『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の失敗研究』⑰』★『なぜ「黄禍論」は「日本禍」となったか 』★『W・K・フオン・ノハラ著、 高橋輝好訳『黄禍論-日本・中国の覚醒』(2012年)二冊を読んで、大変啓発された』★『三国同盟の主犯は在日ドイツ公使「マツクス・フオン・ブラント」だった』
逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/17am700)
なぜ「黄禍論」は「日本禍」となったか ―
「黄禍論」についての注目すべき2冊の本を読んだ。元共同通信記者・高橋輝好著「日・独の闇に消えた男」―「野原駒吉」探索ノートー2009年9月刊)、W・K・フオン・ノハラ著、 高橋輝好訳『黄禍論-日本・中国の覚醒』(2012年,国書刊行会)の二冊を読んで、大変啓発された。
高橋輝好氏の追跡取材によって、これまで謎の人物・野原駒吉による明治から昭和敗戦(1945年)までの「黄禍論」の発生と、「日本禍」、「日本敵視論」の成り立ちから日独関係の戦争裏面史が初めて明らかにされた。近代史を深堀した好著だと思う。
野原駒吉(ドイツ名・W・K・フオン・ノハラ)は父が日本人、母がドイツ人で日本で生まれた。父は野原駒吉(一世)で1867年(慶応3)10月20日生、横浜市中区山手町52番地、士族と書かれている。妻は1886年(明治19)はドイツ人・カトリーナ・アイクと結婚している。その長男が野原駒吉で1899年(明治32)横浜生。死亡は1950年(昭和25)9月26日とある(ドイツ版WiKiによる)
野原は1946年の東京裁判で宣誓した経歴書によると、ドイツ名は「ウイルヘルム・コマキチ・フォン・ノハラ」の名前で、スイス・バーゼル大学・ベルリン大学で美術史、医学を学び卒業、この間「プロレタリアート美術革命同盟」に属していた。その後、1922年(大正11)-1939(昭和14)年までヨーロッパ、アメリカ、南アメリカ、アジアなどを広く世界一周し、日本、ドイツで暮らし、職業はジャーナリストと書いている。
1939年9月より、1945年4月までベルリン日本公使館で情報担当の仕事につき、正式館員ではなく大島浩大使の通訳となり、ロシアのラジオを傍受しロシアの国内政治、戦争、外交につての情報を大島に報告していた、という。

そのため1946年の東京裁判で大島浩の弁護人尋問を受けている。野原は生涯16冊のドイツ語の本を出版している。その中で、日本人論、日本民族論、日本の戦争論に触れたのが、W・K・フオン・ノハラ著、 高橋輝好訳『黄禍論-日本・中国の覚醒』(2012年国書刊行会)である。
高橋氏は「野原駒吉という謎の人物にのめり込んで30年近い。きっかけは「日本人はもともと海賊」という趣旨の記述だった。調べによると野原は、日独合作映画『新しき土』の原作者らしいことが分かった。大スター原節子の出世作映画はまた、日独防共交渉の隠れ蓑でもあった。日独の裏面史に特異の影を落とす野原の『黄禍論』は、「黄禍」を切り口にした世界史的なスケールのユーラシア大陸での東西関係論、民族移動史、モンゴルのヨーロッパ侵攻史でもある。また1930年代の物騒な時代の日独関係史としても読み応えがある。
私がこの中で、特に興味を持ったのは三国同盟の主犯はドイツであり、在日ドイツ公使「マツクス・フオン・ブラント」であったという点である。「黄禍論」からこの部分を引用して以下で、紹介する。(同書60-62P)
ウィルヘルムニ世と恐ろしいタコ
ドイツ帝国が初めて日本に派遣した公使が最大級の日本嫌いだったことは不幸だった。それはマツクス・フオン・ブラントで、彼は一八六七年から一八七五年まで、東京で公使を務め、その後、北京で十五年間公使を務め、ここで彼は主席外交官として大きな功績を立てた。彼は王政復古の最初のころの日本を知っていただけで、その時代は権力が将軍から天皇に移り、天皇派と将軍派が戦った。
その結果、全てが大混乱し、古いものが軽んじられるとともに、新しいものは、改良したつもりが反って悪いものとなり、または性格を変えて引き継がれた。
日本と日本人に対する嫌悪、日本人に対する低く、しばしばまったく誤ったフオン・ブラントの考えは、同じこのころに形作られ、強固となったドイツ゚帝国の代理人としての立場を考えれば、恐らく故なしとしないが、彼が北京勤務を終えての帰途、日本を通過した機会を利用して、その間に日本がどれだけ進歩したのか、その目で確かめ、少しはその見方を補正するチャンスがあったのに、敢えてそれをしなかった。彼は日本に立ち寄ったが、滞在しないことで日本社会を素っ気なく扱った。
日本社会は彼の興味を信用していたのに、彼の好意を得られるとまでは考えていなかったとしても。彼は長期にわたる中国での活動と日本駐在の経歴の結果、ドイツ帝国政府にあって当然ながら、この方面の権威とみなされたため、ベルリンの宮廷と政府にその意見を反映させることができ、成功がまったく覚束ないのに日本が差し迫った中国との戦争に乗り出し、それ故、ドイツの関心は日本より中国の側に志向すべきだ、という印象を強めた。
日本人は「無視できる国」として扱われ、ここで多分初めて、西欧人にとって、中国と日本の政治的概念における分離が始まった。状況を真実知る者にとっては、それはドイツにもいるのだが、一八九四年の日清戦争の勃発、その十年後の日露戦争において、日本が勝っだろうことは、当然ながら疑う余地はなかった。私自身、その時代を経験した高位の責任ある地位のドイツ人と話したことがあって、彼は私にフオン・ブラントの意向に対し、またその勧めで織り込まれた政策に対し決して同意しなかった、と断言した。」
「日本独自の見通しの判断については、日本の格言を思い出して欲しい。「人はただ、戦争によつて得ることのできるもののために戦争する」。ヨーロッパの公衆にとって意外なことだったが、それは実際に起った。日本は中国を海陸から攻め、その際、中国はいずれにしても軍事的には全く頼りない印象を与えた。ヨーーロッパの驚きと恐怖はいかばかりだったことか。
文字盤の「黄禍」の上の針は日本を指し示した。次に一九〇〇年に中国で暴動が起こり(義和団事件)、ヨーロッパ人の老若男女が虐殺され、ヨーロッパ勢力は鎮圧のため少なからぬ苦労を強いられた。日本は中国に対する軍事的成果を評価されて西側諸国の仲間に入っていて、ヨーロッパ派遣軍の側に立って行動力のあることを示した。針は今度、中国に向いた。
イギリスの政策は既に日清戦争後から戦勝した日本に向いていた。日本は今や十分価値のあるパートナーとして、それどころか義和団事件では尊敬すべき盟友として扱われた。ドイツでは残念ながらそういう状況には進まなかった。そこではその間、フオン・ブラントの芯からの日本嫌いが支配し、若き皇帝ウィルヘルム2世は一八八八年に政権を担ってから東アジア政策においてはフォン・ブラントによってもたらされた立場を目の当たりにして、日中問題の偉大な権威として推薦された外交官以外の報告から、もしかしたら皇帝を日本評価の方向に導いたかも知れないものを引き出すことができなかった。
島国帝国はその間、ドイツに対する連合の申し出を屈辱的に拒絶された後、 一九〇二年にイギリスと同盟を結び、これが東アジア政策だけでなく、ヨーロッパ政策もその後十年間にわたって決定付けた」
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