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115年前ー1896年(明治29)、三陸沖大津波では最高30メートルの津波で、岩手、宮城県で2万7千人が死亡

   

115年前ー明治29年三陸沖大津波で30メートルの津波、2万7千人死亡
 
                             前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
<松本清張監修『明治百年100大事件(上)三陸沖津波』三一新書 1968年>
 
今からちょうど115年前
 
1896年(明治二十九)六月十五日は、旧暦では端午の節句に当たる。南の牡鹿半島から北の尻屋崎付近まで、陸中海岸に点在する漁村は、久しぶりに帰郷した若者を迎えて、どの家の灯も明々と輝やていた。
 
 陸中海岸は、その入りくんだ海岸線が漁港に適し、むかしから近海漁業の盛んな土地である。明治二十九年は三十年ぶりのマグロ、カツオの大漁ににぎわった。引きあげられた網の中には、銀鱗をひらめかせた魚がピチビチとはねていた。
 「大漁の年にや津波があるという話じゃ、気をつけんばあ」と、心配性の古老がいっても、「どうせオレ達の生活は、船底一枚下は地獄の毎日よ。津波なんかにビクビクしていたら仕事になんねえべえ」と、威勢のよい漁師はとりあわなかった。
 
ちょうど40年前の1856年(安政三年)の津波では全体で41人の死者が出た。もっとも多く死者が出たのは釜石市の両石で9メートルの津波があり、大船渡では1メートル弱しかなかった。このため三陸の人々は、大きな津波を経験していなかった。だから、土地の古老が「何か起りそうな気配がある」といっても、目前のマグロ、カツオの大群に気をとられていた。端午の節句にも、休むのが惜しいと沖にでた漁師がいた。
 
 この日も地震が何度もあった。「それにしても随分とゆれるなあ」「なあに海の神様が魚と遊んでんだべ」―。この三日間、三陸海岸の一帯は、中震、微震が合計六十回ほども頻発していのだ。
 
 六月十五日午後七時三十三分、三陸一帯に微震があった。強くはなかったが長く、十数分間も続いた。
軒先きに吊した味噌玉が、振子のように激しく振れた。神棚の灯明も倒れ落ちた。
とにかく、異常に長い地震だった。「なんだ、なんだ」と、さすがに屈強な男でさえも腰を浮かせたほどである。「おっ母、おっかねえ」と、子どもは叫んで、母親の懐ろに飛び込んだ。震動は、繰り返し襲ってきた。
 
 八時二十分ごろ、ドカーンと、地鳴りのする轟音が伝わってきた。「何んでえ、海軍の演習か」と、男たちは驚いた。三陸沖では、よく海軍の演習が行われていたのである。
地震の震源地は釜石沖東方二〇〇キロの海底火山の爆発によるもの。やがて三陸海岸の海は、目に見えて引きはじめた。夜間であり、陸も海も折からの雨でもうもうと煙っており、家に引きこもっている人々の中で、この異常な現象に気づいた者はいなかった。
 
 「津波だ、津波だっ」どこからともなく叫びあう声に人々は顔を見合わせた。すでに、なすすべはなかった。ゴロゴロッとひき臼をひくような音が迫ったかと思うと万雷の音響とかわり、三十メートルもある怒涛が部落をたたいた。無防備の家族は抱きあって身をすくめるばかりであった。
 
 床下から水が噴きあがり、星根を裂いた波頭が、滝のように人々の頭上に落ちてくる。あわてて外に飛びだした者は、あっといえノ間に波に押し流されてしまった。手をにぎりあい、柱にしがみつく。
 
 今度は、海は急激に引きはじめた。それは、さながら人も家畜も、土台から崩された家星も、海辺に存在するあらゆるものを、強大な力で持っていった。助けを求める叫び声は、むなしく波音にのまれてしまった。
 潮が引くと、たちまち、浜辺の村は悲しみのルツボと化した。女子どもは、肉親を求めて泣いた。苦痛にうめく声が満ちていた。雨の降る闇夜に、遠雷のような波浪が鳴っている。浜辺は、一面泥沼となり、崩壊した石垣、倒壊した家星で足の踏み場もない。その間に波にうちのめされた死体が、重なるように連なっていた。
 
