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「Z世代のための日本リーダーパワー史研究』★『電力の鬼」松永安左エ門(95歳)の75歳からの長寿逆転突破力②』★『戦時下は「渇しても盗泉の水をのまず 独立自尊の心証を知らんや」と隠棲し茶道三昧に徹する』★『雌雄10年、75歳で「電気事業再編成審議会会長」に復帰』★『池田勇人と松永安左エ門の「一期一会」』★『地獄で仏のGHQのケネディ顧問』』

   

  

2021/10/06/日本史決定的瞬間講座⑪」記事再録

渇しても盗泉の水をのまず 独立自尊の心証を知らんや

戦時下には社会主義者から自由主義的な知識人、学者まで検挙されたが、財界トップの松永は公職を拒否して隠遁することで、福沢精神の自由主義的な思想抵抗を最後まで貫いた。当時の心境を「渇しても盗泉の水をのまず独立自尊の心証か知らんや。」と歌い、茶道三昧に徹することで禪の修行者として俗世界との縁を断ち切った。

 

1945年(昭和20)8月15日終戦。松永は71歳ですでに最晩年を迎えていた。

「軍部、官僚たちに警告をあれほど警告を発したのに」という怒り以上に、国家が滅亡した悲哀悲痛の念に打ちひしがれた。21年の元旦の日記には「悪夢の如き戦禍より脱して、初めて平和日本を迎えた日本新発足の元旦、これくらいめでたい事はない。その代り極寒にもまさる厳しさが直に各人の身に迫り来る・・」「すでに私は隠居者であり、茶道に生くる者である。静かに若い日本の行末を凝視しょう」と書いた。

 売り食いの生活を続けながら1947年(昭和22)、柳瀬山荘(東京都東久留米市)と蒐集していた古美術品をそっくり東京博物館に寄付、小田原に小庵を結んで、老夫人と二人だけで「裸で生れてきたのだから裸にかえるのが当り前」「わたしにも、いやわたしにこそ戦争責任がある。みんなが苦しむときには苦しまなきゃいかん」と丸裸の質素な生活に徹していた。

  • 雌雄10年、75歳で「電気事業再編成審議会会長」に復帰

1949年(昭和24)11月、すでに75歳となっていた松永の自宅に進藤武左衛門(資源開発庁長官)が突然の訪ねてきた。進藤は、東邦電力での松永の部下で日本発送電副総裁をへて資源開発庁長官になっていた。国家管理となっていた「電力事業を再編成するための審議会会長」への打診だった。

 GHQは日本経済民主化の一環として日本発送電の解体を迫っていた。産業基盤のエネルギー(電力)の増産がなければ日本経済の復活はあり得ない。いわば運命が電力界の「最後のドン松永」に助けを求めてやってきたのだ。破壊され、停電が続く日本の電力事業にスイッチオンできるのはこの男しかいなかった。

 審議会のメンバーは5人で、会長は松永、あとの4人は反対派で「日本発送電」のシンパ、その頭目は日本製鉄社長の三鬼隆だった。同年4月から審議会が始まったが、松永は日発の連中を「官僚のくず」と唾棄(だき)して、「自分が日本の電力は一番よく知っている」との自負心から審議会で意見を戦わせる気はなかった。日発派は政府、役人、労組総ぐるみで松永の追い出し工作を図ってきた。一方、GHQは米国流の電力業界の自由競争を日本に植え付けたいと考えていた。

  • 「小僧とは何ですか」「悔しかったら、わしよりも歳を取ってみろ」
  • 第一回会合のあとに、松永は担当のGHQのケネディ顧問の元電力会社社長時代での月給の額をたずねて「案外少ないものですね。私の場合はあなたの10倍か20倍はもらっていた。それに、私のほうが経験も多そうですね」とあけすけに言ってのけ、周囲の度肝を抜いた。

 ケネディは松永のこのストレートな物言いに逆に好感を持った。審議会では松永会長の独演会が多く、事務を担当している資源エネルギー課長が「審議を促すと、松永は「「小僧! 退場を命じる」と怒鳴った。「そんな馬鹿な」「出ていけ!」「小僧とは何ですか」「悔しかったら、わしよりも歳を取ってみろ!」と再び怒鳴りつけ、審議会のメンバーから失笑がもれるシーンもあった。

 

 審議会では三鬼隆委員らは日発を支持して、水源ダムー発電―送電―配給一体型の10電力体制で利益、電気料金もほぼ均一に分配する「プ‐ル方式」を主張した。一方、松永は日発支配から脱して9電力に分割(現在と同じ体制)、それぞれに自主独立の経営にあたり、水源ダム開発では日本アルプㇲ山系の河川を東京、大阪の電力会社にわける「タコ釣方式」の訴えた。

GHQは松永案に賛成したが、電力会社に地区外での発電を認めず「タコ釣方式」を否定した。松永は老体に鞭打って何度もGHQに足を運び、「経営に自主性を持たし、リスクを冒して電源を開発していかないと発展はない」と熱心に説得を続けた。

結局、審議会は日発、松永の2組の答申を認める異例の展開となったが、国会解散で審議会も解散してしまった。

1952(昭和27)年10月、吉田内閣下で池田勇人蔵相が通産相兼務になって、状況が一変する。松永は早速、池田通産相を訪ね、日本の復興と電力再編成について、まず国の発展を優先させる持論を熱心に主張し続けた。

