『オンライン/75年目の終戦記念日講座』★『終戦最後の宰相ー鈴木貫太郎(78歳)の国難突破力が「戦後の日本を救った」-その長寿逆転突破力とインテリジェンスに学ぶ
2020/08/14
2015/08/05 日本リーダーパワー史(577)記事再録
不死身の鬼貫、グル―米大使との友情、敵将ルーズベルトへの弔意、聖断で終戦
を勝ちとった土壇場力、稀有の包容力、グッドルーザーになれと吉田茂外相
にアドバイス、その晩年の超人力が日本の再生力となった。
前坂俊之(ジャーナリスト)
鈴木貫太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E
2・26事件の前日、グルー駐日米大使と夕食会
昭和11(1936)年2月25日。斉藤実首相、鈴木貫太郎侍従長は夫妻でグルー駐日米大使の大使公邸での夕食会に招待され、楽しく歓談した。
午後11時すぎに鈴木夫妻は侍従長官邸に帰って寝入りばなを、女中にたたき起こされた。2・26事件である。
襲撃した反乱部隊兵士は「理由は何だ」と聞く鈴木の胸や心臓付近、頭などに四発の銃弾を浴びせた。鈴木は大量出血し、部屋は血の海と化して兵士がすべって転ぶほど。兵士の一人が「まだ脈がある。とどめを……」と叫び、銃口を頚部に押しあてた瞬間、側に黙っていた正座していた夫人が「武士のなさけです。それだけは私に任せてください」ときびしく一喝した。
その気迫におされ、指揮者の安藤輝三大尉は「閣下に、捧げ銃!」と号令して、そのまま引き上げた。部屋は血の海で、鈴木の心臓、脈とも一時的に止まったが、奇跡的に命を取り留めた。同時に襲われ斉藤首相は殺害された。
たか夫人のこの機転の一言がなければ、鈴木は助からず、昭和天皇の聖断による終戦はなかった。たか夫人の一言が日本を亡国から救ったのである。
グルー大使は事件発生後直ちに、斉藤首相を見舞い、救援に動く中で斉藤夫人、たか夫人たちの献身的な行動に武士の妻のサムライ精神をみて深く感動し、日本理解を深めた。太平洋戦争末期の44年12月にグルーは米国務次官になり、鈴木が首相となって日米双方での戦争幕引き役がそろって登場することになる。
鈴木は慶応3年(1868)1月、泉州久世村(現在の大阪府堺市)の関宿藩の陣屋(大官所)で、大官・鈴木由哲の8人兄弟の長男として出生、二男の隆雄は後の陸軍大将、靖国神社宮司である。
海軍軍人となり、日清戦争では旅順港攻略に参加、日露戦争では軍艦春日副長、明治43年海軍水雷学校校長になるなど、水雷艇の専門家で『鬼の貫太郎』として活躍して、海軍軍人として、順調に階段を上った。
明治三十年四月、30歳で大沼とよ(十八歳)と結婚した。夫婦仲は円満で、貫太郎は海上勤務に専念し、とよは『軍人の妻』として家を守り、3人の子供をしっかり育てていた。『鬼の貫太郎』の名をほしいままでできたのも、この妻あってのことだった。
しかし、明治45年9月、とよ夫人は33歳の若さで急死した。5歳から13歳の3人の幼子が残され、鈴木は途方にくれる。臨終のみぎわに、鈴木は10歳の長男・一(はじめ)に「一、大きな声でお母さんとよんでみよ!」と何度も大声で呼ばせた。それは貫太郎自身の悲痛な叫びでもあった。
それから、3年後の大正4年6月、鈴木は48歳で、足立たかと再婚した。たかは東京女子師範学校〔御茶ノ水大学〕附属幼稚園の教諭であったが、明治38年から大正4年まで皇孫御用掛として幼少時の昭和天皇・秩父宮・高松宮の養育に当たっており、昭和天皇はこのたかの影響を強く受けた。
鈴木は、大正13年、連合艦隊司令長官を務めた後、昭和4年から8年間、侍従長として、天皇のおそばで仕えたのである。そして、昭和20〔1945〕年4月、大日本帝国の最期の土壇場に一度死んだ鈴木が再び、登場する。戦時終戦内閣を七十九歳の老齢で大任を担うことになる。
ここに昭和天皇、鈴木首相夫妻、グルーという日米の信頼、理解の線が一本につながり、決断を生んで、大戦争を終結させる奇跡を起こすのである。それは、この人間の間で生まれた友情と信頼、愛情であった。
、ジョセフ・クラーク・グル―(Joseph Clark Grew)
1880.5.27~1965.5.25。ボストン(米国)出身。 1902年ハーバード大学卒。04年国務省に入る。カイロ総領事館書記官を振り出しにメキシコ、ロシアのアメリカ大使館勤務を経て、第一次世界大戦勃発時には駐ドイツ大使館参事官。アメリカ参戦の時はウィーン代理公使。対ドイツ休戦条約予備交渉に当たる。その後、デンマーク公使、スイス公使を歴任。24年から29年まで国務次官。27年から31年までトルコ大使、31年に駐日大使となる。日米開戦回避に尽力するもならず、42年交換船で帰国。国務長官特別補佐官。戦時中は親日派として通し、44年国務相極東局長、12月には国務次官。ポツダム宣言起草では天皇制存続を主張、また穏やかな対日占領政策となるよう尽力した。45年引退。60年勲一等旭日大綬章を贈られている。駐日大使時代の回想録などを著述
鈴木が優れた政治的感覚の持ち主であることを証明する出来事が起きた。米敵国のルーズベルト大統領が亡くなった時である。同盟通信の短波放送で、「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。」という談話を世界へ発信したのであある。同じ頃、ドイツのヒトラーは敗北寸前だったが、対照的にルーズベルトを罵った。アメリカに亡命していたドイツ人作家・トーマス・マンは鈴木の武士道精神を高く称賛したのである。