 防備の態勢を整える余裕もなかった。三十メートルの波浪は、十五分ほどの間をおいて三度、激しく三陸海岸を襲った。三陸海岸は壊滅した。
 
 
『国民新聞』(六月二十日付)
 
「津波の為に崩壊せる村の跡は、一面荒廃して修羅の如く、十軒ばかりの草星は土台下の石と共に壊れて、家星だけ五、六間前後の畑の中、若しくは街道の中央へ持去られしものあり、
二階屋の壊れて道路へ横倒しになりたるものあり、軽き板葺の屋根は大抵大風に打倒されしが如く横倒しになりて、海の中の岬の如く突き出され、附近には箪笥(タンス)、長持、櫃(ひつ)、葛龍(つづら)、畳、建具その他の家財諸道具、水に浸りたるまま縦横無尽に投げ散らされ、牛馬を始め犬其他の家畜の死したるままにて、浮べる醤油桶と共に水浜に漂い、米は俵のままに、夜具及び衣類は縄にて縛りたるまま水に浸りて手の附け様なく」
 
 三陸海岸の漁村は、すべて、深く湾内に入り込み、わずかに開いた前面を除いては山にかこまれ、ちょうど、スリバチの底のような地形である。海と山の間の狭い平地に、ごちゃごちゃと人家が密集している。このような地形は津波にとっては、一番被害が出やすい地形である。
 
 
『時事新報』(620日付)
 
「岩手県、宮城県の被害一岩手県下の死者一方六千」(十九日年午前6時40分青森局発へ花巻発)
 被害地への物品輸送等の手配ほぼ整いまた青森県下は比較的に被害少なきに付き、小官は岩手県被害地へ出張のため、昨朝青森発、本日釜石地方へ向かう。一 昨夜岩手県知事の話によれば、県下のみにて死亡者一万六千以上の概算、海嘯(かいしょう)=(河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象の高さ25メートル(60尺に及びもところありと。
 県庁は糧食の運搬、医師派遣等焦眉の急に努め居るもへ、交通不便にて情報意のごとくならず被害者ともに困難なり。電線は鋭意修築に従事し居るも、大槌、山田、宮古へは未だ通ぜず。
 山田町の死者一千余名。
一昨十五日午後八時頃再三の地震あるや否や、一時に海嘯(かいしょう)(河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象)も来たり、ために一方より失火、当町過半流焼、死亡者ほぼ一千名余、オヲサ村(大沢か)、船越村全村残ら流失、避難者十二人を残すのみ。その他近村流出はなはだしく、惨状見るに忍びず。当局も破壊せもれ一、・仮局を当町230番戸に設け事務を取扱う。電報、機械無事。
 
 
 
この津波で、二万七千余人が死んだ。
 
死体るいるいでどこの浜辺でも、折り重なっなり無残を極めた。とくに被害が大きかったのは、大船渡、綾里、唐丹、釜石、本吉などである。唐丹村では、人口二千八百余人のうち、二千五百人が死んだ。実に、十人のうち九人が亡くなった勘定になる。釜石村では人口六千人のうち、五千人が死んでいる。
 夜網に出漁していた漁師が、津波の襲来を知らずに朝帰ってみると、自分の部落が、一夜のうちに〝蒸発″していたという話もあった。
 
 宮城県本吉郡十三ケ浜には、仙台刑務所の雄勝石苦役所があった。津波襲来時、百九十七人が収監されていたが、七人が死亡しただけ。囚人二人がこのドサクサにまざれて逃亡した。
 
