『リーダーシップの日本近現代史』(108)/ 記事再録☆『世界からは尊敬され、韓国からは逆恨みされ暗殺された伊藤博文(初代総理大臣)の悲劇』★『日韓コミュニケーションギャップ、反日韓国のパーセプションギャップ(誤解、逆恨み)ルーツがここにある』
日本リーダーパワー史(107) 伊藤博文④日本、韓国にとってもかけがえのない最大の人物
日本リーダーパワー史(107)
伊藤博文④日本、韓国にとってもかけがえのない人物
<明治のお雇い外国人ベルツの『日記』から。『伊藤公の個人的な思い出』
ドイツ紙『シュヴェーピッシャー・メルクール』(1909年11月2日付)>
これは明治天皇の御典医であったドイツ人医師・エルヴィン・ベルツの『伊藤公の個人的な思い出』である。伊藤が暗殺された時に、ドイツ紙に書いた追悼文であり、個人的に接した明治天皇、明治の元老の中で伊藤の政治力、経歴、人格にも及んだ人物論でもある。ベルツは伊藤を
① 明治の政治家、外交官の中でも最大、最高と位置づけている。
② 明治天皇からの信任も一番厚かった。
③ 恬淡とした性格、全体をまとめる力がある。
④ その行動力と勇気は並はずれている。
⑤ ユーモアがあり、開放的、陽気で明るい性格である。
⑥ 日本人の中で伊藤は韓国の一番の味方だった。
⑦ 日本人は韓国で学校を建て、鉄道や道路や港を建設した。
日本では伊藤の評価は大変低いが、当時の海外の新聞、ベルツの証言をみると伊藤の偉大さがしのばれてくる。(前坂 俊之)

軌道を踏み外した国家の車輪をふたたび正しい道に戻す必要が出てくるたびに、伊藤を呼び戻さなければならなかった。自分たちが国家の舵取りをしたいと考える若い世代をはじめ、各方面の人々が伊藤を永続的に退陣させようと、あらゆる手段を講じた。
伊藤が五〇歳になった時、東京の有力紙はこう書いた。「日本古来の考え方によれば、男子たるもの五〇ともなれば公職-ならびに家長の地位--を退いて隠居し、老人の仲間入りをするものである。伊藤はそのことに気づき、若い人たちに席を譲るべきだ」と。
しかし公爵が六〇を超えた時、同じ新聞は、彼こそ国民の最良の指導者と謳いあげる記事を載せた。
明治天皇から最も信頼されていた伊藤
伊藤が政治活動からの一時的な引退を気軽にやってのけたのは、もちろん、それでも自分の影響力は揺るがないと知っていたからである。
天皇は伊藤に絶大な信頼を寄せており、彼に助言を求めることなしには、いかなる重要な決断も下さなかった。また伊藤には、一緒に近代日本を作りあげた男たちの支持があった。
今ではみな侯爵や公爵になっている、山県、井上、大山、西郷、松方といった元老(「長老」といった意味)たちである。
彼らは全員、伊藤公の故郷である長州、もしくは薩摩の出身だ。この三〇年、日本を治めてきたのは彼らである。仲間内では時に軋轢や対立も生じたが、外交をはじめ大きな問題ではことごとく一致団結し、成功を収めてきた。これは日本にとって幸せなことであった。というのも、議会はイギリス式の議会政体を声高に求めながら、統治能力を発揮したことはなかったからである。
伊藤公は議会に譲歩し、みずからその最大会派の長に就いたが、これは政党の過激な主張を和らげ、その助けを借りて自分と元老たちの計画を実行するために過ぎなかった。その試みは成功した。これによって同時に立憲制の面目も保たれたというわけだ。

もちろん外見上も、政治手法の点でも、二人は似ていない。伊藤公に「鉄血」宰相の趣きは希薄であった。伊藤はずんぐりした小男で、日本よりも朝鮮によく見られる東アジア的な体型をしていた。けして激高したり、無鉄砲な振舞いにおよんだりせず、常にもの静かで、温厚な笑みを絶やさなかった。