  • 池田勇人と松永安左エ門の「一期一会」
76歳の松永の執念ともいえる数字とデーターによる理路整然とした説明に24才歳下の池田蔵相は目からウロコが落ち、これは本物だと直感した。「よろしい。あなたの案で行きましょう。私にお任せください」と即決したのです。
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 池田勇人は1899年(明治31)、広島竹原市の生まれの大地主、酒屋の息子で、京大法学部卒業後、1925年(大正14)に大蔵省に入省したが、3年後に全身に水泡が広がり痛みと膿(うみ)がでる難病の「落葉性天疱瘡(らくようせいてんぼうそう)」にかかった。
不治の病と宣告され、32年(昭和13)に大蔵省を退職し竹原にもどり、療養生活に入った。この間に看病疲れで新婚間もない妻も病死するという不幸のどん底、絶望を経験する。
四国八十八ヵ所を白装束姿で巡礼の旅に出て一心不乱に祈った結果、奇跡的に回復し、大蔵省には34年(昭和9)に復職する。数字と税制に強い池田は家業から商売にも通じており、決断力と実行力では大蔵省内では群を抜いた存在だった。寄り道したのに45歳で主税局長、47歳で大蔵次官ととんとん拍子に出世し、1949年(昭和24)に衆議院議員に初当選し、吉田首相に見込まれていきなり大蔵大臣に抜擢された。
池田は大胆不敵な性格で、「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、「貧乏人は麦飯を喰え」など放言癖で何度か問題を起こしたが、決断は早かった。池田がこの時、もし通産大臣を兼務していなければ、松永案が日の目を見ることは決してなかったであろう。
池田と松永の出会は茶道の「一期一会」そのもの。茶道三昧で禅の悟りを開いた茶人耳庵の経営学を聞いた瞬間に池田は霊感に打たれたのです。松永の経営言行録の中に、大成する人間の条件として
  • ⓵大病を経験する。
  • ②貧乏生活、倒産などを経験する。
  • ➂修羅場をくぐって人生の辛酸をなめ尽くす。
などを挙げているが、池田はこのすべてを体験していた点で松永とも共通していた。2人は意気投合する。松永、池田の子弟関係がここで結ばれて、池田の唱える「所得倍増論」、日本経済大国へ向けての高度経済成長のインフラ整備の大プロジェクトが始まった。
1950年(25)年、池田は松永嫌いの吉田首相を説得して、松永案をもとに「電気事業再編成法案」を国会に再び提出したが、政界、経済界の松永への反発が根強く再び審議未了となり、廃案寸前となった。
  • 地獄で仏のGHQのケネディ顧問

 ところが池田通産相に次いで、松永にとって地獄で仏ともいうべき強力な援軍が再び現れた。GHQのケネディ顧問である。ケネディ顧問は「あなたの熱心さには負けた。電力会社に自主独立を求める九ブロック案でいきましょう」と土壇場で賛成に転じた。
ところが、政府は松永案を日発派の画策で国会に提出を再び見送った。GHQはこれに激怒し、1950年10月、伝統の宝刀を抜いてマッカーサー元帥の書簡によって、吉田首相に対して「松永案による電力再編成を実施せよ」とのポツダム政令を発令した。この結果、発送配電一貫の民営九社と、通産省から独立した公益事業委員会の発足が決まった。孤立無援で奮闘してきた松永の長寿逆転突破力による九回裏、逆転満塁ホームランとなったのです。しかし、まだ「各電力会社の料金値上げ問題」という松永の最後の難関が残っていた。

 

1951年(昭和26)に政府の経済安定本部は「自立経済計画案」をまとめ3年間に2500億円を投じて97万キロワットの電力を開発、電力需要増加率を3%とはじいた。しかし、松永はこれに反対し、電力需要を年率8%とした「電源開発五力年計画」を作成、「3%では日本経済の復興はできない。米国での電源開発資金導入も8%を主張し、政府は手持ちの見返り資金の全額を電源開発に投入すべきだ」と強く主張した。

 松永は、のちに参議院商工委員会で、主婦連の奥むめお氏の質問に答えて、その理由をわかりやすく説明している。

「電力再編成で9匹の乳牛が生まれた。適正な料金を払うというのは、エサを与えることだ。飼料を十分に与えず、三度のものを二度にするというのでは、国民を養ってくれるお乳が出ない。子供がかわいいのであれば、飼料代をケチるのは間違いだ」と主張した。ここでの飼料代とは電気料金のこと。

51年5月1日、新会社が発足し、各電力会社の電気料金は平均76%の大幅値上げ案を提出した。政府、国会、官界、労働界、マスコミ、国民のすべてからごうごうたる非難の声がわき起こった。
「こんな高い電気代では生活できない」「電力の鬼・松永を殺せ」「松永と米国独占資本の謀略だ」と連日、反対デモが東京都中央区木挽町の公益委事務局に殺到した。松永は生涯最大のピンチに陥った。
ところが、この時、松永は「禅の無」の心境だったのです。欲得や名誉心などかけらもなかった。日本の再建と復興、発展という敗戦以前から考え抜いてきた方程式を解いて、「岩は割れる」の闘志を燃え上がらせていた。電力会社には「俗論に耳を傾けるな」「自立できる必要な電気料金の改正を断固行え」とハッパをかけ、世論の反発を一層の招き窮地に陥った。しかし、この土壇場でもGHQが松永案の援護に回って平均30%の値上げで最終的に決着した。

つづく

 

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