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★『明治裏面史』/ 『日清、日露戦争に勝利した明治人のリーダーパワー, リスク管理 ,インテリジェンス(53)『宇都宮太郎の大アジア主義思想④』★『朝鮮軍司令官時代に、三・一独立運動での強硬弾圧を拒否、大衆運動に対する実弾の発砲を禁止した』

   

 ★『明治裏面史』/ 『日清、日露戦争に勝利した

明治人のリーダーパワー,  リスク管理 ,インテリジェンス(53)

『宇都宮太郎の大アジア主義思想④』

 『日本人は朝鮮人と結婚すべし』

  以下は宇都宮徳馬『暴民損民」徳間書店(1984年、18-24P)より

小学校の二、三年の頃、父(宇都宮太郎)が旭川師団長になって私の一家は北海道の旭川にいた。厳寒の毎朝、漢文の『大学』を素読させられたのには閉口した。何の意味もわからないなりに、文章だけは自然におぼえたが、年がたつにつれて、暗諭していた文句の意味がいろいろに解釈できるようになり、今は無益のことでもなかったと思っている。

 朝食の前に、一家そろって神棚の前にすわり、かしわ手を打ちながら、次のような文句を言わされた。

  • 、君には忠をつくすべし
  • 、親には孝をいたすべし
  • 、兄弟は仲よくすべし
  • 、御飯中にしゃべるべからず
  • 、嘘をつくべからず

ところが、朝食がはじまると、七、八人の子どもたちがさっそくしゃべり、けんかをするなど、神前の誓いはさっぱり果たされず、父もしまいには苦笑いをしていた。

父は、自身に課することは厳格をきわめていた。朝の礼拝の前に、北海道の零下十数度という極寒の日でも湯殿駐在武官当時の宇都宮太郎で冷水をかぶる日課を欠かさなかった。

 父にほめられたことはめったになかったが、生き物を大切にしてほめられたことが、二、三度あった。

元来、日本の武士道は、自分の命を軽んずるところはあるが、無益な殺生はこれを厳に戒めていたはずである。だが、騎兵、暴兵は無意味な戦争を起こしたがり、結局、無益な殺生をして国を滅ぼすことになる。

 父は、酒を大いに飲んだ。もとより貧乏軍人であったから、自宅に部下を集めて痛飲するのを快しとしていた。いわゆる〝道楽〟はあまりしなかったと思っていたら、後年、荒木貞夫から聞いたところによると、これも相当やったようである。陸大の幹事時代に、学生だった荒木貞夫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%A4%AB

や松井石根(元大将)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9

らを引き連れて、深夜の赤坂界隈をずいぶん排掴したということである。

なかなかユーモラスな直言癖が、父にはあった。参謀本部第二部長を兼任した東宮御用掛時代のことと思うが、あるとき、大正天皇と皇后を前に置いて「馬と女房は、おとなしいほうがよい」と放言し、しまったと思ったがあとの祭りだったという話も母から聞いた。

第一連隊長時代のこと、隊の将校連中がだらけて、むやみやたらに部下を叱り、威張っていた。これに腹を立てた父は、自分が中隊長になって、将校連中を兵隊に格下げし、営庭でオイチ二、オイチ二をやらせたという。庶民に威張る軍人は、どうやら昔からいたようだが、そういう手合いが権力を握り、国を誤らせたと言えなくもない。

父の公的な生活で強く私の印象に残っているのは、朝鮮人と中国人に対する態度や考え方である。

とくに朝鮮人に対しては、日本人以上に親愛感をもっていたらしい。日本人は朝鮮人と結婚しろというのが父の持論で、ある日、子どもの私をきちっとすわらせて、自分の書いた論文を読まされた。その内容は要するに、日本の男は朝鮮の婦人と結婚せよ、朝鮮の男は日本の婦人と結婚せよというものであった。

母が傍にいて、そんなものを読ませるのはまだ早いと言って笑っていたが、父は大まじめで、私は子ども心に、自分は朝鮮人と結婚させられるなと思ったものだ。

 父と朝鮮との関係では、どうしても忘れることのできない金応善

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%87%89%E5%96%84

という人がいた。頭のいい少年を自分の弟のようにして育てたのだが、のちに李王の武官長になった。伊藤博文の媒酌で日本の美人と結婚した。酒飲みで、さのさ節がうまかった。父の死後もたびたび訪ねてくれて、酔うと父の思い出話をしながら泣くので、母は困っていた。

 小学校六年生のときに、父は朝鮮軍司令官になった。龍山のドイツ人技師が設計したという、立派な、いわばこけおどしの官邸の住人となったが、そこでまず私たち子どもを集めて戒めた嘉は、けっして朝鮮人を『ヨボ』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%9C

