「今後の大陸の仕事は鉄道じゃ。この封筒の中に日本軍が占領した南満州の鉄道、用地などの明細書が入っておる。君に託するから、この経営をどうしたらよいか、いい案を出してほしい」
「鉄道については私も日夜腐心していたところです。国民を引き入れての計画でなくてはなりませぬ」 
山県の一行と帰国した杉山は、向島の別荘に引き籠もって十三日間にわたって草案を練った。さらに書類を精査して有価物件をすべて抜き出し、米国商社員・モールスや大阪の藤田伝三郎らに評価を依頼した。

 モールスの見積り額は二億四千六百万円、日本側は八千六百万円となった。両者を比較すると日本側は三分の一の評価しかなかったが、鉄道の敷地などの不動産価値に無知だったのである。
「ロシアから多大な犠牲の上に手に入れたものであり、死傷した軍人や国債のためにも申し訳ない」と 杉山はこれを基にして考え、見積りを二億円にアップした。

 資本金を二億円の官民合同会社として政府出資金が一億円、民間から株式で一億円を集めて、鉄道経営やその敷地内の炭鉱経営などにもあたる南満州鉄道会社を設立した。創立委員を数百人、委員長を児玉とする計画を作り、凱旋した児玉に書類全部を手渡した。

 この満鉄プランは具体化することになったが、満鉄総裁に杉山は無二の親友の当時台湾の民生長官だった後藤新平を担ぎだした。
 
⑥・米国財閥モルガンとの一件
 
 杉山の関与は多岐にわたっているが、特筆すべきはその国際的な経済通であり、交渉能力に秀でていたことである。
 富国強兵の第一はエ業力にある。杉山が玄洋社の連中と完全に分けたのは経済に明るいことで、彼自身が貿易に従事したことがあり、香港、米国にたびたび渡って工業について研究して、日本興業銀行の設立のためにも動いていたことであった。

 日露戦争の外債募集で政府から米国へ派遣されたこともあった。このあたりも元老たちが彼の政策提言に真剣に耳を傾けた要因であった。第四次伊藤博文内閣時に伊藤から台湾事業の公債三千五百万円の米国起債の調査を引き受けたり、政府外債五千万円の起債の画策を命じられたりしている。
一八九八年(明治三十一)、外資導入のため、杉山は単身、米国に渡り当時、一国の元首でも会うのは難しいといわれた世界一の金融業者であったモルガン財閥のJ・モルガンに面会した。語学の出来ない杉山は通訳を連れての面会だったが、その抜群の交渉術と舌先三寸によって一億三千万ドルという巨額の融資を引き出すことにまんまと成功した。

 この時のやりとりは杉山一流で無類のおもしろさがある。

交渉がやっとまとまった時、杉山は「話の内容を覚書にしてもらいたい」と申し出た。
 すると、モルガンは突然それまでの態度を一変させ、驚くほどの大声を発して怒りだし「このモルガンが承認したんですぞ!」とテーブルをドンと叩いた。これには杉山以外の部屋にいた全員が度肝をぬかれた。「契約破棄か?!」と青くなった。

ところが、杉山はおもむろに「もう一度テーブルを叩いていただきたい」と言った。
 「ホワイ!」
とモルガンが緊張して尋ねると、杉山がタンカを切った。
 「もう-度叩けば、その昔が日本まで聞こえることでしょう。私は政府の関係者でもなく一介の旅行者です。世界の黄金界の代表のあなたに会えて、ありがたい話を頂いたのでその声、音を日本の政府、国民に知らせたいのです。そのためには、テーブルを打つ音よりも、あそこにいる美人秘書のタイプライターの音のほうがよいのです」
 これにはモルガンもー本とられて、秘書にタイプを打たせて、覚書を手渡した。