この時期、和平や終戦は一切タブーであり、鈴木は和平を深く胸中に秘めて、態度には微塵も出さず「国民よ行け、わが屍を越えて」と訴え、軍を収めることに全精力を集中した。
天皇が終戦の聖断を下すのには鈴木の決断力が大きかった。御前会議で天皇の終戦の聖断を引き出すことができたのは天皇と鈴木の信頼関係によるものであった。
ポツダム宣言受諾の通告は八月十四日午後十一時に連合国に発せられた。十五日正午に天皇の玉音放送による終戦の大詔が出され、内閣は総辞職した。
昭和20年8月15日、大日本帝国は終戦の詔勅を発表した。前夜の御前会議で、天皇の聖断によってポツダム宣言の受諾を決定した。15日正午から、玉音放送によって全国民に周知する。陸軍を抑えることが最大に難関だった。
鈴木の腹芸と阿南の大度量でからくも押さえきった。御前会議が終了し、すべての手続が終わり、首相官邸の総理大臣室で十四日午後十一時過ぎ、鈴木首相が迫水久常秘書官とほっと一息していると、軍刀をつった阿南惟幾陸相が入ってきた。
いかは、迫水久常秘書官の回想録である。
「丁度十四日午後十一時過ぎでありました。終戦に関する詔勅の公布に関する一切の手続きを終わり、各閣僚はそれぞれ追出された後、私は総理大臣室で、鈴木総理と相対座しておりました。大事を終わった後のひと時でありますが、ただわけもなく涙が流れて仕方がありませんでした。そのとき戸口を叩いて、阿南大臣が入って来られました。軍刀をつり、帽子を小脇にかかえて入って来られ、総理に対して直立不動の姿勢で、
『終戦の議が起こりまして以来私はいろいろ申し上げましたが、総理に御迷惑をおかけしたことと思い、ここに謹んでお詑び申し上げます。
私の真意は、三にただ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものはございません。この点は何とぞご了解下さいますように』と涙と共に申されました。
総理はうなずきながら、阿南陸相の側近く寄られて、手を肩におき、「そのことはよく分かっております。しかし阿南さん、日本の皇室は必ず御安泰ですよ。何となれば、今上陛下は春と秋の御祖先のお祭りを必ず御自身で熱心になさつておられますから』と言われました。
阿南さんは、これに対し両頬に涙を伝わらせながら、『私もそう信じます』と申され、敬礼をして静かに追出されました。私は玄関までお見送りをして、総理室に帰って参りますと、
総理は『阿南君は、暇乞いに来たのだね』と言われました。このときの光景は、私の終生忘れられないところでして、殊に経理のお言葉は、誠に深遠な意味があると思います
7 度も転居し、田園に閑居する
大役を終え鈴木が帰宅した十五日午前四時ごろ、小石川丸山の私邸は兵士ら約百 人の暴徒に襲われた。 機関銃が乱射され、私邸も焼き打ちされた。車で裏道を通って逃げたため、暴徒とか ち合うことなく危機一髪で難を逃れた。
裸一貫、無一文となった鈴木は悪化する治安の中で、暴徒のさらなる襲撃を避ける ため住居を三カ月の間に七度も転々と変えた。 二十年十一月、鈴木の故郷だった千葉県関宿から、町民の強い誘いがあり、帰郷 して生活を始めていた。
そこに外務大臣となった吉田茂が訪ねてきた。平沼騏一郎枢密院議長が戦犯として逮捕されたため、その後任にとの要請であった。 枢密院は天皇の国務を審議するところであり、憲法改正を論議するのも同院の役 目であった。
当時、GHQ は天皇の戦争責任、天皇制の存廃を厳しく問う姿勢をみせており、皇室 の危機に対して、鈴木は枢密院議長を引き受けた。 今後の政治姿勢について鈴木は「鯉はまな板にのせられてもびくともしない。負けっぶりをよくやってもらいたい」と吉田に注文 をつけた。 鈴木は二十一年六月、天皇の身の上 に異変がないことを確かめて枢密院議長 を辞任した。 以後、再び関宿で一切の公職を離れて、 たか夫人とともに静かな生活に戻った。
天気のよい日にはモンペ姿に杖を持 って、鈴木は田園をよく散歩していたが 、日本で最高ポストについて いた人とはとても思えぬ温厚な老人となっていた。
深刻な食料不足を何とか解消しようと付近の農民を集めて、知り合いの農業専門家 を呼んで勉強会なども開催していた。
昭和二十三年になると、体力も落ちて散歩の回数もへり、気持ちのよい日は机に向 かって「洗心」と揮毫して、訪ねて来る人にわけていた。最晩年になって鈴木もようやく、妻との穏やかな時間を得た。同年三月に入ると先の短いことを悟ったのか、自分と夫人の戒名をいち早く作った。
「私とお前の戒名をつくったよ」
と言って、病床の鈴木はたかに見せた。鈴木の戒名は「大勇院尽忠目貫居士」。たかのそれは 「貞烈院賢徳目孝大姉」。たかは 「私にはもったいなさすぎます」と言ったが、「まあ、どちらも嘘じゃあるまい」と、すがすが鈴木は清々しい顔でたかを見やった。そこには、他の誰も入れない夫婦の究極の安らぎが漂っていた。翌月、八十二歳で亡くなった。
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