内政、外交を問わず、「時流に柔軟に対処する」というのが伊藤の基本姿勢だった。どんな問題であれ、極端な策を嫌った。伊藤は明らかに、徳川王朝(昔のヨーロッパ人の日本報告では、幕府の将軍たちは西洋でいう皇帝とされていた)の天才的な創始者を手本にしていたようだ。敵対する諸侯をことごとく戦争で打ち負かしたのち、宥和政策によって彼らとの和解を図った人物である。ドイツにおけるビスマルクと同じく、伊藤の政治手法は日本にとって正しかったことが証明されている。
伊藤はまた、稀にみる勇気をそなえていた。それを幾度となく発揮したが、けして戦闘的な印象を与えることはなかった。控えめで穏やかな性格を奥に秘めていたからである。必要とあらば立派な服に身を包み、高位を示す記章を身につけたが、用がすめばできるだけ速く、楽な和服かフロックコートに着替えるのが常だった。
伊藤の発言の端々から、彼がほとんど体裁に頓着していなかった。それゆえ内外から受けた数多くの立派な顕彰も、伊藤の人となりには何ら影響をおよぼすことがなかった。私が個人的に付き合った公爵は、いつも三〇年前に知り合った頃の、爵位も何もない、無欲で快活な伊藤氏そのままであった。
いかなる時も、天性の明るさと落ち着いた物腰が失われることはなかった。日清戦争中の重責を負っていた日々であれ、日露戦争前にロシアとの折衝にあたっていた心配の絶えない時期(伊藤は弱腰過ぎると見られていたため、ほぼ毎日のように暗殺の脅威にさらされていた)であれ、あるいはまた官職に就いていない時であれ、会ってみれば、心配など知らぬげに微笑み、冗談口をたたく男だった。
伊藤は酒と女と煙草を愛し、しかもこれを隠そうとはしなかった。伊藤は、こう言っていた。「諸君ならどうかね?国務に明け暮れる一日の重責を逃れて、頭の中がまだガンガンしている時に、晩酌をするなら、モールを付けた給仕よりも、きれいな芸者の手で酒をついでもらった方がよほどうまいというものだろう」と。ヨーロッパにも、これに共鳴する声は少なくないだろう。ゲーテを思い出してみるがよい。
伊藤の生涯は尋常ならざるものであった。維新の日本で活躍したあらゆる人物のなかで、二本差しを許される侍階級に属していなかったのは伊藤だけである。彼は低い身分から出発したのだ。
日本史1000年の歴史で立身出世男は秀吉と伊藤が双璧
一〇〇〇年にわたる日本の歴史において、伊藤以前にこれだけの立身出世を果たしたのは、「日本のナポレオン」、すなわち秀吉ただ一人である。強力な将軍であり、政治家でもあった秀吉は、三四〇年前に厩番の足軽として人生のスタートを切り、数々の合戦に連勝したのち、男盛りの時期にはすでに全国を平定していた。ところが秀吉の野心は、それで満足することはなかった。彼は「三国」(日本、中国、朝鮮)の皇帝たらんと欲したのである。
「天の下のすべて」(天下)をつまづかせずにはおかなかったのだ。無敵を誇る配下の将軍たちは、たちまち朝鮮に進攻し、中国征服に備えた。もしも朝鮮に李舜臣提督がいなかったならば、数十万におよぶ百戦錬磨の戦士たちは間違いなく勝利を収めたであろう。
朝鮮のネルソンといわれる李は、亀甲艦の最初の考案者でもあった。李はこの装甲艦を駆使して巧みな戦術を展開し、中国出兵のために部隊と食料を輸送していた日本の大きな二個船団を全滅させた。
日本は、多くの死者を出した地上軍を救出しただけで満足せざるを得なかった。ネルソンと同じく、李舜臣も二度目の決戦に仆れた。日本のある大佐が、自国の大敵が葬られている南朝鮮は木浦近くの丘を指さし、畏敬に満ちた面持ちで私にこう言った。「あの男がいなかったら、東アジアの歴史は違ったものになっていたでしょう」と。
世間では伊藤の生涯を秀吉のそれになぞらえるが、日本人の感覚では、これは最大級の賛辞を意味する。かつて伊藤公爵は大磯の別荘で、天才的な画家、暁斎が秀吉の人生の一場面を描いた絵を見せてくれた。「暁斎が私にぴったりだと思って描いてくれたのだ」と、伊藤は満更でもなさそうだった。