 
岩手県被害詳報〔十九日午前十一時二十分発、岩手県知事〕
 
 その後の報告によれば、東閉伊都山田町流失家屋は六百六十余、溺死者二百余、かつ倒れ家より火災生じ、死傷せしものその数未詳。
大沢村字大津は三戸の外皆流失、人畜死傷おびただし。織笠村流失家屋二百余、死者二百余、層芋船越村字船越流出家屋九十四、死者四百五十、同村宇田の浜全村家屋流失、同村大浦流失家屋五十、田老村死亡千四百、セイゾウ(生存者か)皆重軽傷を負う。
重茂村流失家屋百六十、死者七百。南閉伊都久慈港死者四百余。野田村死者二百五十九、破壊家屋九十余。宇都村破壊家屋四十八、死者百六十。キタノへ(北九戸か)郡タケイチ(種市か)破壊家屋四十死者百。侍浜破壊家屋五百、
死者百余、北閉伊郡小本村流失家屋百三十、死者三千五百六十七、同シマノコシ死者八十余、その他にて、今朝までの報告によれば、県下に於いて死者おおよそ一万四千余、流失破壊家屋四千余、負傷者未詳。
 
宮城県下の被害別報〔十九日午前六時十五分仙台発、久米参事官〕
 
 昨夜当地着、只今まで知り得たるところによれば、本県下死者三千百三、負傷五百五十五、流失及び破壊家屋九百七十三、内本吉郡だけにて死者三千四十三、負傷者五百五十、流失及び破壊家屋八百八十九にして、これに次ぐは桃生郡牡鹿郡とす。
 なかんずく本吉郡歌津村のごときは、総戸数六百一にして家屋ことごとく儀失し、死者六百余人、負傷者二百余人。唐桑村は総戸数七百七十二にして流失家屋二百六十二、死者八百二十三人なり。
 
 
 被害地には医者二十人、看護人六十一人を派し、もつぱら負傷者の治療に任ぜしめ、また知事、警部長、参事官等それぞれ出張中にて、差し当り救助には不都合なき見込み、
 
大津波の報が東京に着いたのは、二十四時間後であった。
 
被害のあまりの大きさに世間は震撼した。日赤、陸海軍、民間の救援活動が始まった。しかし、政府は、日清戦争の戦後処理にいそがしく、わずかに四十五万円の救済資金を出しただけで、お茶をにごしてしまい、世論はこれを激しく非難した。
 
三陸海岸は、津波と切っても切れない関係にある。歴史によれば貞観十一年五月(西暦八六九年七月)の大津波(千人死亡)からだが、昭和八年三月三日と三十五年五月二十四日のチリ津波がある。大津波は、三、四十年ごとに襲来するといわれ、小さい津波はちょっと数えきれないくらいである。
一般的に漁業を営む人々は、離村しようとはしない。三陸海岸が稀にみる好漁場、ということもあるが、〃船底1枚下は地獄″という生活から生まれた不屈の意志がある。
 
〔大船渡市盛町洞雲寺入口津波記念碑〕
 
「明治二十九年六月十五日といふ日は、実に悲しく痛ましく忘れんとするも忘れ難き日なりぬ。(中略)就きて我岩手県は其被害最も甚しく、その中にても本吉はことに最も甚しかりき.潮の海面より高く騰(あが)れること百尺(30m)に。
高山を浴となし深谷を陵となしのみにはあらず、これがため沿岸十二町村の間、流亡破壊せる家屋二千七百三十余戸、溺死者五千六百七十余人、負傷者五百五十余人、孤独となれる者百三十余人、全家死亡して相続者無き者百十余戸に及びぬ。
累々たる死の岡に横たわれる中には乳児負へる母のみなから泥に埋れたるあり。破毀潰屋の山に打揚られ狼藉たる中には負傷者の頭の皮剥かれたるか血に塗れて、伏せるあり、其惨状譬ふるに物なかりき。(後略)」
 
 
 
 
 
 

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