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日本リーダーパワー史(65) 辛亥革命百年⑥孫文と中国革命と頭山満の全面支援①

   

 
日本リーダーパワー史(65)
辛亥革命百年⑥孫文と中国革命と頭山満①
           前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
(1)荒尾に根津の対支経絡の特色
 
頭山満翁が荒尾精を極めて高く評価していることは、恐らく翁は荒尾を以て自己の分身と思惟していたのであらう。すなはち、南洲の大陸政策の継承者として、出来れば自ら支那に渡って、大いにやってみたいと思ったであらうが・「万国内の情勢を見ると、これまた頗る心許ない。国政監視の眼を緩めることが出来ない。
 
何と言っても日本が根本であり、根本を固める方の仕事を放って置くわけには行かない。そこで適当な分身を発見して、一切をその人に任せ、自分は指示すれば、それでも事足ると思ったのであらう。そこへ荒尾が現われたのである。翁が彼に嘱望したのは、当然すぎる程当然の成行であった。
 
不幸にして荒尾は早世した。然し根津が後を継いで、荒尾未完の事業を完成している。この荒尾-根津の支那経絡の特色は、列国の侵略から支那を守ることが第一点であり、支那自身をよく知ることが第二点であり、支那経営の人材養成が第三点である。その意味において、荒尾-根津の経絡は完成せられているといえる。しかし頭山翁の大陸政策は、決してこの数点を以て尽きるのではない。翁は実にそれ以上のものを期待したのである。何であるか。
 
日支の心からなる提携であり、その提携を完成するには、提携に値するだけの対手方を支那に守り立てねばならなかったのであった。清朝は決してこのやうな意味で提携の対手方とはなり得ない。ここに翁の支那革命を支援した理拠が存している。
 
(2)支那革命運動の胎動とその発展
 
では支那の革命運動はどうして起ったか、どのように発展しつつあったか。百年前の阿片戦争が欧米支那侵略の第一歩であり、その結果締結せられた1842年の英清南京条約が、いわゆる不平等条約の発端であることは、今日事々しく説明するまでもない。

だが同時に、欧米の侵略に対する支那民族の反発も踵を接して起った。広東における「平英国」の蜂起は実にその嘱矢であつた。

それから後、支那民族は果敢な反侵略闘争を展開する一方、何故にこのやうな侵略を受けるかについて深刻な反省を加へた結果、最大の原因として、当時の支那を統治していた清朝の政治腐敗を発見した。
 
どうしてこの腐敗した政治を改革するか、この命題に対して、国民の諸階層は各々の立場から色々の答案を書いた。その中の最も優秀な二つの答案は、ともに知識階級の提出したものであった。すなはち、康有為、梁啓超一派の君主立憲運動及び孫文主唱の民族革命運動であつた。
 
孫文は逸仙、一八六六年(慶応二年)広東省香山県に生れた。兄がハワイ草分けの華僑で、孫もそこで教育を受け、帰国後クウィーンス・カレッヂ、広東博済医学校、香港アリス医学校等を卒業して医者になったが、在学中革命の志を抱き、明治二十七年ハワイに革命秘密結社「興中会」を起した。翌年第一回の革命運動を広東に発動したが、失敗して横浜に逃れ、転じてハワイに赴いた。この時横浜まで同道したのが陳白であるが、孫文は彼を菅原伝に紹介した。

これが支那革命党と日本人との関係の端緒である。孫文と菅原とはハワイで識り合ったものと伝へられている。菅原は陳を曽根俊虎に紹介し、曽根は更にこれ宮崎弥蔵に紹介した。すなはち滔天・宮崎寅蔵の兄である。宮崎兄弟は志を支那に懐き、弥蔵は横浜に在って支那商館のボーイとなり、支那語、支那事情を研究していた。不幸にして彼は病にかかり寅蔵に孫文、陳白のことを伝へるひまなく死んでしまった。
 

しかし、寅蔵は兄の生前の手紙によって、兄が革命党員らしい支那人と識り合ひになったことを知っていたので、それとなく物色してゐるうち、曽根によって陳白と相識るに至った。当時、陳白は宮崎に対し、孫文を首領として戴くものであり、孫文のことはこれを読めば判るといって『ロンドンで誘拐された孫逸仙』なる小冊子を与へた。この書は孫文がハワイ、米国を経てロンドンに到り、支那公使館に幽閉され、旧師カントリー等の尽力に依って釈放されたテンマツを、孫文自ら記述したもので、明治三十年の出版である。宮崎はこれによって孫文及び革命運動の大要を理解することが出来た。道々彼は犬養毅の尽力により、外務省の補助を得て、秘密結社調査のために南支那に行くことになったので、陳は宮崎を同地方の同志に紹介した。
 
宮崎はその便宜を得て、初期の調査を遂行中、興中会のもと会計・匡鳳塀から、孫文がロンドンを出発して日本行の途中であることを聞かされ、急きょ横浜に帰着し、孫文と待望の会見を遂げたのであった。時に明治三十二年三月、この時の会見の模様は、宮崎の半自叙伝で、明治の一大奇書といわれる『三十三年の夢』に詳しく出ている。
 
