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『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座㉚」★『明治開国以来、わずか40年で日清、日露戦争で勝利したのは西郷従道の抜擢した山本権兵衛だった②』★『日清戦争前は世界の海軍力ランキング12位だった日本海軍は、勝利後は第4位に躍進した』

   

 

 日本海軍の最強コンビー西郷従道大臣、山本権兵衛軍務局長

西郷が再び海軍大臣となると、海軍は山本権兵衛の海軍となった。将来の海軍を背負って立つものは,旧式の頭脳を有する東洋流の豪傑ではなく、西欧式の新知識と見識を兼ね備えて手腕抜群のものではないと、西欧の侵略からわが国を守ることができない。
 

そのため、権兵衛の剛腕の実行力に着目し、自己の後継者と考えていた。権兵衛もよくわかっており全力を傾倒して西郷を助けて、所信を直言してはばからず、実績を上げて態度で示した。
 

権兵衛が最初に行った改革は水路部であり、多年ここで惰眠をむさぼり専横をきわめていた部長たちを一斉に首にした。次には進級条例を改正して進級前は必ず一定期間海上勤務を経ることを必要とするように改正した。

実務、営業第一線ではなく、本社でデスクワークで仕事もせずんぞり返っている幹部職を第一線に放り出すのと同じである。
 

この進級條例の改正の真の狙いは権兵衛のライバルの柴山矢八(鹿児島出身で、海軍軍人。明治5年から2年間米国へ留学、山本の先輩、後の海軍大将)が海兵出身ながら、艦船操縦の技術を知らないのでこれを苦しめて追い出す策謀だった。

ところが、大佐として初めて『海門』艦長として海上勤務についた柴山は、権兵衛の予期に反して何等の失態もなく無事にその任務を勤め終った。

追い落としが失敗すると、権兵衛は再び、進級条例を改正して海上勤務に服さなくても進級できるとかえてしまった。

権兵衛がこのような策を弄したのは、年功序列と情実人事が横行し無能者が跋扈していた海軍の旧弊な人事を改め、派閥の打破を目指したものだったが、その後に権兵衛が権力を掌握して自派閥、仲間の跋扈を許す結果になったこともまた事実である。

山本権兵衛の名が世間に知れ渡ったのは西郷従道の下に海軍省主事につき大臣以上に辣腕をふるったためだが、もともと権兵衛は学生時代からガキ大将で、強力なリーダーパワーを持って、常に上村彦之丞、藤田幸右衝門らの乱暴者を率いては校内を暴れ回わっていた。海軍兵学校卒業後も、行く先々でリーダーシップをにぎり、向かうところ敵なしで、海軍の実権を掌握するまでに逆境を経験したことはほとんどなかったという、海軍随一のキレ者だった。

 

壮年時代からわがもの顔に海軍を牛耳っていたが、明治十五、六年ごろ、英国砲術学校制度を輸入し、日高壮年之丞らと共に砲術練習艦「浅間」で、艦長井上良馨を助け、出羽重遠、三須宗太郎、島村速雄の英俊を率いて艦砲射撃の教練に努め、従来の操帆運用にのみ没頭していた海軍の新生面を開いたことは特筆に値する。
 

なぜなら、日清戦争で海軍が大勝利したのも、その操砲技術が清国海軍を大きくしのいだためであり、その功績は山本権兵衛のリーダーシップと技術力のたまものだった。

艦長時代の山本は闘志、覇気とも横溢しており、あの怖いライオンのような顔と迫力、闘志で、到るところで前任者の旧式なやりかたをぶち壊して、先輩でも出来ない奴は遠慮なく首にして、強い海軍を作ることに全精力を上げた。

 

明治二十七、八年の日清戦争は西郷の海軍大臣、山本の海軍省主事時代における歴史上の最大事件である。誕生したわずか20年ほどの帝国海軍にとっても初めての外戦であり、東洋一の海軍を有する清国との存亡を賭けた1戦だった。

