前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

◎「司法殺人(権力悪)との戦いに生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝④」全告白『八海事件の真相』(上)

   

 

◎「世界が尊敬した日本人―「司法殺人(権力悪)との戦い

に生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝④

 

全告白『八海事件の真相』(上)

<死刑冤罪事件はこうして生まれた>

前坂 俊之(ジャーナリスト) 


「サンデー毎日」(1977年9月4日号)から

 

八海事件とは・・・・・・・・1951年(昭和二十六年一月二十四日、山口県熊毛郡麻郷村の老夫婦が殺害され、現金一万六千円余が奪われた事件。犯人として村の青年、Y、主犯にされたAら計5人が逮捕された。Aら四人は犯行を否認したが、別表の通り、第一審判決では五人が有罪とされた。 

第二番(広島高裁)でも五人有罪、が、ここで無期懲役判決を受けたYだけは、服役した。Aら4人は上告。こうして、第一次上告審では、正木ひろし弁護士が『裁判官』『検察官』という本で無実を訴えたため「世間の雑音に耳を貸すな」といった田中耕太郎最高裁長官と論争になり、注目するようになった。
 

 また、これを映画化した「真昼の暗黒」が評判になり、差戻しの広島高裁ではAらは無罪になった。-ところが、検察側が再上告したため、再び差戻しになり、今度はAは死刑。三度月の最高裁でやっと全員無罪が確定した。十七年九月という年月の長さといい、七回という判決の回数といい、日本の裁判史上に例がなく、〝真昼の暗黒〟は冤罪の代名詞となった。(これ以降、甲山事件が7度裁判をおこなった)

 事件もナゾが解れば案外こんなものかもしれない。約十八年間、七度も裁判を繰り返した世紀の冤罪事件・八海事件もフタをあければ、拷問と死刑の恐怖から真犯人が多数犯を偽証していたのである。

 

 真犯人のYが残した三十五冊の告白ノート。この中でYは八海事件の驚くべき内幕を暴露している。

「知能の低い、ウソつき」と正木ひろし弁護士から、決めつけちれたYは警察官、検事をだまし、互いに慣れあい、果ては「裁判官なんて私以下のバカ」と最後っ屁を放っているのである。

 日本の裁判がこんなにも愚弄された例はあるまい。それにしてもこんなウソつきの言葉を真に受け、無実の者を死刑台に送ろうとした裁判官が計二十五人中十三人もいた事実はあまりに深刻ではないか。記者は約六年間、ときにはYと寝食をともにしながら、〝真昼の暗黒〟の真相に迫った。以下はその報告である。

                                            

●見取る家族もなかった49歳の死

 

 1977年(昭和52)七月十一日朝。ちょうど国民が参議院選挙の速報に一喜一憂していた時である。瀬戸内海の名所の一つ〝音戸の瀬戸が眼前の呉共済病院音戸分院の一室でYはひっそり死んだ。胆のう炎。四十九歳。仮出所中で、しかも昨年五月呉市内でおこした殺人未遂事件の被告でもあった。

 

 その夜。旧呉海軍工廠付属病院のボロボロの廃屋の中にYの遺体はポッンと安置されていた。まるで化け物屋敷。もちろん、通夜に訪れる人もいない。床は海岸が近いせいかカニがはい回っている。

全く孤独な死。Yにふさわしい長期といえるかもしれない。身元引受人の原田香留夫弁護士が山口県内に住む兄に電話した。「マスコミが騒ぐなら行きません」

 この兄は何度か念を押し、翌日あらわれ、その日のうちにあわただしく火葬し、帰ったという。

 こうして、希代のウソつきといわれたYのロは、永久に閉じられた。あとには三十五冊にのぼる膨大な大学ノートの手記が残されていたのである。

二、三日後。地元の呉警察署の幹部が記者連中に、こう言ったそうだ。

「特ダネを逃がしましたナ。Yは死ぬ瞬間にAらと一緒にやったんじゃと、言い残さんかったかネ。その遺言を聞けば特ダネになったのに……

 冗談とはいえ、その底にはYの単独犯行を否定する消しがたい偏見が見える。事件が決着しても、偏見は生きつづけるところに、冤罪がいつまでたってもなくならない理由があるのかもしれない。

 

●仮出所した後、謝罪の旅に

 

Yは四十六年九月二十二日に広島刑務所を仮出所した。事件以來、実に二十年八ヵ月ぶり。呉市内の更生施設に入り、造船所に就職、第二の人生にスタートした。
 

 二日後に呉市在住の八海事件弁護団の原田弁護士に会い、罪をわびた。そして、「何とかAさんたちにも謝罪したい」と申し出た。原田弁護士に異存があろうはずはない。十月二十五日にこれは実現する。A,Hの元被告が出席、原田、佐々木哲蔵弁護士が同席した。
 

 Yか、Aらか、どちらが、ウソをつき、真実を述べたのか。十八年間におよぶ八海事件もこの会見にまさる場面はなかった。

 ナゾの多い帝銀事件や、松川事件など戦後の数多い冤罪事件は真犯人が不明だとか、どこかに空自の部分があった。しかし、八海事件だけは、真犯人が公判廷でウソはウソなりに証言を続け、最後にはすべてを暴露したのである。

