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日中韓近代史の復習問題/『現在の米中・米朝・日韓の対立のルーツとしての中国・韓国の外交詐術は変わらない』★『記事再録/日本リーダーパワー史(705) 『日清戦争の引き金の1つとなった防穀令事件 <1889年(明治22)>』★『最後の最後の最後まで、引き延ばし、拒否戦術で相手をじらし土壇場にならないと妥協しないのは中国/朝鮮側の常套手段』

   

   /日本リーダーパワー史(705)

日中韓150年史の真実(10)

「福沢諭吉はなぜ「脱亜論」に一転したか」⑩『日清戦争の引き金の1つとなった防穀令事件

<1889年(明治22)>とは』ー防穀令を布いて穀物の輸出をストップし、朝鮮地方官がワイロを貪ったのが原因』②

前坂俊之(ジャーナリスト)

日清戦争の原因の1つとなった朝鮮の『防穀令事件』とは一体なにか。

明治16年(1883)、日朝両国が締結した通商条約「日朝修好条規」の第三十七条に、「朝鮮国政府において、もし水害、干ばつあるいは兵擾などの事故ある場合に、しばらく米穀の輸出を禁じようと思うならば、その期に先立つ一カ月前に、地方官から日本領事館に通知し、しかるのち、これを決行する」という防穀令の規定が設けられた。

防穀令事件はこれに端を発するもので、明治22年(1889)9月から翌年の4月にいたるあいだ、朝鮮政府は穀類が豊作であったにもかかわらず、条約に定められた手続を踏むことなく、防穀令を発布して、穀類の輸出を禁止し、日本商人の穀物運搬を妨害、その携帯金品を押収して、多大の損害を与えた。日本政府は「朝鮮政府の措置は条約違反である。損害賠償を求める」と要求した。

これに対して、朝鮮政府は、「防穀令の廃止は承知する。しかし、損害賠償には応じない」との態度に出た。この交渉は、さきの山県有朋、松方正義の2代の内閣で行なわれたが、難航した。第二次伊藤内閣になった明治25年(1892)、ようやく朝鮮政府は、損害賠償を六万余円(日本側要求は二十余万円、その後、十余万円余)にしてもらいたいー大幅な減額を要求してきた。

この朝鮮流の詐術外交(数字のごまかし、減額不当要求、話し合い拒否、引き延ばし戦術、ころころ変わる外交交渉)に何度も苦渋をのみ、手こずってきた歴代内閣は、ここで強硬手段をちらつかせた。

この防穀令の突然の執行停止も、これに携わる『朝鮮地方官』が大幅なワイロを要求し、金額のピンハネをしていたことから起こったことを、林董外務次官はつかんでいた。このワイロ、ピンハネは清国、その属国の朝鮮(中国でも同じ)で数百年続く腐敗役人の常套手段であった。

-朝鮮政府は、明治17年(1884)の甲申事変以来、清国の勢力をたのんで日本を軽視してきた。防穀令の措置が不当であるのを知りながらも、その発布をあえてし、しかも、賠償について法外の減額を要求してきた。すでに朝鮮流外交を手の内を知った日本政府は、断固とした手段を決めた。。

そこで、明治25年(1892)九月に、外務省通商局長のポストにいた原敬(のち首相、政友会総裁)を特派し、朝鮮公使・梶山鼎介を助けて交渉させたが、結局、要領をえなかった。伊藤首相は陸奥宗光外相と相談して、「自由党の領袖である大石正巳君を弁理公使に起用して、交渉をさせる」と、取り決めた。

大石が公使になって朝鮮に向かったのは、明治26年(1893)二月、第四議会の最中だったが、ここでも朝鮮の外務督弁は調査未了を口実として、いたずらに交渉を長びかせるだけだった。

大石の強行談判によって、やっと三月九日に『賠償金額をさらに四万七千円に減額する』と回答してきたのには。大石は激怒、堪忍袋の緒を切った。これを突っ返して、強硬談判におよんだが、これまた交渉不成立。

大石は日本政府あてに、

「このうえは、期限を切って、朝鮮政府の回答を督促するほかはない。これに応じなければ、仁川、釜山税関を占領することとして、両港に軍艦を派遣されたい」との電報を発した。

日本側としては、朝鮮が強気でいるのも、うしろに清国がいるからであると知っており、大石に訓電した。

「清国の駐韓弁務官・衰世凱と協議せよ。なお賠償金は総額十四万四千円を主張すること」

大石はすぐ袁世凱を訪ねて交渉した。袁世凱は斡旋を承知したものの、四月三十日にいたって大石に回答してきた。

「朝鮮政府は、元山の防穀令に対する償金として、六万円以上を支払うことはできない。黄海道の防穀事件については責任を認めないという。これが、朝鮮としては最後の決意である。清国政府としてはできるだけのことはしたが、これ以上は調停の道はない」

この回答を受けた大石は、妥結の見込みはないと認めて、政府に最後通告を発するように連絡した。

伊藤内閣は五月二日の閣議で、「二週間の期限を与えて回答を促す」と決定し大石に訓電した。いわば最後通牒であった。

大石は五月四日に朝鮮の外務督弁・趙趙秉(ちょうへいしょく)に最後通牒を手渡したが、朝鮮側は回答せず。しかも、二週間の期限が切れる寸前に、突然、趙は外務督弁を辞任して、責任を回避しょうとした。伊藤内閣としては、

「もはや非常手段に訴えるほかはない」と態度を硬化し、陸奥外相、西郷海相が協議し大石公使に、朝鮮からの引きあげを命じた。

大石は、すぐに引きあげを朝鮮政府に通告した。公使館の国旗を撤去して、館員とともに引きあげようとした。これをみて、朝鮮政府はおおいにあわてて、新たに外務督弁となった南廷哲が再交渉を求めてきた。その結果、五月十九日になり、『防穀令によって生じた損害の賠償として、十一万円を支払う』という回答を寄せてきて、難航していた防穀令の賠償問題はやっとは解決をみた。

最後の最後の最後まで、引き延ばし、拒否戦術で相手をじらし土壇場にならないと妥協しないのは朝鮮側の常套外交詐術なのである。

、これは1年後に勃発した日清戦争の原因の1つとなったのである。

(以上の参考、引用文献は戸川猪佐武『松方正義と日清戦争の砲火』講談社、1983年、53-56P、などを参考にした)

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