率直なる宮崎は会見の結果を総括して「彼何ぞその思想の高尚なる。彼何ぞその識見の卓抜なる。彼何ぞその情念の切実なる。わが国人士中、彼の如きもの果して幾人かある。誠にこれ東亜の珍宝なり。余は実にこの時を以て彼に許せり」といっている。
 
3)孫文、翁を初めて識る
 
宮崎はこの共鳴を同志平山周に分ち、犬養及び平岡浩太郎に会い、主として平岡の資助に依って東京に一戸を構へ、平山の語学教師の名義で、陳白を加へて四人が同居した。
 
これが孫文及び支那革命と日本志士との結合の嚆矢であり、頭山翁もその年、宮崎が孫を伴って翁を訪問したので、初めて相識った。翁も一見して孫を傾倒した。今に到るも孫に対しては幾多革命党員中特別扱いで「あれは超越していた、彼自身もまた自らを信じていた」と評価するところすこぶる高い。孫も亦翁に対して全幅の信頼で、大正十三年、孫が北京に赴くの途次、神戸に寄港し、翁が西下して彼をオリエンタル・ホテルに訪問した時の如き、真に相抱かんばかりに喜んだという。
 
猩々猩々を知り英雄英雄を知る、孫は日本政府の支那革命党に対する態度がどうであらうとも、翁及び翁の同志だけは常に味方であると信じ、むしろ翁を政府の一敵国として、日本の外交が革命反対であつても、安んじて翁の懐に入ることをした。孫と日本志士との交際は翁と相識って以後、だんく広くなった。
 
後に萱野が胡漢民の依頼を受けて調査した時、日本における孫の相識は三百人以上に上ったという。亡命毎に孫を庇護していた翁や犬養の外、平岡、安川の如く幾年にわたって毎月の薪水を送った人があり、家屋敷を売った人、骨董を払って授けた人など、枚挙にいとまがない。孫文が最後まで日本を忘れなかったのは、実にこれら志士の献身の影響である。まことに孫文、支那革命と日本志士との関係は、難難の交りと称すべきである。
 
これから後、支那革命運動は年を逐うて盛んとなった。明治三十三年には恵州事件(日本志士山田良政が戦死)三十六年洪全福の起義、三十七年黄興の長沙事件等が相継いで起り、三十八年には孫と黄興一派との握手が成立し「中国革命同盟会」が組織された。これこそ支那革命各派の大同団結である。そして孫文・興の橋渡しをしたのは宮崎、末永節等であった。
 
三十七年渡欧して支那留学生の糾合に成功した孫文が、三十八年の夏東京に帰って来ると、待ち構えていた宮崎らは、孫を黄興、宋教仁等に紹介したのであった。最初の会合の場所は神楽坂の鳳楽園といふ支那料理屋で、革命党大同団結の議が成立し、数日後富士見橋で孫文の歓迎会が開かれ、留学生1000余名が集った。次いで内田良平邸で下相談会を開き、これには支那各省代表数人宛が出席、最後に坂本金弥邸で発会式を挙げたのであった。
 
4)革命の曙光を認む
 
同盟会の結成は支那革命史上に恵を画するもので、これからわずか六年後に辛亥革命が起り、中華民国が成立したのである。孫も余程愉快であったと見え、自伝の中に次のやうに叙している。
 
 「革命同盟会が成立してから後、予の希望はこれがために一新紀元を開いた。しかしこれより先き、身、百難の衝に当り、挙世の非笑唾罵するところとなり、1敗恵敗、而して猶猛進冒進したのではあるが、然し革命排済の事業の、よくわが身に及んで(生きているうちに)成るとは思わなかったのである。その百折回らなかった所以のものは、既死の人心を振作し、将さに尽きんとする国魂を昭穂し、我に起いで起るものをしてこれを為さしめようと期したからであった。乙巳(明治三十八年)の秋、全国の英俊を集合して革命同盟会を東京に成立せしむるの日に及び、我はじめて革命の大義の身に及びて成るであらうことを信じたのである。ここにおいて敢て中華民国の名称を完立して党員に公告し、これをして各々本国に回り革命の主義を鼓吹し、中華民国の思想を伝播せしめた。
 
初年ならずして加盟者万人を適へ、支部もまた先後各省に成立した。これより後、革命の風潮は1日千丈、その進歩の速かなる、人の意表に出づるものがあった。
 
孫文のこの言のやうに、同盟会成立後の清々たる革命思潮は、文字通り燎原の火の如く、呉樹の憲政考察大臣爆撃、徐錫麟の安微巡撫恩銘刺殺から鎮南関の役、江精衛の北京爆弾事件、広州三月二十九日の役(黄花里十二烈士事件)等に到るまで、約二十回の革命実践があり、終に明治四十四年武漢において「辛亥革命」の勃発をみるに至ったのである。
 
                            (つづく)
 
参考文献「頭山満翁正伝(未定稿)1943年版」(昭和56年、葦書房)
 

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