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1075419090

と呼んでほならぬということだった。出先の日本人は傲慢になって、ふつう二人称としても三人称としても、朝鮮人を「ヨボ」と呼んでいた。子どもたちが、ついうっかりヨポという言葉を使おうものなら、父にはげしく叱責されたものだ。

ヨボというのはもともと悪い意味の言葉ではないはずだが、当時の日本人は侮辱的な感じでこれを用いており、朝鮮人の反感を買っていた。

 平服の父に伴われて、街にぶらっと散歩にでることがあった。こうしたとき、朝鮮人の老婆や子どもに接する父の態度は、この民族に心から親愛感を抱いている人でなければできないものだった。

 父の朝鮮軍司令官時代に、三・一独立運動、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95

http://www.y-history.net/appendix/wh1503-027.html

いわゆる万歳事件が起こった。

これは大正八年(191931日から約1年間にわたってつづけられた、日本の統治における朝鮮民族の独立運動で、それは日韓合併後、日本の統治に反対する最初の、そして唯一の公然たる大衆運動であった。

デモの群衆が「朝鮮の独立万歳」を絶叫したところから、万歳事件と呼ばれる。この背後にはアメリカ人宣教師があったが、父は独立運動の幹部とも接触し、事態の収拾に全精力を傾けた。長期にわたったこの事件で、父はまったく心身を労し、これが父の死の直接の原因ともなるのである。

事件当時、陸軍省の軍事課長をしていた真崎甚三郎(元大将)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B4%8E%E7%94%9A%E4%B8%89%E9%83%8E

から、のちに聞いたことであるが、陸軍部内では、宇都宮軍司令官が弱腰だから朝鮮人がつけあがるのだという非難の声が支配的だった。

真崎大佐は、同郷の先輩である父に、強硬弾圧策を進言するために京城までやってきたが、父はかえって彼の不心得と非常識を強くさとしたそうである。

父は軍人の名誉をおびやかされる場合のほかは、大衆運動に対する実弾の発砲を禁止し、このため、大規模な運動のわりには負傷者が少なかったと言われている。

万歳事件が、のちに国際連盟の問題になったとき、実弾発砲禁止の軍司令官命令が厳然として存在していたため、外交上、日本の立場はとても有利だったということである。

真崎はこの外交経過をみて、はじめて父の真意がわかったと言っていた。

話は飛躍するが、1973年(昭和48年)に金大中事件https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

が起こったとき、私はKCIAhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%83%A8

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%99%A2

による計画的な犯行と断定して、黒幕の朴政権をはげしく糾弾した。これに対して、韓国側から父が朝鮮軍司令官であったことを持ち出されて、非難、中傷を浴びせられたが、このときばか。は、あまりの激怒にからだがぶるぶるふるえたものだ。

父を非難するなど、自国の歴史を知らなすぎると私は声を大にして言いたい。現に私の手もとには、朝鮮の歴史家、朴殷植による『朝鮮独立運動の血書』(東洋文庫)があるが、この中に次のような記述がある。

『いまや全国民の連動は、日1日と燭烈さを加え、総督・長谷川好道

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93

は、大兵力を動員して徹底的鎮圧の計画をたてていた。しかし、軍司令官宇都宮大将はこの計画に抗議して、『朝鮮民族は、五千年におよぶ歴史的精神をもっている。威圧によってこれを服従させることは、けっしてできない。わたしは兵力を動員できない』と言った。

しかし長谷川は、本国政府に電報をうってあらたに増援軍の派遣を要請し、ほしいままに虐殺をおこなった」

この一節をもってしても、父への非難がいかにいわれのないものであるかが明白だろう。

万歳事件のあと、原敬内閣は父を朝鮮総督に推したが、おそらく山県有朋の反対によってであろうが実現しなかった。万歳事件の心労から翌大正九年、父は病を得て帰国し、軍事参議官に任ぜられた。そして大正11214日、62歳で逝去した。

 父の朝鮮への愛情は、中国からアジア全体に広がるものであったが、これは明治の日本人の思想であったとも言えるだろう。尊王接夷が討幕開国に変わったとき、日本人が鎖国をといて近代と世界に目を見開いたとき、世界は欧米の支配下にあり、アジア、アフリカはほとんど植民地化され、中国も朝鮮も分割の寸前にあった。

 しかし、当時の中国と朝鮮の旧式な腐敗した政府、非能率的な政治では、独立の維持は困難であった。それゆえ日本の心ある者が、日本の存立の立場からも、両国の革命勢力に支援をおくり、完全に近代化され独立した中国、および朝鮮の出現を心から望んだのは当然であった。

孫文、黄興、朝鮮の金玉均らが来日して、東京はあたかも、アジアの近代化革命の中心の観を呈した。

< この項は終>

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