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『Z世代への昭和史・国難突破力講座⑤』★「日本史最大の国難・太平洋戦争に反対し逮捕された吉田茂首相の<国難逆転突破力>①』★『鈴木貫太郎首相から「マナ板の鯉はビクともしない。負けっぷりを良くせ」と忠告され「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」と外交力を最大に発揮した(上)」

   

「オンライン・日本史決定的瞬間講座➅」記事再録再編集
吉田茂(89歳)「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」
  • 65歳で総理大臣に

  • 六十五歳で総理大臣になった吉田茂は大変遅咲きといえる。日本が太平洋戦争で負けなければ、吉田は一介のへそ曲がりの外交官として生涯を終えていたかもしれない。敗戦という未曾有の国難に一時、囚われの身だった吉田は一挙に歴史の表舞台に返り咲き、六十五歳で宰相になった。普通ならばとっくに引退し、第二の人生に入っている年齢です。

 もともと政治への野心はなかった。公職追放された鳩山一郎から自由党党首の後事を託された際、吉田は「人事に口をはさむな」「やめたいときはいつでも辞める」など虫のいい条件を出して、いやいや引き受けた。

 一九四六年(昭和21)五月、第一次吉田内閣が発足しましたが、吉田の心境は正にマナ板にのった鯉でした。鈴木貫太郎前首相からの忠言「いさざぎよく、負けつぶりをよくすること」を心に刻み「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」と外交力に全力を注いだのです。

 新たに支配者となったGHQ(連合軍総司令部)のマッカーサー司令官とさしで五分五分の外交を展開、そのユーモアとジョークによって、マッカーサーの厚い信頼を勝ち獲りました。マッカーサーと昭和天皇の会談が十三回なのに比べて、吉田は合計七十五回も面会しており、いかに強い信頼関係で結ばれていたかを示しています。

 その強力なリーダーシップと戦略で吉田政権は七年間余の長期におよび、占領期の大混乱をみごとに乗り切り、廃墟と飢えのどん底から中から経済、社会を奇跡的に再建し、高度経済成長への基礎を築きました。国際連合への復帰を目指した1952年(昭和27)当時の世論は、「全面講和か!」「単独講和か!」で国論は真っ二つになっており、吉田首相の「早期単独講和」、日米安保条約締結の決断がなければ、日本の独立はもつと遅れ、こんなに早く奇跡の経済大国になることはなかったいえます。

 その点で吉田首相は「終戦後の大混乱を上手く乗り越えられたのは、天皇陛下と、日本をよく理解してくれたマッカーサ元帥のおかげである」と深く感謝していました。 

  • 自由党創設の政治家・竹内綱の5男に生まれる

吉田茂は1878年(明治11)9月、土佐(高知県)出身で、国会開設、自由民権運動を掲げた板垣退助の自由党創設に参加した政治家・竹内綱の5男として東京で生まれた。1881年、横浜の貿易商人の吉田健三の養子になる。1906年、東大法科を卒業し外務省に入った。父・竹内綱の土佐自由党の精神を引き継いだ「いごっそー」(高知の方言、頑固一徹。快男児)で、外務省でも国際派、英米派の硬骨漢として通っていました。

 

1914年(大正3)、第一次世界大戦が勃発し、日本政府は中国に対し旅順、大連、南満州鉄道の租借期限を九十九年間延長せよとの対華(中国)21ヵ条を要求した。19年のベルサイユ講和会議でこれが認められると、中国各地で学生、民衆による抗日排日の反帝国主義運動「五・四運動」が起こり、これによって中国共産党が誕生した。吉田はこの21ヵ条要求に対して反対し、ワシントン勤務の辞令を取り消され、大臣官房文書課長心得の閑職に飛ばされた。

1916年(大正五)年十月、寺内正毅内閣が誕生した。吉田は中国の奉天総領事館で領事官補をつとめていた際、満州を訪れた寺内陸軍大臣と知り合いになり、以後も、地位は月とスッポンほど違ったが、寺内元帥のところを度々訪れ敬愛していた。吉田が早速、新総理のお祝いに寺内を訪れると、寺内は吉田に向かって、「どうじゃ、総理大臣の秘書官をやらんか」と誘った。吉田は「総理大臣ならつとまるかもしれませんが、秘書官はとてもつとまりそうにありません」とズバリと断った。

吉田は外務省の先輩、幣原喜重郎(後の首相)と仲はよくなかった。幣原が英語の達人で、実務にも明るく神経質なのに比べ、吉田は英語がダメで、万事おおらかな親分タイプ。幣原は欧米のエリートコース、吉田はドサ回りと正反対だった。大正13年、幣原外相は吉田次官の時、吉田が目を通したものでも、すみずみまで再びチェックし、全面的に書き直したこともあった。ある時、幣原外相が吉田の決裁したものに、朱筆を加えたのに、吉田がカンカンに怒り、「今度は局長の次に大臣に見せたまえ、最後に僕が見る。信用できない次官の印など捺すだけムダだ」と言った。以後、省内では「吉田大臣、幣原次官」と呼ばれた。

1931年(昭和6)9月、関東軍が満州事変を起こし、政府は翌年9月に満州国を承認した。国際連盟はリットン調査団を派遣して日本の侵略を認める報告書を提出した。当時外交界の長老の内田康哉外相は衆議院本会議で政友会森恪幹事長の「満州国承認論」の質問に対して「満蒙の権益はたとえ国を焦土に化しても死守する」と「主客転倒」の答弁を行い森を驚かせた。