明治二十六年五月、海軍官制の改革あり、海軍大臣の管下にあった海軍参謀部を廃止して、海軍軍令部を設け、中牟田倉之助が軍令部長についた。

ところが、朝鮮で東学党の乱による日清間の交渉が日に日に険悪化し、戦争の危機が迫ると、西郷は山本の献策により有事の際は、海軍軍令部長は樺山資紀(かばやま・すけのり)(次女は評論家の白洲正子)の外にないとして、既に予備役に編入され枢密院で休んでいた樺山を直ちにおとなしい中牟田にかえて、軍令部長の職につかせて、即日、連合艦隊の根拠地の佐世保に向わせた。

●山本海軍省主事は予備役に回されていた樺山資紀を海軍軍令部長に大抜擢

豪胆で猪突猛進型の樺山の作戦は大胆そのもので、わが海軍は全力を挙げて清国の北洋艦隊と会戦し、雌雄を一挙に決するーとして、佐世保に赴くと、先づ艦隊の将士の士気を鼓舞するために大号令を発した。
連合艦隊司令長官 伊東祐亨を激励して「白旗を棄てて決死の覚悟を以て臨め」と訓示。

七月二十三日にわが艦隊が佐世保を出港する際には、「高砂丸」にのって港外まで見送りに信号を高くあげ「帝国海軍の名誉を揚げよ」と発した。
第一遊撃隊司令官 坪井航三は「正に揚ぐ」聯合艦隊司令長官伊東祐亨は「確かに揚ぐ」西海艦隊司令長官 相浦紀道は「凱旋を待て」と応答した。
我艦隊の将士たちはこのやりとりをみて感激のあまり泣いた。こうして七月二十五日の豊島の初戦はわが艦隊の大勝利となり、士気大いに上がったが、樺山はまだ心元ないとおもったのか、自から小鑑「「西京丸」に乗って大同江口にあるわが艦隊の根拠地に向い、九月十七日の鴨緑江沖の海戦に参加したという後方にいて全体を指揮すべき軍令部長がまるで無茶である。

●日清戦争勝利では世界海軍力ランキングで12位から4位に躍進した

樺山の西京丸は敵の巨艦「定遠」、『鎮速』に追跡せられて苦戦し、敵の水雷艇「副龍」のために至近距離から二回まで魚雷を発射されたが、何とかかわして当たらす、九死一生を得てようやく危地を脱した、というからスゴイ。

樺山は東洋一の巨艦「定遠」、「鎮遠」(七〇〇〇千トン)の追跡を受けた時も、敵電艇から魚雷を放射されて万事休すかという時も、泰然自若としていたというから命知らずの指揮官。猛将のもとに弱卒なしで、大国清をやぶったのである。

海軍軍令部長の重職にあって、みずから砲煙弾雨の間に馳せ参じたのは古今東西、樺山だけであろう。鴨緑江外の戦闘における西京丸の勇敢さはわが国の海戦史上に特質すべきものである。

 

鴨緑江の海戦後、敵の海軍は全く屏息し、海上権はわが手の内に帰し、戦局はますます有利にすすみ、翌二十八年二月には丁汝昌は自殺、日本の勝利に帰した。

日清戦争では西郷従道も大本営にあり、権兵衛もその剛腕を発揮し、連合艦隊が佐世保を出発するに際して「もし、清国艦隊に遭遇すれば猶予なく発砲して戦端を開け」と訓示した。また、西郷が征清大総督、川上操六に陪して渡海しようとすると、

 

「わが艦隊の主力が澎湖島方面にある今日、海軍大臣たるものが、号令をかけるのに不便なの地に動くべきではない」と中止させた。これまた西郷―山本の絶妙の信頼のコンビにして出来ることであった。

日清戦争前は世界の海軍中第12位だった日本海軍は、一躍第4位に躍進したのである。

 

 

 

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