伊藤ほどたびたび生命の危険にさらされた人間は少ないだろう。しかし、このたびロシアの大地で韓国人の銃弾に倒れるまで、伊藤は常に窮地を脱してきた。生命の危機はすでに早い時期からはじまっていた。伊藤の友人で若い頃からの仲間である井上侯爵は、こんな話を明らかにしている。
イギリス船員の制服を着込んだ井上と伊藤ほか二名の若者は、日本の官憲が彼らの首をはねようと待ち構えるなか、めいていを装ってイギリス商船に忍び込んだ。当時、国外へ出た者は死罪と決まっており、不穏で怪しげな四人の若者がイギリスへ行きたがっているとの情報を政府がかぎつけたためである。彼らはけして外国に好意をいだいていたわけではない。
逆に、「西洋の野蛮人たち」から航海術を学び取ったあかつきには、外国人をことごとく国外へ追い払い、二度と近づけないようにしようと考えたのである。ところが早くも船が上海に着く前に、この「野蛮人」の能力と仕事ぶりを目のあたりにして、密航者たちの憎悪はしだいに驚嘆へと変化していった。
そして数年後にふたたび故郷の土を踏んだ彼らは、ヨーロッパを手本に自国を改革しようとする熱烈な使徒になっていた。この転向は、彼らに新たな危険をもたらした。今でも井上の頭や体に残る刀傷の恐ろしい傷痕が、それを物語っている。
国外脱出の話は、伊藤公自身の口からも聞いたことがある。彼はいつもの生き生きとした、ユーモアあふれる口調で話してくれた。
伊藤家で開かれた会食でのことだが、客の大半は先に挙げた「長老」(元老)と呼ばれる政治家たちで、私は聖の西洋人だった。食後、小説は誇張ばかりだという話題になった。
するとすかさず伊藤公爵(当時は伯爵)がひときわ大きな声で言った。「諸君、何をもって誇張というか?私の人生をありのままに綴れば、そこらの小説よりもよほど奇想天外に聞こえるのは、ご存じだろうに!」。
英国での思い出話
これを機に話は懐古談に移った。伊藤公爵はいろいろ聞かせてくれたが、そのなかに密航の話もあった。
「私だって、あれは夢ではないかと思うことがあります」と、伊藤は言った。「今は何もかもこんなによくなりましたが、当時は失望の淵から出発したのです!それまで、西洋人より自分たちの方が上だと思っていました。
航海術を学ぼうとしたあの密航には、ずいぶん高い授業料を払いましたよ。ところが技術を学ぶどころか、見習い水夫として扱われ、それはひどい仕事をさせられました。こんなことが何度もありました。
早朝、死ぬほど疲れてハンモックに横たわっていると、船員がロープの端で荒っぽく突っついて叫ぶんです。〈ジョニ―起きろ!ジョニー起きるんだー〉とね。(ジョニーとは、イギリス船員が中国人の苦力を呼ぶ常套語。ドイツ語にすれば、「野郎、とっとと起きやがれ!」とでもなろうか)そして英国に着いてからも、飢えと不安につきまとわれました。いやはや」。感慨深げに紫煙を見つめながら、公爵はこう締めくくった。
「運命の歯車は、時に不思議なまわり方をするものです。当時、英国の一船月に苦力のごとく扱われた私が、今ではわが帝国の最高官吏となり、大英帝国の国王陛下の使者を交渉相手に迎える。まるで夢のようではないですかー」。
伊藤公爵は日本人のなかで韓国人の最大の味方だっただけに、彼が韓国人に殺されたと聞いて暗澹たる思いがする。日本人には韓国に対する一種独特な感情がある。
七一二年に編まれた日本苦の歴史書によれば、紀元二〇〇年ごろ、日本の神功皇后が朝鮮を征服し、当時の朝鮮の支配者は子々孫々までの恭順を誓ったという。