 この覚書は伊藤、井上らに手渡されたが、あまりの巨額に信用されず、残念ながら握りつぶされてしまった。しかし、これが日本興業銀行の計画の基礎となったのである。

 日露講和条約では樺太の割譲以外、賠償金は一切取ることは出来なかった。ところが、杉山の献策でカムチャッカ周辺の三十年間の漁業権を取った。当時、漁業権がそんな利権になるとの認識がロシア側にはなくスンナリと認めたが、これはその後、一年間で三億円として九十億円以上の利益をもたらす北方漁業のドル箱になったのである。
 
⑦・明治国家の大参謀
 
 杉山についての世間の誤解は玄洋社・頭山満の盟友で右翼浪人、大陸浪人の一人とみなされたことであった。確かに頭山満と終生、盟友関係にあったことは事実だが、これらのファナティックな国家主義者とは一線を画していた。

 杉山は組織に属さず単独で行動し、その思想は国家主義者という枠だけでは捉えきれず、その時代をはるかに越えた合理主義者であり、リベラリストの面が強かった。

 ロシアの進出に対しては、断固戦う姿勢をとったが、日清講和の下関会議では伊藤を訪ねて、遼東半島の領有には反対の意見を具申して退けられている。その後の三国干渉によって杉山の見通しどおりになった。

 杉山の中国観は、「支那は永久に滅びることのない強い国であり、日本は支那の出方、やり方によってただちに滅びる弱小国である」との認識に立っていた。

「日中は全東洋の資源を世界に開放して開拓し、外国からの中国への侵略は共に防衛にしていく。中国での利権や代償はもとむべきものではない」というものであり、軍人に対しても「平和維持のサーバントとして、国家の防衛を限度として侵略すべきものではない」、との見解を持っていた。

 昭和に入って、中国への軍事的介入を深めていくことに杉山は危機感を持っていた。 世間では杉山を権力者の間をうまく遊泳したマキャベリスト、権力主義者、陰険な策士、法螺丸という軽侮のまなざしで見るものが多かったが、それは誤解であった。
 杉山は地位とか名誉には無関心であった。フィクサーの役目を果たしながら、金儲けをして、金を自らのフトコロにいれることはしなかった。伊藤から警視総監への就任を要請された時も即座に断っている。元老たちからの信頼はこの辺にもあった。

 確かに、日清・日露戦争をはじめ明治の国家的なプロジェクトの陰で杉山は伊藤や山県らの元老や巨頭らを「人形遣いとして」自在に操りながら、神出鬼没、縦横無尽に活躍しており、これらが杉山の手の中で作られたことは事実である。

このほか、 杉山は大正の政変、戦争、大陸計画、産業計画にも数多くかかわっており、明治国家の陰のデザイナー、プランナー、いわば「明治国家の参謀」といって過言ではない。
 
 長男の作家・夢野久作は『近代快人伝』の中で「茂丸はいつも右のポケットには二、三人の百万長者をしのばせ、左のポケットにはその時代の政界の大立者四、五人はしのばせて『政治は道楽だ』といいながら、自在にあやつった」と書いている。

  確かに、茂丸は神出鬼没、縦横無尽に活躍しており、その行動は波瀾万丈である。しかし、自らをモグラにたとえた茂丸は裏方に徹しており、「その日暮らしが一番性にあっている」として、「其日庵」と称していた。

日本が再び日中、日米戦争という大戦争に突入しようという前夜の一九三五年(昭和十)に七十二歳でなくなった。

「日本もアジアも後はどうなっても知らんぞ」が最期の言葉であった。


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日本リーダーパワー史(443)「国際ジャーナリスト・前田康博氏から「韓国・朴槿恵 大統領誕生から1年・その深層」緊急座談会(動画40分)

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『リーダーシップの日本近現代史』(45)記事再録/<まとめ再録>『アメリカを最もよく知った男・山本五十六連合艦隊司令長官が真珠湾攻撃を指揮した<悲劇の昭和史>

  2015/11/13 /日本リーダーパワー史(600) …