 会見はAのあえぐような、かすれた声とAの落ち着いた堂堂とした声で始まった。声のはっきりと対照的な相違を聞くだけでも、どちらがウソをついたかは明瞭だった。

 

◎ウソの証言で死刑に巻き込んだ仲間に謝罪する旅にでる

 

Y「ウソをついて、誠に申し訳ない。なんば、おわびしても許していただけないと思うけど」
 

A「許すも許さんも、吉岡君の出方一つだ。迷惑をかけたみなさんに同じようにわびる必要がある七思う」
 

Y「みなさんに迷惑をかけたことはどんなにおわびしても許していただけないと思う。Aさんの日記を読んで涙が出て仕方がなかった……
 

A「残念なのは、それをもっと早い時期に言ってほしかった、十年も続く前に。今日はここであなたが良心からそう言うなら、許してもよい:・」

Y「一生、社会に出られないと思っていた。刑務所、検察庁のいうなりになっておけと決心しそうした」
 

A「これは、本当に思うけれど、裁判も公正で最後には真実が勝った。もし」不正な裁判で、そのまま僕は無実の死刑が決まっていたら。今だかこうやって話し合えてメデタシになっている。Yも心では重荷になったかも知らんが、一つの安堵を持って、仮出所してきた。そこの点をよく考えてほしい」
 

 年が明けて、四十七年一月二十六日。Yは原田弁護士とともに他の被告へ謝罪の旅へ出た。名古屋でI、A

の実弟にも会い、わびた。

 十八年間にわたる無実の苦しみが、一片の謝罪やおわびですむものではないにしても、かつての被告の間では、こうして事件はひとまず落着した。

 

                                                  つづく

 - 人物研究 , , , , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『Z世代への昭和史・国難突破力講座㉓』★『日本一の戦略的経営者・出光佐三(95歳)の独創力・ケンカ力③』満鉄・陸軍に対しても不合理な要求には断固戦い、ケンカも辞さない土性骨があった

2021/12/27『オンライン/ベンチャービジネス講座』記事再録、再編集 前坂 …

no image
知的巨人の百歳学(101)家康・秀忠・家光の三代に仕え、徳川幕府250年の基礎を築いた史上最高の戦略家・南光坊天海(108?)の長寿法は『長命には粗食、正直、湯、陀羅尼(だらに)、御下風(ごかふう)あそばさるべし』

家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えた「陰の宰相」南光坊天海(108?)の長寿法 日 …

no image
最高に面白い人物史➂人気記事再録★コスモポリタン「バロン・サツマ」(薩摩治郎八)の花の生涯(上)「空前絶後の完勝の日露戦争―山本権兵衛のリーダーパワーに学べ」―パリで最高にもてた日本人の話(伴野文三郎)

  コスモポリタン「バロン・サツマ」(薩摩治郎八)の花の生涯(上) h …

日本リーダーパワー史(559)世界が尊敬した日本人ー明治維新を点火した草莽の革命家・吉田松陰

  日本リーダーパワー史(559)     世界が尊敬した日本人 明治維新を点火 …

★『大爆笑、メチャおもろい日本文学史』⑤『アイヌ「ユーカラ」研究の金田一京助はメチャおもろい』講義は人の3倍の情熱、純情一直線の金田一先生』

  ★『大爆笑、メチャおもろい日本文学史』⑤ 「言語学者・金田一京助」 …

no image
知的巨人たちの百歳学(180)記事再録/「巨人政治家、芸術家たちの長寿・晩晴学③」尾崎行雄、加藤シヅエ、奥むめお、徳富蘇峰、物集高量、大野

 2012/12/31  百歳学入門(64) &n …

no image
下村海南著『日本の黒幕」★『杉山茂丸と秋山定輔』の比較論

2003年7 月 前坂 俊之(静岡県立大学教授) 明治国家の参謀、明治政府の大物 …

『リーダーシップの日本近現代史』(157)再録/『日本一『見事な引き際・伊庭貞剛の晩晴学②『「事業の進歩発達を最も害するものは、青年の過失ではなく、老人の跋扈である。老人は少壮者の邪魔をしないことが一番必要である」』

    2010/10/25 &nbsp …

no image
日本リーダーパワー史(463)「西郷隆盛」論④明治維新で戦争なき革命を実現した南洲、海舟のウルトラリーダーシップ

 日本リーダーパワー史(463) 「敬天愛人」民主的革命家としての「西 …

no image
記事再録/日本リーダーパワー史(846)ー『原敬の「観光立国論』★『観光政策の根本的誤解/『観光』の意味とは・『皇太子(昭和天皇)を欧州観光に旅立たせた原敬の見識と決断力』★『日本帝王学の要諦は ①可愛い子には旅をさせよ ②獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす ③昔の武士の子は元服(14/15 歳)で武者修行に出した』

2017/09/23日に書いた日本リーダーパワー史(846)★記事再録『原敬の「 …