ヨーロッパの批判的な歴史家は遠征の事実を疑っているが、日本人はこれを固く信じている。朝鮮が数百年にわたって日本に朝貢していたことは確かであり、朝鮮と戦う口実を探していた秀吉は、一五八八年、長く途絶えていた朝貢をふたたび要求するという大義名分を持ち出した。今でも日本国民は朝鮮に対する権利を有すると考えている。
日露戦争の少し前、ロシアが日本の対岸にある南朝鮮の馬山浦を占領し、要塞を築こうとしたため、日本とロシアは外交断絶の寸前にまで至った。日本(それにイギリス?)の抗議に、ロシアはその計画を全面的に放棄した。だがロシアの若い外交官の発言は、日本の実力についてのロシア側の評価を如実に物語っている。
ロシアの韓国侵略『あのチビ(日本人)どもは図にのるなら・・』
日本人は馬山浦問題で、最悪の場合、戦争をも辞さなかっただろうと私が言うと、この御仁は嘲るように声を張り上げた。「何をおっしゃる?われわれは馬山浦ばかりか、韓国全土だってものにしますよ。それに、もしもあのチビどもが図にのるなら、対馬を手に入れるまでです」。対馬こそ、のちにロシア艦隊が壊滅の憂き目をみた場所。神は愚行をなさんとする者を破滅させるのだ。
そして日露戦争後、韓国に圧力を加えた日本は、現地で思わぬ抵抗に遭った。暴動と日本人の殺害は、とどまるところを知らなかった。東京の軍部寄りの政党やジャーナリズムは、強硬策と軍の独裁を求めた。
しかし伊藤公はその性格通り、宥和的な措置をとった。腐敗しきった韓国の国家体制に有効な改革を施せば、日本の支配下の方がましだと韓国民に知らしめることができるかもしれない、と伊藤は期待したのである。六〇を超える高齢にもかかわらず、伊藤は総督の重責を引き受けた。
もちろん、韓国を徐々に日本化してゆくという目標をいだいてのことである。「皇帝」は息子に位を譲り、韓国軍は解体され、対外的には日本が韓国を代表することになった。のちに財政と司法も日本の監督下に置かれた。司法に関していえば、韓国民は得をしたのかもしれない。
韓国の役人は想像を絶する腐敗ぶりであったし、司法当局は冷酷かつ野蛮だったからである。
かつて私は首都ソウルの伝道病院で、「司法」の犠牲者たちの体から、文字通りずたずたになった肉片がぶら下がっているのを目撃した。こうした経験をした人間はみな、日本人ならば韓国をよい方向へ向かわせることができるのでは、と考えるに違いない。暴動は容赦なく鎮圧されたが、日本人の立場からすれば当然のことである。同じ状況に置かれれば、どんな民族も同じことをしたであろう。
日本人は韓国で学校を建て、鉄道や道路や港を建設した
ヨーロッパには韓国にいる日本人の残酷さばかりが聞こえてきて、日本人が現地に学校を建て、合理的な農耕や養蚕の指導を行い、鉄道や道路や港を建設し、勤勉で器用な日本の手工業者や農民たちが模範を示している、といった現状はいっこうに伝わってこない。
しかし私は日露戦争前に三度韓国を訪れ、一部とはいえその成果を自分の目で確かめている。昨年、伊藤公爵から韓国訪問の招待を受けたが、あいにく応ずることができなかった。
しかし彼と話をしただけで、彼がいかに多くのことを実行したか、そして慎重に練り上げた計画をまだどれほど懐にあたためているのか、手に取るようにわかった。それもこれも、韓国と韓国人の向上をめざしてのことであった。
今や伊藤の活動に予期せぬ終止符が打たれた。だが、やがて韓国人自身、この暗殺を悔やむことになるだろう。韓国人は、今すぐにでも、鞭よりも苛酷な懲らしめを受けて当然である。
日本にとって伊藤公爵はかけがえのない人物であった。国は、敏腕にして老練な外交官を失い、天皇は最も信頼のおける相談相手を失った。しかし政治家としてではなく、人間伊藤とだけ関わりをもった人々も、早すぎた彼の死を心から悼むことだろう。
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