これが有名な“焦土外交論“だが、新聞も一斉に追随し国際連盟脱退論を唱えたのです。しかし、吉田は「連盟脱退は米英との関係を悪化させ、国益を害する」と反対したが、日本は国際連盟から脱退し「世界の孤児」と化したのです。このあと、内田外相は、吉田に駐米大使に就任するよう求めたが、吉田はキッパリと断った。

吉田は1936年(昭和11)に駐英大使を拝命した。このとき日本政府は日独防共協定の締結を推進し、在外の主な大使から意見を聴取したが、吉田はただ1人反対しています。「協定を結ぶことは、明らかに日本が枢軸側に加わることを意味する。これで将来、日本は英米を向うにまわして戦う羽目になる」と、ただ1人反対しています。

当時、国内でヒットラーブームにわいており、ドイツ駐在武官の大島浩(日独伊三国同盟締結の立役者、終戦後、A級戦犯として終身刑)が説得に来ても、断固跳ね返していた。日独防共協定は一九四〇年に日独伊三国同盟に格上げされて、第2次世界大戦への起爆剤となりましたが、吉田は国際政治力学の行方を鋭く見抜いていたのです。

1939(昭和14年)3月、吉田は駐英大使を最後に退官した。浪々の身のとなったが、世界情勢を憂慮して、戦争へと流される軍国日本が心配でならず、情報収集をしながら暗然たる日々を過ごしていた。

同年9月についに第2次世界大戦が勃発した。大半の政治家、知識人、言論人が翼賛体制になびく中で、吉田は対英米戦争を回避させるため、近衛文麿首相や外交官仲間、親交のあるグルー駐日米大使やクレーギー駐日英大使に会って打開策を側面から説いて回った。

しかし、その甲斐なく、1941年(昭和16)12月8日、太平洋戦争に突入したが、吉田は「開戦のいきさつ」をこう回想している。(回想10年第一巻)

  • 「開戦のいきさつ」

  • 真珠湾攻撃の11日前の11月27日、東郷茂徳外務大臣の代理の佐藤尚武(駐ソ連大使)が麹町平河町の吉田の自宅を訪ねてきた。佐藤は英文の「ハル・ノート」表紙には(Tentative and without commitmentと明記し「Outline of Proposed basis for agreement btween the Unaited State andJapan」(これは試案であり、日米交渉の基礎案)を吉田の義父・牧野伸顕(大久保利通の二男、元外相、内相)に見せてもらいアドバイスを得たいという。

牧野に見せると「この書き方はずいぶんひどいな」といい、しばらくして『和戦(平和か、戦争か)の決定は最も慎重を要する。この重大な時に当たって外務大臣として、その措置を誤らないようにしてもらいたい。そもそも明治維新の大業は、西郷隆盛、大久保など薩摩の先輩が非常に苦心して明治天皇を補佐して成就したものだ。もし日米開戦して、一朝にして明治以来の偉業を荒廃させるようなことがあれば、外務大臣として、陛下および国民に対して申し訳ない」と語ったといいます。

吉田は早速、東郷重徳外相を訪ね、牧野伯の言葉を伝えると同時に、「これは日米交渉のあくまで試案であって、米側の最終案ではない」と注意を喚起した。そして最後に「君はこのことが聞き入れられなかったならば、外務大臣を辞めるべきだ。君が離職すれば、閣議が頓挫するばかりか、無分別な軍部も多少は反省するだろう。それで死んだって男子の本懐ではないか」と忠告した。

その2日後に、親友のグルー米大使が至急会いたいとの連絡があり、虎ノ門の東京倶楽部であった。

グルー米大使は「ハル・ノート」は決して最後通牒ではない。日米両国政府の協議の基礎として認められた点を明示したもので、是非直接、東郷外務大臣に説明したいから、とり継いでもらいたい』という。吉田は早速、東郷外相にあい、12月2日に米国大使館にグルー大使を訪ねて、東郷外相の面会に応ぜずを伝えたところ、同大使は沈痛な表情だった。

吉田が後で知ったことだが、すでに11月29日の重臣会議を経て、十二月一日の御前会議で、正式に対米宣戦の一切の手続きはすんでいたのだ。吉田の和平努力は実を結ばなかったが、さらに吉田は粘り強く取り組んでいったのです。

真珠湾攻撃は緒戦の大勝利で、国中は沸きかえった。だが吉田は冷静に戦況の行く末を案じ、勝利は一時的なもので、いずれ日本は壊滅の道をたどると判断し、鳩山一郎(その後の首相)、岩淵辰雄(政治評論家)、近衛文麿、牧野伸顕、原田熊雄(西園寺公望の秘書)、鈴木貫太郎らに呼びかけて、東条勢力の排除工作を続けた。憲兵の眼が光る中で、東条政権に歯向かうのは命がけの勇気がいります。

開戦後は、グルー米国大使夫妻は、憲兵の厳重な監視下におかれ、大使館内で、窮屈な抑留生活を余儀なくされていました。さわらぬ神にたたりなし、で日本人は、だれも知らん顔でした。ところが、吉田だけはただ1人、クリスマス、正月、グルー夫人の誕生日などには肉や香料、石けん、花束などをたくさん贈っています。吉田は「敵に対しても塩を送るのが、武士道というものだ」を実行したもので、敗戦後、こうした好意と友情が吉田と占領軍の意思疎通を円滑にしたことは間違いありません。

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